人の死や産はそれまであった人の関係、つまり社会というものに乱れを生じさせる。この現状のシステムに対する撹乱がケガレである。というようなことを山本幸司は『穢と大祓』で書いていた。
人の暮らしに近い牛や馬といった家畜の死もその「社会」に入りうるけれど、人の死ほど大きな影響はないから、ケガレの等級は下がったりする。
さらには、この世の中がなんとなくうまくいっているという意味での「自然」に対しても、その撹乱はケガレとして扱われる。大きな木を切ったり、大きな石を動かしたりする行為は自然を乱すからケガレである。
網野善彦は職人歌合に出てくることから「農人」すら(歌合の時期には)ケガレと見ている。土を起こす、土地を乱すという意味で。
田起こしという言葉もあるけれど、起こすというのは文字通り寝ているものを呼び覚ますことで、自然に対して「起こす」ということは天変地異である。
人の力を超えている仕組みである自然が乱れること、つまりこの天変地異の引き金がケガレであり、畏怖の対象となる。
そういう意味であれば、話された言葉を記録して文字に起こすという行為もまた、自然に消え行くものを引き止め、呼び起こしている以上、ケガレに属する行為なのかもしれない。文字が人の力を超えた神の領域のもの、つまり無縁として扱われたのはそういう理由なのだろう。
「吉本隆明の183講演」の文字起こしをしながら、たしかにこれは何かを「起こし」てしまうかもしれない、それは今の状況に撹乱を生じさせるかもしれない。そんなことを考えた。