この6月で第4期が終了しました。少しお休みして8月より第5期を開始します。
好きなものについての話を真面目にやるという機会自体、意外に少ない気がします。それをやってみたらどんな感じになるのか、関心のある方、ぜひエントリーしてください。
表現研究会
前回(第4回)までは、鑑賞の邪魔をしないほうが良いのではないかと、観に来てくださった方の様子を伺っていたところがあったけれど、今回はできるだけ喋りかけてみることをやってみました。自分の作品についてだけではなく、他の出展者の作品についても僕なりに思うことや感じることを勝手にしゃべりました。
結果どうなんだろうか。鬱陶しがられていたかもしれないし、そうでもなかったのかもしれない。それぞれの鑑賞者にとってどうだったのかは正直なところよくわかりません。
でも一つ確実に言えることは、僕自身はとても楽しかった。
自分が話をしたり、なにか言ってもらったり。それに対してまた何か考えて話す、そういった複数のやり取りができた。しかもそのやり取りはほかでもない、自分自身の作品や表現、一緒にやってきた仲間の作品を通してだった。
とても幸せだった。
今回の自分の制作を通して得られたも最も大きいことは、自分が表現したいと欲する漠然とした雰囲気を、最終的に作品として成立させるためには、形式やスタイルというのが重要なのだと実感できたこと。
形式が重要なのだということは理解はしていたけれど、形式の持つ重要性の、一体何がどう重要なのか、という実感はあまりなかった。今回とりあえず、その重要性が、要するに「作品として成立するかどうか」という判断そのもの結びついていたのだ、と思えた。
ありがたいことに作品に対して沢山感想をいただいた。すべてとても貴重で、大事にします。ありがとうございます。
そのなかで一つだけ挙げると「フレームを傾けると文字がばらばらと落っこちそう」というものが印象的だった。これは全く想定していなかった。けれど、そう言われて見れば確かにそうで、自分でも驚いた。
後付で考えてみると。
アラタ文字は見様見真似でアラタが見本を模写したもの。正規の文字学習で「文字として練習で書いたもの」とは異なっている。現に、この春から小学生になって国語の時間でアラタはひらがなを点線をなぞるようにして練習しているが、「アラタ文字」のようなものは書いていない。
アラタ文字は、文字が文字として確定される以前の、固定化前の図像で、それがかろうじて文字としても読める状態。記号というもの自体がまだ、アラタのなかでも完成していない「これで字(記号)になっているのだろうか」という不確定な感覚で描かれていた。その仮止めの感じが、画面を不安定にさせていたのかもしれない。
「こんなんでいいのだろうか」。何かを確かに手に握ったという「手応え」に至る前の感じ。とても興味深い。この感じをもう少し進めてみたいと思いました。ありがとうございます。
オープン前に出展者でのオープニングミーティング。残念ながら、あんころもちの新は不在。 |
4月の月1のミーティングで制作途中のものを見せびらかす。 |
オニィステッカーは、12種類。箱から1枚引いてもらう。どの柄が当たるかはわからない。 |
表現研究会で大谷隆が発表したレジュメです。
2025-04-14 大谷隆
画家。1978年生まれ。Hedgehog Books代表。京都在住。
僕がjunaidaさんを知ったのは2024年。ロームシアター京都の蔦屋書店で「IMAGINARIUM」の表紙が目についた。この本は間違いないという「あの感じ」があったので、その場で買おうと思ったが、絵本がいくつかあるようなのでそちらも調べてからと思って家に帰り、まず「怪物園」を注文。アラタも葉ちゃんも気に入ってくれた。それから積極的に集めはじめる。画家というよりも絵本作家として。
奥付めくればcozfish。
美しい絵であるだけでなく、アイデアがあって、面白い絵。画から離れたところから「見る」「眺める」という視覚的なものというよりは、絵の世界に入って体験する感じがあるのがとても良い。絵の世界で遊ぶ(play)ことができる。
主題が画面の真ん中にあって、そこに視線が集中するといった、消失点のある透視図法的な画面の構図は少なく(そのような絵もあるが)、画面全体のあらゆるところに、何かが息づいていて、絵の中に潜入することで、意識の周囲に絵の内部世界が立ち上がって、そこに滞在することができる。全体を見通すことができず、視界は部分に限定される。物陰が重要。曲がり角の向こうがある。
