December 19, 2016

【381】本をすすめる。『無為の共同体』

この本面白いよと人にすすめてもほとんど成果らしい成果を得られないことは本好きの孤高な楽しみでもあるのだけれど、それでも時々真に受けて買って読んじゃう人がいて、そういうときにこのちっぽけな場所にもう一人、人が増える感じにドキドキする。

とかって、これまではやってきたのだけど、ここに来て真面目に真剣にもう一度、この本面白いよと人にすすめることをやってみている。



共同体というとちょっと堅苦しいし、
「ともに」ということなんていうとちょっと気取って聞こえるのだけれど、
現代において人が直面することのほとんどは要するにここに集約されるような、
そういうことを書いている。
と思う。

人とともにいるということは現代においてどういうことか。

前近代において、人はまず神とともにあった。
共同体は神話を書くことで共同体たり得た。
神話は共同体に書かれることで神たり得た。
それが今はどうなっているのか。

根拠も目的も共有せず、
ただ共同体であることで共同体であるような「無為」の共同体はあり得るのか。
あるとしたらその共同体はどうやって共同体なのか。

とか、面白いと思いませんか?

December 18, 2016

【催し】1月15日 新年の句会

最近知り合ったというか話をするようになった方が以前よく句会をやっていたとのこと、それではとやってみることにしました。

とは言っても僕は句会などやったことがありません。

僕が理解した句会のやり方は、

最初にちょっとルールを決める。
どこまで俳句の決め事を守るかとか。

それから句をそれぞれで作る。
歳時記で季語を調べたりしながら。

できあがった句を、誰が詠んだのかわからない状態で全員に配る。

全員がそれぞれの句について評価をする。

それを集めてどれが一番だったかを決めたり、
それぞれの句についてあれこれ言ったりする。

こんな感じです。

僕自身は俳句を詠めるようになるという楽しみと同時に、
俳句を読めるようになるかもという楽しみがあります。

有名な句を読むときにこれまでとは違った感じで読めるかもしれない。
それはとても楽しみなこと。

まずは一回やってみようということで、
面白かったら定期的にやるかもしれません。

「新年の句会」
日 時:2017年1月15日 13時から17時ごろ
場 所:まるネコ堂
参加費:お昼ごはん込で500円。
持ち物:歳時記があればいいかも。
申し込み:大谷までメッセージかメール(marunekodo@gmail.com)で。

December 13, 2016

【380】山根澪の「絵を描く会」によせて。

山根澪が絵を描く会をはじめます。
満を持して。
なのだと思います。

澪の案内文にある、

絵を見ることで、
もともと目の前に存在しているものなのに、
絵に描かれることによって初めてそれが現実に見えてくるようなことがあります。
ときには、描いた人の広大な世界がその絵から出てくるようなこともあります。


という「ようなこと」は、どういうことなのか。

たぶん、絵を描くという行為は、
網膜に写った映像や心の中の情景のアウトプットではないのだと思います。
もう少し違う様相を含んでいると思います。

それは、その人にとっての世界というものを捉えるやりかたそのものと、
「その世界」にその人が存在する有り様そのものを含んでいると思います。

その人が、
その人にとって、
世界というものを認識するやりかたは、
意外なほど人によって違います。

「もともと目の前に存在している」はずのものを、
描いた人は、全く異なるやりかたで見ていた。
だから、それが描かれ、その絵を見たときに
「初めてそれが現実に見えてくる」。

絵を見ることは、
人というものが持っている、
世界とその人を含んだ存在というものの有り様を、
「違いごと」見ることであって、
だから描かれた絵に「描いた人の広大な世界」が見えたりするのだと思います。


山根澪のブログ

【379】12月8日の日本国憲法をバカ丁寧に読む会の第3回を終えて。

7回シリーズで行っている「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」。
第2回の第一章天皇、第二章戦争の放棄の感想は、こちら
第3回は、第三章国民の権利及び義務。


「は、これを」文の効果


第三章でどうしても目につくのが「〜は、これを〜」という文体。すでに二章から使われているが、三章で頻出する。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
この「は、これを」文は、日常の日本語としてはあまり見かけないが、意味としては十分に通じるやや特殊な文体として微妙な位置にある。ちょっと調べると漢文が元らしいが、日本国憲法の場合は、英文の構文を直訳したものとして残ったものかもしれない。

