出かけて行ってどこかでやるのと違って、どこまでも自分との縁がある場所。いたるところにその縁が露出している場所。ここに居る以上、縁から逃れることができない場所。それが家である。
家が寛げるというのは、自分との強い縁によって生じている。過去にあったモノゴトが、今もあり続けている。その時間軸を貫くつながりこそが縁であり、家にいるだけで、家にあるモノゴトとの縁は一瞬ごとに強くなり続けている。
しかし、網野善彦によれば、そもそも家は無縁でありアジールだった。
ある場所を仕切り、そこが誰のものでもないということを宣言することによって、その人のものになる。その人の家になる。
土地・人間・を問わず「私的所有の原点」は、まさしく家にあることは疑いない。[「増補 無縁・公界・楽」p222]無縁から有縁が生じる。無所有から私的所有が生まれる。
この無から有というプロセスを逆にたどるようなこととして、円坐を設定するということがある。家を再び、誰のものでもないと宣言すること。円坐を開くということはそういうことで、「私的所有の原点」での円坐は、だから原点への回帰であり、最後の場所での円坐である。ここより向うはまだ名付けられていなかった、対比されるもののない原無縁だけが広がる。