好きな点の1つ目として、登場人物への〈感情移入〉に頼らずに、表現された世界への〈潜入体験〉を実現していること。むしろ、登場人物の感情表現は、かなり控えられている。それでも〈潜れる〉。このあたりに「現代的な絵本」を感じる。登場人物への感情の〈同化〉とは異なる方向で「ドラマ」を生んでいるように思う。
感情の移入や同化によって臨場感を出そうとすると、「子供向け」のものはどうしても啓発的・教育的になることが多い(大人向けだと露悪的な方向もあるが)。その点でもjunaidaさんの作品は、「正しさ優位」にならざるを得ない「教育啓発」的雰囲気とは違っていて、非生産的な「単なる遊び」の領域にとどまる。善悪基準から自由なところで面白さを実現している。
好きな2つ目。絵本は普通、「絵と文」という構成要素で捉えられる。別の言い方だと「視覚と言語」。でもjunaidaさんの絵本はそのような二分法で捉えるものというより、それより上位にもっと能動的な体験があるように思える。だから、文章がどうこうとか絵がどうこうというだけではすくいきれない魅力がある。
この上位の魅力は、もう少し突っ込んで言うとすれば、ゲーム的な面白さだと思う。ゲームは「視覚や聴覚や言語的なメディア」という言い方よりもまず「積極的なプレイ体験」として意味がある。自分自身が主人公として行動することでそれを実現している。
junaidaさん自身がゲーム好きだったりゲームを意識していたりするのかは不明だが(検索しても出てこなかった)、そういったゲーム的な能動性を誘発する感じがある。ゲームの面白さと似た面白さがある。
「ほぼ日」のjunaidaさんのインタビュー。
junaida 僕の場合は、僕の絵を見て空想してもらえたら、うれしいですね。
junaida その絵の直前直後の場面、このキャラクターはどこから来たのか、これからどこへ行くのか、いったい、どんな性格してるんだろう、こっちのふたりは友だちかな、恋人どうしなのかな‥‥。そういう、絵の前後左右を自由に想像できる余白みたいなことを、つねに意識して描いているので。
(インタビュアー) お客さんって、そういうことを絵の前で、話してたりするんですか?
junaida してますよ、たまに。友だちどうしで来てくれたりすると。そんな場面に遭遇すると「あ、遊んでもらえてるなあ」って。
ほんとうにjunaidaさんの絵本は遊びたくなる。「物語の世界に誘われる、ひたる」というよりもさらに一歩進んだ「そこで遊んでなんぼ」感が強い。
文字通りロールプレイングゲームのモンスターのよう。ポケモンだったり、古くは「ドラゴンクエスト」の鳥山明のキャラクターデザインも想起する。それぞれの怪物の背景に「設定がある」感じ。横顔、正面などがあって、一つ一つが考えられていて、そのようなモノとしての存在感がある。
アイソメトリックな視点で消失点が無い。ゲーム用語的には「見下ろし型2D視点」。迷路のような道を指でたどっていく。ものすごく原初的な「道を進んでいく楽しさ」がある。ゲームのマップ画面のよう。幼児期の記憶として残っている「未知の道」「曲がり角の向こう」「階段の向こう」のワクワクがある。進むだけで楽しい。階段があって高低差があったりするのも楽しい。テキストなしだけど、ストーリーもある。
これもテキストはないが、明確にストーリーがある。生まれたばかりの主人公が育っていってあらゆるものと出会い、やがておじいさんになる。自分が世界をそのようなものとして捉えていく。
junaidaさんのアイデアは、誰も思いつかない斬新なアイデア、というよりもむしろ、誰しもが子供の頃に一度は冗談や遊びとして思い浮かぶような、「普遍的なアイデア」。それを高いレベルで実現している。緻密で過剰な表現力と想像力。
で、今年はゲームの話をなるべくしていこうと思っています。
子供の頃(70年代から80年代)、小説と漫画とアニメとゲームが好きだった。このうち、小説、漫画(あと映画、テレビドラマなど)にのめり込んでいることに対して後ろめたさはほどんどなかった。
一方で、アニメには若干、ゲームには強い「非社会性」を感じていた。ゲームは、漫画・アニメのあとに登場した最後のサブカルチャー。アニメとゲームは、まさに僕の世代をターゲットにして生み出されたもの。