上記の第十九条の場合は、「これ」は「思想及び良心の自由」を示すから、条文としては「これを」を削除しても同じ意味となる。はずなのだけれど、詳細に見ると微妙な効果があることがわかる。

「これ」を削除して、前後の助詞のどちらかを残してみる。
A 思想及び良心の自由は侵してはならない。 
B 思想及び良心の自由を侵してはならない。
あくまでもニュアンスのレベルではあるけれど、Aの場合は、「思想及び良心の自由」以外のものについては除外しているという、助詞「は」が持つ他との区別を意味する用法が強く現れる。「他は侵してもいいの?」と。

Bの場合は、自由を侵す主体について意識が向く。「誰が侵してはならないの?」あるいは「誰が侵すの?」と。

これに比べ、原文は、
C 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
となっていることで、助詞「は」「を」をどちらも含む文体となり、A、Bそれぞれで感じられた「書かれていないことへの意識の照射」を減衰させる効果があるように思う。逆に言えば「書かれていることへの意識の囲い込み効果」とでもいうものが。

「何人も」の痕跡


もう一点、第三章で頻出するちょっと変わった日本語が「何人も」である。
第十八章 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。
日本語の意味としては、第十三条などで使われている「すべて国民は」としても通じそうである。ニュアンスとして「すべて国民」は統合的な像を、「何人も」は多様的な像を思い浮かべる。「何人も」は「日本国民」以外にまで及ぶ感じもある。

あるいは、もう少し機械的な理由で、もともと英文で作成されたものを和訳したときの英構文が残っているのかもしれない。なぜなら「何人も」は僅かな例外を除いて、「〜ない」という否定文で使われている。

僅かな例外は、第三章においては、第十七条、第二十二条第一項、第四十条。

ということは、これらの例外は、和訳された後に「日本語で」修正された痕跡なのかもしれない。

日本語としての憲法


高圧な状況下で、文言を確定する作業をしようとすると、「は、これを」文や「何人も」などといった微妙な日本語としてのニュアンスが無視できない場合がある。「同じ意味なんだけれど、どうしても感じが合わない」という感覚からは、日本語を使っている以上逃れることができない。

だからこういった「なくてもいい」あるいは「統一しようと思えば統一できる」ような特徴的な言い回しは、文言を詳細に検討していく中で、「はずしたり統一したりするとどうも変な感じがする」という理由で、残ってしまったり、あえて残したりしたものなのかもしれない。

そういう意味で、由来としては日本語以外の文法構文に従った機械的な言い回しであったとしても、それを「日本語として」検討することは、日本語独特の感性に従わうことになる。

日本国憲法を書いた人たちもその感性のもとにあったはずで、現行憲法の微妙な統一感の無さは、(時間切れで統一し損なったという理由もありそうだけれど)ギリギリのニュアンスレベルでの検討をした結果ではないかとも思う。

「平穏に請願する権利」とは

もう一つ面白かったのが、参加者の一人が指摘したのだけれど、第十六条に、
平穏に請願する権利を有し、
とわざわざ「平穏に」と書いてある。

第十六条全文は、
損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。 
「一揆とかしなくていいですよー」「傘連判状とか血判状とかそういうのもいらないですよー」「クーデターとか革命とか物騒なことしなくてもいいですよー」ということなんだろうか。ちょっとおもしろい。


December 8, 2016

【催し】読む・書く・残す探求ゼミ第3期

第3期開催が決定しました。

2月26日、3月25日の回の文章持ち込み者確定済みです。

===
【バカ丁寧に読む ことでしか見えない世界】

読むにしろ、書くにしろ、話すにしろ、聞くにしろ、
ぼくたちは、言葉そのものをどう捉えるか、
というじぶんの制約から逃れられません。

どれほど感情や気持ちを大切にしようとしても、
言葉を意思疎通や情報伝達のための道具、として捉えていれば、
正しいとか間違っているとか、価値が高いとか低いとか、
世界はそのように見えます。

逆に、心や共感にまったく目を向けていなくても、
言葉が話されるたび、書かれるたび、
表現している人の途方もなく広くて豊かな世界を
形にして指し示しているのだ、という前提にたてば
正しさや間違いもない、ただ一つ一つユニークな世界が
混沌と、あるいは整然と、矛盾を含んだ形で
一つ一つ切り分けられないような形で、
ただただそこにある、ということがわかります。

