うちの家の昔玄関だったところの前のコンクリートの上に石を並べている。ここの地面の下には下水の管が通っていて、その工事をするとき、僕は本当はコンクリートはいらないと言った。せいぜい砂利でも敷いておいて欲しいと頼んだ。その方が安いだろうという目論見もあった。
工事の人も一旦は了解してくれたのだけど、結局コンクリートを打つことになった。工事の人が言うには砂利や土のまんまだと土が自然と沈み込んでしまって、地下の下水管を圧迫してよくないということだった。下水管が壊れてしまうのは嫌だと思ってコンクリートを受け入れた。雨が降るとコンクリートの上を水が流れていくための微妙な傾斜がつけてある。数年、そのままにしていた。
でもなんとなく殺風景だなと思っていた。
コンクリートの面積は幅1メートル長さ5メートルぐらいで、そのうちの半分以上はコンクリートブロックで囲って薄く土を入れてみたり、コンポストを設置したりして、その薄い土壌に何が植物が生えればいいなと思ってそうしている。その時の様子は以前ブログにも書いた。
【160】コンクリートの上を直接、畑か花壇にしたい。
このプロジェクトは今でも少しずつ進んでいて、2号地と呼んでいたところは大幅に拡張して、ピンク色の小さな丸い花が咲く植物が侵食している。思惑通りだ。
そのうち、庭にあった大きめの石を1号地の横辺りのコンクリートの上においてみた。ちょっと石庭風になったので、うれしくなって、その大きめの石のまわりに小さな石を並べてみた。それもまたよいと思った。庭でボーッっとしているときに目についた石を拾って並べる。何個かずつ庭で拾い集めて、並べて、また庭に戻って何個か拾って並べる。これを繰り返して、飽きるとやめる。そんなことを気が向いた時にやってみている。この石の帯は今では1メートルほどまで伸びた。
そういう気分にならない時は、ずっと放置してあって、それが時々思いつくと拾って並べる。それをやっているときは早くコンクリートの上を覆いたいと思っているのだけど、だからといって、石をどこからか買ってくるなりして一気にやりたいわけではない。拾うのもバケツか何かを使っていっぺんに大量に運べばもっと効率も上がるだろうと思うのだけど、そう思うだけで結局手で持てる範囲でやっている。
思い出すのは『郵便配達夫シュバルの理想宮』だ。
郵便配達夫の仕事をしながらシュバルは33年かけて石を拾い集めて、それで巨大な建築物を作ってしまった。建築の知識はおそらくなかった。
彼がどうしてそんなことをしたのか、ということへの説明は、彼の空想のなかの宮殿を作りたかったからということになっていて、それは多分そうだろうと思うのだけど、この途方も無い作業を続けている時に彼が一体何を思っていたのかは、全く規模は違うけれど僕のミニ石庭に通じるものがあるのではないかと思っている。
石を拾って運んで並べるという作業には絶対的なものがあるからだ。並べた分だけ並んでいく。積んだ分だけ積まれていく。そしてそれは自然に元には戻らない。少なくとも人が一人生きて死ぬぐらいの時間軸では戻らない。それを自分だけの手でやっている。そういう元に戻らないことが物理的に目の前にあるということはとても安心感がある。残るという安心感がある。確からしさがある。
彼がどういうものを作りたかったのかという目的とかビジョンとかは最初はなかったと思う。少なくともはっきりと最初から最終的なこの城塞を思い描いていたわけではないだろう。やっているうちに目的が水平線の彼方にあらわれて、だんだんと彼のところに近寄ってきて、彼はそれを迎え入れた。最初は少しずつ指先をふれあうようにして、そのうち体全体を包みあうようにして、彼はその目的と同化した。そういう感じではないだろうか。
石の家といえば『北の国から』の五郎の石の家がある。こちらは目的は最初からはっきりとしていた。丸太小屋を作った五郎の経験とどうしても家が必要だという状況の切実さから、可能で必要なものとしての目的を五郎は最初から持っていた。周りの人には馬鹿げていようとも五郎にはそれが見えていたのだと思う。最終的に五郎は捨てられたゴミでも家を作るようになっていくのだけど、この辺りまで来ると、家を作ることの楽しさ、人に頼まれたことをやる、みたいなどこまでも前向きの建設的で健全な性質を強く感じる。