たぶん今でもゲームは、一般社会的には「最下層のエンタメ=取るに足らない暇つぶし」という「下位」に位置していると思う。「ゲームなんてやってないで・・・」。僕自身、高校生ぐらいで、こんなことをしていてはだめだと思いゲームから距離を取った。それから20年以上のブランクがある。
5年ぐらい前に「マインクラフト(2011-)」が「世界一の販売数(ダウンロード数)」と知って興味を持って調べる。その時、「ボクセル(ピクセル)調の一人称視点なんてマニアックなゲームが世界一で、しかも10年も開発が続いてアップデートされているのか」と驚き、現代のゲームを取り巻く情況に興味を持つようになった。Steamのような世界規模のゲーム配信プラットフォームの存在もその時知った。
ゲームに対する社会的意識は、僕らの時代とは大きく変わっている。極端かもしれないが、今の20代ぐらいまでの人たちには、ゲームは教養(リベラルアーツ、解放のための技術)なのではないか。僕らにとっての漫画のように。
ヒップホップの人たち、ビートボクサーやラッパーもゲーム好きが多い。アニメ好きも多い。大谷翔平さんはフォートナイトでメジャーリーグのチームメイトと仲良くなった。山田涼介さんはapex legendsの「プレデター(上位750人、0.3%程度)」を達成。
80年代のあのころからずっとゲームに真面目に踏みとどまり続けた人たちのことを思うと胸が痛む。プロゲーマーの梅原大吾さんとか。
ゲームを学術的に扱った研究書。ゲームの面白さとはなにかを「学術的に」論じ(ようとし)ている。「ゲームの何が面白いのか」を議論する基盤を少しずつ積み上げていって、みんなで「ゲームの面白さ」の話ができるようにしていく。じっくりとした議論の進め方自体がとても面白い。それこそゲームをやってる感じ。少しずつワールドマップが広がっていく感じ。
「本学会は2011年4月28日付けで、日本学術会議より「日本学術会議協力学術研究団体」に指定されております。」。ゲーム関連学会が、日本にも。
今、一番元気の良いアート領域は、たぶんゲーム。未成熟なワクワク感。大きなメディアにあらわれてくるアート情報は、既にアートとして受容されているもの(絵画や彫刻など「過去芸術」)が多いが、現在の美術の内部でホットなのは「ゲーム」なのではないか。もう少し厳密には、現代美術の現在の主戦場は「漫画・アニメ」で、その次が「ゲーム」。村上隆もトレーディング・カード・ゲームを出した。たぶんデジタルゲーム開発もしたい(してる?)のではないか。
ゲームについての共同討議。1991年から2018年までのゲーム史年表とキーワード集。炎上した。
6月8日まで開催中。実は今、一番気になっている展示会。個々の作品を観たいというよりは、アートにおけるゲーム領域がどれぐらい「メイン」なのか、あるいは「周辺」なのかの現時点での感じを掴みたい。どれぐらいアートの世界にゲームがはびこっているのか。活性を持っているのか。観に行けそうにないのが残念。
「遊び」についての古典。実は「遊び」ついて真面目に論考された本は少なくて、古典はこの2冊が必読。あとはあまりない。哲学の古典としては比較的新しい年代。現代の「ゲーム」が置かれているのと同じような「取るに足らない」位置に「遊び」自体があったということだろう。「ホモ・ルーデンス」はホイジンガが65歳で、ようやく書いた本。「面白さ」を研究することの難しさ。
絵本はもともと書物の一種というより、おもちゃ(玩具)に隣接・連続した存在だ、という側面がある。[94]
絵本は本というよりおもちゃだった。だから「電子化」されにくい。興味深いことに、おもちゃの一種であるゲームはもともと「電子化(デジタル)」されたもので、そこから逆流するように、おもちゃとしての絵本に、「プレイできる面白さ」が流入していることになる。
子供は絵本を何度も何度も、一字一句記憶するぐらい読む。ゲームで言うと、リプレイ性が高い。何度でも遊べる。こういうところも絵本とゲームとに通ずる回路があるように思う。
装幀(ブックデザイン)が重要なのも、おもちゃと考えると納得がいく。祖父江慎さん、藤井遥さんも楽しそうに遊んでいる、いい仕事。
以上
何気なくとった写真からだけでも醸し出されるニナミカ風味。 |
蜷川実花の視覚表現は、展覧会を重ねるごとに明らかに進化している。進化への激しい情熱もさりながら、その華麗な表現と共にどこに向かって進化しようとしているのか?