そして、そうやってみたときに、
結果としてぼくたちが「心」とか「感情」とか「気持ち」
と呼んでいるものが、ひっそりと咲いている花や宝物のように
その世界の中で生き生きと佇んでいることまでが
視野に入っていることに気づきます。
 

それを見るためにどうするか、といえば、
言葉を一つ一つ丁寧に見るだけ。

ただし、”どのくらい丁寧か”、が重要で
A4用紙1ページの文章を3時間も4時間もかけて読む、
そのくらい丁寧に見ていきます。

うー、楽しみです。

小林健司


===
▶日 程:
1月28日(土)
2月26日(日) ★文章持ち込み者確定済み
3月25日(土) ★文章持ち込み者確定済み
5月28日(日)
6月17日(土)
7月30日(日)
※各日程とも内容は同じです。
※4月は合宿企画を行います。
「読む・書く・残す」探求合宿 inスペースひとのわ(比良)


▶時 間:11時から17時ころ。(時間変更して長くなりました。午前中からです。)
     11時頃から12時半頃  主催挨拶、講師の話
     12時半頃から13時半頃 お昼休憩
      (昼食は用意しています。投げ銭制です。)
     13時半頃から17時頃  バカ丁寧に読む時間

▶内 容: 参加者がじぶんで書いた文章を持ち寄って
     じっくりと読み込んでいきます。
     文章持ち込みは各回1人です。
     持ち込み希望者は早めにお申し出ください。

▶場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
▶注 意:猫がいます。アレルギーの方はご注意下さい

▶参加費:各回8,000円、またはそれに準ずるもの。
▶講 師:大谷隆
▶主 催:小林健司
▶定 員:6人程度

▶懇親会:
各回終了後、懇親食事会をします(食事代500円。お酒は別途投げ銭で)。
お時間のある方はどうぞ。

▶お申込:marunekodo@gmail.com
 ・お名前
 ・電話番号
 ・懇親会 参加・不参加(予定でかまいません)
 ・その他(何かあればご自由に)

〈講師の大谷隆のプロフィール〉
1971年生まれ。宇治市出身。
「まるネコ堂」代表。環境報告書・CSRレポート制作会社編集部門、市民活動総合支援センター(社福)大阪ボランティア協会・出版部を経て2010年5月独立。フリーランスの編集者として、読む、話す、聞く、書く、それぞれにじっくり向き合う仕事をおこなう。
・言葉の場所「まるネコ堂」 http://marunekodoblog.blogspot.jp/
・雑誌「言語」 http://gengoweb.jimdo.com/

<小林健司のプロフィール>
愛知県春日井市出身。大阪教育大学在学中に教育関係のNPOの起ち上げに関わり、卒業後も含めて約十年勤務する。ソーシャルビジネスの創業支援をする NPOでの勤務を経て独立。目的のない生命体的集団フェンスワークスに2年在籍し、現在、人とことばの研究室代表。
・人とことばの研究室 http://hitotookane.blogspot.jp/
・雑誌「言語」 http://gengoweb.jimdo.com/

December 3, 2016

【378】猟師さんと会った。

今日、猟師さんと会った。話を聞いた。これが面白かった。

聞いたままではなくて僕の理解だけれど、
縄文時代からずっと日本では猟を行ってきて、その肉を食べていた。明治以降に家畜の牛豚鶏を食べるようになったけれど、それまでは狩猟の肉を食べていた。 
猟師は奥山という深い自然の世界と社会という人の世界の間を行き来する仕事。
猟師は奥山に入るから山で起こっている異変に早く気がつく。鹿が増えすぎているとか、がけ崩れが起きそうな場所とか、町の人ではわからないようなこともわかる。
猟というのは神聖な行為である。 
東山いきいき市民活動センターのツキイチカフェというイベントで兵田大和さんという猟師さんは、そんな話をしてくれた。猟というものの全体像を捉えた丁寧な話を聞いているうちに、これはまさしく網野善彦の言う狩猟民、漂泊民、つまり「無縁」の話だと気がついた。

