June 18, 2015

【186】G・マクドナルド『リリス』

何日か間を置きながら、時にうつらうつらしつつ読み終えて、こんなものがあるのかと思った。圧倒的なイメージの氾濫。非現実的なのに具体的な景色がこれでもかこれでもかと繰り出される。イメージの豊穣性。種を蒔いた土から、次々に芽が出て双葉を広げ、蛇のように首を持ち上げ、茎を伸ばし、無から花を、その花びらが予め折りたたまれていたかのように、色彩を開かせる。美しさと同じぐらい醜さ、おぞましさもその豊かなイメージで溢れさせる。

このイメージの氾濫と同時に、時間軸の氾濫もとても激しい。様々な時間を行き来するとか、時間が意味をなさない部屋があるとか、そういう物語としての大きなレベルでの氾濫もそうだけど、もっと小さな、文章のレベルでの時間軸の氾濫も甚だしい。

 なにか恐るべきものが到来しようとしていた! 雲みたいな存在が明滅し、震えた。足なしトカゲに似た銀色の生きものが、かれらのあいだから這いだし、ゆっくりと土の床を横ぎって、火のなかにはいっていった。わたしたちは身動きもせずに坐っていた。なにかがいよいよ近くへやってきた。
 だのに時は気まま過ぎて、深夜が近づいたけれど、あいかわらずなにも起こらなかった。夜はほんとうに静まりかえっていた。沈黙を破る音ひとつなかった。火のなかからも、木の落ちる音ひとつ響かない。板からも梁からも、軋みひとつ聞こえてこない。ときどき体がもちあがるような感じがした。けれど大地にも空気にも、そして地中深く眠る水にも、さらにわたしの体にも魂にもーーとにかくどこであろうと、それらしい原因は見つけられなかった。恐ろしい審判の感覚が、私を襲った。けれど怖くはなかった。なぜといってわたしには、行わなければならないこと以外に気になることはなにひとつなかったからだ。
 とつぜん深夜が訪れた。布を巻いた女性は立ちあがり、しとねに向かった。[401-402]
ここで読み手の時間は、「なにか恐るべきものが到来しよう」としている直前の高まりからはじまり、「なにかがいよいよ近くへやってき」てとさらに一段と煽られて、しかし次の瞬間、「だのに時は気ままに過ぎて」しまう。それが文字通り「とつぜん、深夜が訪れた」ことになる。走りだそうと身をかがめて、あとは号令を待つだけという筋肉の緊張をあざ笑うかのように待ったをかけ、不意打ちのように過去の出来事にする。

この読書感は、現代の小説では「読者が置いていかれている」として好まれない要素ではないかと思う。現代の文学は、読者の文章を読む視線の動きを把握し、その文字を認識してからイメージが立ち上がる反応までをスムースに制御することを求められる。意図的に断裂を作ることはあっても、それは、それが断裂による効果を持つことが計算されて書かれている。このことから、現代の文学はそういった読者の読み進む視線の動きを、そこから予め読者が予想する文脈までをもコントロールするように進化した、と言うこともできるかもしれない。しかしそれは例えば、近年の映画やTVが、その創生期の頃に比べて、緊張感を持続させ画面以外へと集中が逸れないように、つまり「タイト」になってきたことと同じで、このことを表現の進化と呼んでしまうのは「進化前」の表現を「進化後」の世界から見るものの特権あるいは傲慢で、その表現がなされた時に生きてその表現に出会ったとしたら、それを「ルーズ」だったり「雑」だったりと感じるわけではない。

だから、この「リリス」で描かれる時間軸の氾濫は、これが書かれたころの人々の時間軸ではごく正常に受け取られている可能性があって、さらにその可能性は、圧倒的なイメージの氾濫さえも、現実の認識としてあり得たというところまで届く。




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