毎日見ていても飽きないもの。二階の窓から。 |
僕は子供の頃から好きなアイドルや映画のポスターを部屋の壁や天井に貼ったり、は、全くしていません。今でもそういうことをしたいとは思っていないのですが、たぶん「飾り」というのがあまり好きではないんだと思います。
ポスターやカレンダーを部屋の壁に貼ることに、居住空間を「飾る」という感じがあって、それが好きではないようです。それなのにポスターを作ることにしたのは「飾る」のではないアプローチが取れるような気がしたからです。
焼き物のお茶碗を好きな人が、こう、掌に乗せて「景色がいい」なんて言ったりします。お茶碗の模様というか、柄というか、そういうものが良いという意味だと思うのですが、ここでいう「景色」という言葉の使い方が面白いです。
景色というともっと「自然なもの」というか、人間のサイズを超えたパノラマというか、少なくとも手のひらに乗るようなサイズの視野には使わないと思い込んでいました。でもそう使えば、使える言葉。
それと、掛け軸。床の間に掛けるのですが、これもたぶん「景色」を作るようなイメージなんではないかなと勝手に関連付けています。飾っているわけではなく景色をつくっている。茶碗も掛け軸もどちらも茶道が関係していて、茶道の世界の自然と人との関係、人が物を作ることと自然現象との関係が、現代人のそれとは違うのかもしれない。
自然と人工が相反していない、のかもしれない。
ポスターを、部屋を飾るものと考えるとあんまりしっくりこないけど、景色を変えたり手を入れたりするものとして考えたら、やってみたくなりました。
そういえば景色は好きです。河口近くのゆったりとした川の、主に水平に広がる空間を思い浮かべるだけで気分が良くなります。
今も、二階の窓から西の方角が開けていて、日が落ちようとしています。意外に近く見えるところに、団地の長い四角の建物が斜めに七つほど並んでいて、地図を調べると向島の団地です。昔、あそこに巨椋池という巨大な池というより湖があって、向島は、その名の通り島で、この位置からは大きく広がる水面が見えていただろう、魚釣の舟も見えたかもと思うと、ずっと見ていたくなります。
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第5回まるネコ堂芸術祭に向けて書いているエントリー
毎週水曜日に配信中、まるネコ堂芸術祭ラジオ@stand.fm
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今のところ完成としている1個目のスタンプ。 |
たったひとつ必要なこと、それは一所懸命、まじめにやることだけです。(ほぼ日刊イトイ新聞より)
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この汚いノートが無いと大変困る。 |
腐敗の温床、とか、悪の温床とか言う、あの温床(おんしょう)のことを考えている。生暖かくじめじめして、触るとぐにゅっとしたり、カビ臭いところのことだ。
温 床(おんしょう)
1 堆肥の発酵熱などで温かくして、苗の発育を促進する苗床。
2 主として悪いとされる物事が発生して育ちやすい環境のこと。巣窟。
・悪の温床。腐敗の温床
このウィクショナリーの「主として悪いとされる物事が発生して育ちやすい環境」というくだり、とてもわかり易くてなぜか笑えてきてしまう。
ある作品を観て、なにか、自分の中で蠢くようなものがあるとき、どうしてもそこから離れがたい気分になって、しつこく作品を観ることになる。そのうち、自分を支えている土台がぐにゅっと沈み込んで、体勢が揺らぐ。視界が傾く。それまで知っていた自分や世界が柔らかくなって変形する。
そういう時に、面白いものを観たと僕は思っていると思う。
自分や自分を取り巻く世界が変状して、それまでには無かった物事が生まれて育っていきそうな気分がいい。