兵田さんは、現代的な言葉遣いと現代的な方法で、つまりパワーポイントのアニメーションや写真を駆使して、この話をしてくれたわけだけど、「以前の山とはまるっきり変わってしまった。今、日本の山の多くはこんな状況になってしまっている」という話自体は、もしも1000年前だったら、それこそ普段はめったに里に姿を見せない森の人が警告を発しにやってきた一大事で、ここから『もののけ姫』のような物語が始まってしまうような出来事なのだという気分になってくる。

僕が兵田さんの話を聞こうと思った動機は、鞣(なめ)しをやってみたくて、そのための鹿皮を手に入れる方法や鞣し方を教えてもらおうという「下心」からだったのだけど、思わぬ〈世界〉に触れることができて密かに興奮していた。

「中世においてピークを迎えた無縁の原理と場は現代ではもう途絶えてなくなってしまった」というのが、網野善彦を読み始めたときの僕の「知識」だったけれど、今では全くそうは思わない。

無縁の原理と場は、今でも当たり前に存在している。しかもそれは、時代性を引きずった遺物として残っているわけではなく、現代的な姿となって生きている。僕たちはそんな原理と場を今でも生き生きと生きることができる。

「獣害」と言われる現状はかなり深刻ではあるのだと知ったのだけれど、兵田さんに会えて僕は逆にそんなことを一人で確かめられた気になって、嬉しくなった。

December 1, 2016

【377】11月24日の日本国憲法をバカ丁寧に読む会の第2回を終えて。

7回シリーズで行っている「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」。
第1回の前文に続き、第2回では第一章天皇、第二章戦争の放棄を読む。

まずどうしても気になるのが「天皇」というもの。

前文で、当時の高圧な環境下でどうにかひねり出したものは、恒久の平和を念願し、普遍的な法則にもとづいて、「われら」「日本国民」が崇高な理想と目的を達成することを誓って終わるもの。それにもかかわらず、唐突に天皇が現れる。

天皇は象徴である。

ということが念を押すように書かれているが、そもそも天皇とは何かの答えにはなっていない。もしもこの第一条が「日本国民の象徴は天皇である。」となっていれば、前文の「日本国民」のもつ主体性の強さとニュアンスが合ったのかもしれない。少なくとも、日本国民を前提とし、天皇が存在するという〈順序〉が揃う。

しかし、そうなっていない。このことは〈天皇〉というものの本質に関わっている。

そもそも〈天皇〉という言葉は日本人以外にとっては皇帝や王を指す一般名詞となるだろう。しかし、日本人にとって〈天皇〉は、日本人から見て諸外国の王様と同じではない。〈王〉の支配の中にある人にとって、その〈王〉は一般的な権力者として頂点に立つものというような意味での王ではない。絶対的な立場というのは、それが何かということを問い得ないものだ。つまり「天皇とは何か」という問自体が生まれない。生まれたとしても答えることができない。天皇はすでに最初からそこにあるということ、日本国民よりも「前に」。その天皇を日本国民と日本国は「後から」象徴にするということが第一条の前半に書かれていると読める。

この前提としての〈天皇〉が、あの悩みに悩んだ苦悩の前文の直後に、まさに降臨するかのようになんの前触れもなく第一条に現出する。前文とは乖離のレベルを超えて、もはや相反している。前文は近代を象徴していて、第一条(第一章)は前近代を象徴しているとも言える。

その第一章の次が「戦争の放棄」とくる。
再び、近代の苦悩、〈天皇〉の世界という日本国のレベルを超えた〈国際〉平和を希求することになる。

〈憲法〉というものは、近代の苦悩が書かれたテクストである。その〈憲法〉に強い齟齬を持ちつつ〈天皇〉がねじ込まれている。テクスト自体の持つ強い抵抗によって〈象徴〉にまで形を変えた前近代であり、これは「日本という場所」全体に渡って見ることのできる、近代とそこに埋め込まれている変形した前近代にも通じるのではないだろうか。

自民党改正案で、国旗と国歌を第一章に内包しているのは、国旗と国家をあくまでも前近代の天皇を前提とする〈袋状〉のものの中に包んでしまおうという意図があるのだろう。

それと、第九条に関して、一点、僕は長く思い違いをしていた箇所があった。

第九条は「日本国が」戦争を放棄しているのではなく「日本国民が」放棄している。ここまでにおいてこの憲法は頑固に「日本国民」と「日本国」を書き分けている。どれほど頑固かといえば、第一条を「(天皇は、)日本国及び日本国民統合の象徴であって」と書くのではなく(自民党改正案ではそのように修正されているが)、「日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴であって」と書き分けられている程度に。

つまり、第九条第二項は「日本国が戦力を保持しない」のではなく「日本国民が戦力を保持しない」と読める。この違いは体感として大きい。軍というものは国が持つものではなく、国民が持つものなのだという意識を感じる。


■関連する記事
【360】天皇の〈眼差し〉。
 「終戦記念日の翌日に玉音放送をバカ丁寧に聞き読む会」を終えて書いたものです。

【373】よその国の憲法。
 「よその〈国〉の憲法を読む朝」を終えて書いたものです。

November 30, 2016

【376】小林健司さんの「ことわ坐」のはじまりによせて

いよいよ、なのだなあ。

という気がします。

けんちゃん(小林健司さん)とは冗談交じりに、ということは大半は本気で「僕たちはずっと壮絶な撤退戦を続けている」とよく話していました。

以前はできていたことがどんどんできなくなっていってしまう。ほんとにやりたいと思うことをやろうとするとなかなかうまくいかない。どうしてもやるとなると、膨大な量の何かを費やしてほんの少し進むにすぎない。

そういうことが続いていたからです。

でもそんななかでようやく見えてきたことがあって、こんなふうにしかならないことをやり続けていけば、最初は見えていなかった、それどころか存在すらしていなかった景色の中に、いつしか自分がいることに気づくということです。

こういうことを考えていると、中沢新一が『アースダイバー』の冒頭で紹介していたアメリカ先住民の神話を、僕は思い出します。

世界が一面、水に覆われていたとき、多くの動物が水底に潜って泥を取ってこようとした。けれどできなかった。
最後にカイツブリ(一説にはアビ)が勢いよく水に潜っていった。水はとても深かったので、カイツブリは苦しかった。それでも水かきにこめる力をふりしぼって潜って、ようやく水底にたどり着いた。そこで一握りの泥をつかむと、一息で浮上した。このとき勇敢なカイツブリが水かきの間にはさんで持ってきた一握りの泥を材料にして、私たちの住む陸地は作られた。(中沢新一『アースダイバー』)
今つまり、そこに陸地ができて、家が1軒たったところです。

まだまだ陸地は小さいけれど、でも陸地ができたのは確かなことで、そこはやがて大陸となって、多くの人や動物がその上で飛んだり跳ねたり駆け回ったりして過ごすことができるようになる。

大陸を作るようなことをやっているなんて大げさだけれど、僕はそう思うのです。そのためには水底の泥を一握り掴んでくるようなことが必要だった。溺れそうになりながら。

だから琵琶湖畔にけんちゃんとなっちゃんが自分たちで建てた家は、ただの家ではありません。

そこで、何かがはじまる場所だと思います。

2017.1.7-9
「ことわ坐」 はじめます! (人とことばの研究室)

November 27, 2016

【375】「自給自足」でいう〈自〉とは何か。

「自給自足」という言葉を最近あまり聞かなくなった。
とあえて言ってしまうけれど、少し前までは割りとすんなり聞いていた。

僕自身なんとなく自給自足的な方向性を持って生活の行方を見ていたような頃があった。
と思い出せる。

でも僕は今、この言葉に対して「そうではない」感覚がある。

一般に自給自足という言葉は「食材を自分で作って自分で調理して食べる」というような〈範囲〉で使われることが多いと思う。

最初に結論めいたことを書いてしまうと、自給自足という概念はこの〈範囲〉についての認識の仕方の一つである。と思う。

以前わりとよく見かけたのだけれど、上記のような範囲で、つまり食材に関する範囲で自給自足を達成している、あるいは目指している人が、ユニクロのフリースを着ていた。

「ユニクロのフリース」が時代を感じさせるけれど、その時代感はたぶん正しくて、「(食の)自給自足」機運が盛り上がったのがユニクロのフリースがブレイクした時期に重なるのだと思う。

ユニクロのフリースは当時の日本企業が達成した国際経済における一つの先端で、化学繊維を用いて、中国の低労働賃金で、同一規格のものを大量生産し、日本という先進国経済で安価に大量に売りさばくというもので、その存在自体は当時の「(食の)自給自足」志向の対局に位置していると思う。そういったものからの離脱が「自給自足」志向であったはずだ。