こういうのを表すのにちょうどいい言葉だと思うのが温床。温かく適度に湿った柔らかなところ。無意識的な企てに満ちた場所。
なぜか「主として悪いとされる物事」にだけ偏ってしまって使われている。字面だけをみると心地よさそうなのに。
僕は温床に居たい。
アトリエとか工房とかというと、設備や道具が揃っている感じがあり、さらに、良い印象を与えてくれる明るさや健全さや生産性があって、それはそれでいいのだけど、温床のヌメッとした生あたたかさや湿っぽさや出来ちゃう感もいい。
第5回まるネコ堂芸術祭開催まで、あと57日。
芸術祭のサイトもできました。
制作中の作品。ポスター用の手描きラフを展示予定。 |
知人の葬式だったか結婚式だったかに行った。旧友に会った。帰りに一緒に駅まで行って、ついでにご飯でも食べようとなった。若い頃だったら、こういうときはアルコールが入って、そのまま何軒か飲みに行って、最後はどちらかの家までいってという流れになっただろうけれど、食事が終わったら、じゃぁと別れて帰ってきた。若い頃は人恋しさが強くあったけれど、年を取ると弱くなる。
こんな感じの話だ。読んだときすでに僕もそれなりの年齢で、あぁそうかもと思った。若かった頃、大阪の勤め先から飲みに行って終電を逃して、友人に深夜に電話をかけて泊めてくれないかと何度もやった。本当に迷惑だったはずだが、友人に断られたことは一度もなかった。
あのとき、終電を逃すのは半ば故意だった。最寄り駅近くのコンビニでビールを買って、友人のマンションに行く時にあったのは、人恋しさだった。友人も同じような人恋しさがあったのではないか。
会社を辞めて自営業者になってしばらくして、僕はほとんど家から出なくなった。そうなってから保坂さんの文章を読んだから、もうあんな感じで終電を逃すこともないなと思って、確かに人恋しさは減っていると思った。
でも、今も相変わらず終電を逃すこともないけれど、何かの用事でうちに来てくれた人が、用事が終わったあとに、ご飯でもどうですかと誘ったら、じゃぁお言葉に甘えて、私なにか手伝うことありますか、という流れになったときにとても嬉しい。人恋しさは今もある。
唐突だけれど、僕はたぶん作品やモチーフや制作プロセスにそういう人恋しさを探している。美術館で絵を観るときもそう。なんとも立ち去り難く思うことがある。好みというのとは少し違う、好みがそのもう少し先にあるとしたらその予感。
人恋しさや立ち去り難さを感じてもらえる展示になるだろうか。第5回まるネコ堂芸術祭まであと68日。
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第5回まるネコ堂芸術祭に向けて書いているエントリー
毎週水曜日に配信中、まるネコ堂芸術祭ラジオ@stand.fm
美緒の妊娠だとかこの春からのアラタの小学校入学だとかで、落ち着かない数ヶ月だった。今も落ち着いたわけではないけれど、同じタイプの動乱には少したてば慣れる。ようやく春の芸術祭の作品づくりを本格的に進めはじめた。
今年はポスター用の手描きラフという中途半端なものを展示予定で、今週に入って2枚描いた。制作はいつもそうだけど、やり始めると楽しくて、もっと早くやっていればよかった。
いわゆるSNSを見なくなって久しいけど、ブログはちょくちょく読ませてもらっている。点滅日記とN!はいつも更新を楽しみにしていて、読むとやる気が出てくる。ありがたい。
本格的にと書いたけれど、制作のプロセス自体はずっとやっていて、ずっと考え事をしていた。「仮である」ことの豊かさが、僕の好きな感じの動揺感とつながっているのがわかってきたのが今回の収穫で、これはとても大きい。僕の立っている地面はそんなにしっかりしていなくてゆらゆらしている。
今日は雲がほとんど見えないとても寒い日だ。二階にいると日差しが強くてカーテンを掛けたり外したりする。冬といえば冬かもしれないけど、空の下の方の山に触れるあたりが白っぽくて、目には春と言ってもよさそう。芸術祭まであと79日。