「矛盾してるじゃないか」という指摘がしたいわけではない。

当時の「自給自足」という言葉が指し示すある感じがいったいどういうものであったのかを、今の時点で文字にしたいというのが僕の今の意識だから、別に矛盾しててもよくて、ようするに安くて温かい「ユニクロのフリース」はかなりの必然性を持っていたということだろう。

ユニクロのフリースが特に安価で高機能であるという以前に、衣類の自給自足はそもそも難易度が非常に高い。化学繊維は論外として、論外というのは、石油から繊維を「自分で」作る(自給する)のはそんなに難しくはなさそうだけど、これはこれで話がずれるし、「石油を自分で作る」のに至っては人類の時間すら超えることになる気がする。なので、例えば綿花や麻を栽培して糸にして布を織るということになるのだけれど、これは不可能ではないにしろ、畑や田んぼで食材を得ることに比べると難易度が跳ね上がる。稲わらを編んだものを着るなら比較的簡単かもしれない。あるいは裸で生活するとか。

いずれにせよ、「自給自足」の対象物として大半の人の意識から衣類は除去されていた。自給自足の〈範囲〉に含まれていなかったということだ。衣類だけではなく、結構たくさんの身の回りのものが除去されている。難しそうなところで例を挙げると、鍋釜、窓ガラス、筆記用具なんかも意外に難しい。

実は「食」に関しても、細かく見ると「自給」が困難なものがある。塩を沿岸部や岩塩が採れるところ以外で自給するのは、高難度だと思う。

自分では作れないけれど、何かと交換して入手することを「自給自足」に含めるためには、もう一段の設定が必要で、「自分で作った食材と直接的に物々交換する」という〈範囲〉が登場する。これに加えて、貨幣や労働を介在すると、かなり込み入った、ということはかなり恣意的で個人的な〈範囲〉設定が必要になる。いずれにせよ〈範囲〉をどこにとるかの問題である。ずっと広げていっちゃうと「自分の労働によって得た金銭的対価をコンビニ弁当と交換する」とかも自給自足に含まれてしまうことになる。

こうやって見てくると「自給自足」が対象としている「モノ」は意外に狭いことがわかる。でも別に狭くてもいいと僕は思う。狭いから「そうではない」と感じているわけではない。

僕は、自分で食べる分の野菜や米を自分で作っている人には敬意がある。単純にいいなぁと思う。衣類だって難度が高いだけで不可能ではないし、自分に必要な衣類その他を綿花や麻から自分で作っている人も実際にいると思う。そういう人に対して僕自身はただただすごいと思う。

だから「対象物やその入手経路に〈範囲〉があること」は、僕の「自給自足」という語に対する「そうではない」感じにはつながらない。

こんなふうに対象物の観点でいえば、「食材の」「米の」「夏野菜の」(その他どんな範囲でも)自給自足は、問題にならないどころか端的に羨ましい。「酒肴の」自給自足なんてとても素敵だと思う。

なので、僕が気になっているのは別の点なのだと思う。

つまりそれは「自給自足」でいうところの〈自〉の〈範囲〉はどうなっているのかで、僕はここに「自給自足」という言葉に対して持っている「そうではない」感じがある。

僕の家では、主にパートナーの澪がやっているんだけれど、庭でちょっとした野菜や果物を作っている。毎年うまくできるのは唐辛子やししとう、大豆もまずまず、今年からぶどうがなるようになったし、にんにくも意外にうまくできた。

家庭菜園レベルだけれど、この程度でも十分に気付くことがある。こういった農作物というものは、気候や天候、土壌の状態に大きく左右されるということだ。つまり、〈自分で〉作ってはいるけれど、〈自分で〉はどうにもならないことによって作物はできたりできなかったりするということだ。

僕たちの庭が作物が取れる程度の土壌として維持されているためには、まず、その場所を僕たちが自由に使うことができなくてはならない。そのためには土地の所有という社会的な権利が必要になる。この社会的な権利は僕たちだけでは、どうにもならない。社会がそのようになっている必要がある。

いつものように、こういうことは単なる屁理屈なのかもしれない。でも、どうしても僕には、〈自分で〉というところの〈範囲〉として、そういったことまでが入ってくる。

僕だけではない人間(社会)と、人間の範囲を超えた自然によって、食べ物を僕たちは作ることができている。この時、僕の〈自〉の〈範囲〉はとても小さい。

こういったことは、いわゆる「自給自足」的な生活をしている人であれば、嫌でも気がつくことで、そのことを受け入れるということも含めて、生活しているという実感を持っているのではないかと思う。

だから、たぶん、「自給自足」的生活をすればするほど、〈自〉給自足という言葉が使いにくくなっていくと思う。そしてきっと、自分で作ったものと他人が作ったものを交換することは、とてもありがたく思うだろうし、自分で作ったものがお金に替わるのも同じくありがたいことだろう。そのお金を使って自分で作るには難度が高いものを購入することにも抵抗はないだろう。そういうことを「自給自足」の〈範囲〉に含めるかどうかなんてどうでもいいと感じるだろう。

繰り返しになるけれど、いわゆる「自給自足」的な生活自体には憧れのようなものも含めて敬意がある。ただ、それを「自給自足」という言葉にしてしまうことには「そうではない」感じがある。

わかりやすさ、インパクトの有る言葉ではあるから、ここから何かが始まるきっかけにはなるだろうけれど、少し行けばむしろ柵(しがらみ)として働きかねない。

そんなことを考えた。

November 26, 2016

【374】楽譜を読む世界。単純な取り決めから〈世界〉が出来する瞬間。

山本明日香さんのピアノのミニコンサート「楽譜から見える景色」、よかった。

たんに曲を弾くのではなくて、参加者に楽譜が配られて、その楽譜を見ながら明日香さんの話と演奏をきく。

たとえばこんな感じ。
(録音したわけではないので、僕の記憶から)

楽譜にはドミソと書いてある。だからこう(ドミソと音を鳴らす)弾いてもいいんだけど、楽譜を読むと、まずドがあって、そしてそこから3度上がって、さらに3度上がってる。上がってるんです。だから単にドとミとソを鳴らせばいいんではなくて、上がっているということで何を言おうとしているか、そういうことを考える。 
楽譜のはじめを見るとシャープが3つあって、イ長調。イ長調というのはこういう音。長調だから明るいんだけど、ただ明るいわけじゃない明るさ。この響きがこの曲の世界。
ここは、スラーが途中までかかっていて、その次スタッカートが一つ、そしてまたスラー。楽譜通りだったらこんなふう(といってその部分を演奏)に弾いてもいいけど、弾けない。弾けない。全部スラーでもいいのにそうなっていない。どうしてこんなふうになっているのか。だからここはこうなる(といって前回とは全く違うように聞こえる弾き方をする)。モーツァルトという人はほんとに繊細で、こういうのがとても多い。
(ロマン派の)ショパンは(古典の)モーツァルトに似た喋り方をする。
(メンデルスゾーンの無言歌で)ドが5つ続くんですけど、このドは全部違うド。だから同じようには弾けない。

最初のドミソの話は1回目の一番最初だったのだけど、「3度上がって、さらに3度上がってる」のところを明日香さんが身振りを交えながら全身で話すのを見て、僕は鳥肌が立った。

これは「危ない」ことを言ってる。この人は「危ない」。
と、たぶん体が反応したんだと思う。

事実、その後、曲を弾いてもらったときには、音が耳にだけ来るのではなくて、全身を撫で回されるような感じになった。細かく音が連なった曲はさざなみのように、ガンとした和音は鞭のように体に来る。ベートーヴェンの曲なんて、まるでお化け屋敷を歩くように、いつどこに何がひそんでいるかわからない。

弾いてくれた曲はすべて聞き慣れたはずの有名な曲なのに、次の瞬間いったい何が起こるのか予測ができない。拒むこともできない。

何がきこてくるのかわからないのではなくて、何が起こるのかわからない。
音楽を聴くということが変わる体験だった。

演奏家は楽譜を通してやってくるたくさんの要求に応えないといけない。だから大変。
大変だけど、それが出来た時に生じる出来事はものすごい。
〈病み付き〉になる。

たった一つの音符、たった一つのスタッカート、たった一つのスラー、たった一つの記号、つまり単純な取り決めに過ぎない人工物。そんな記号という針の穴のようなかすかな頼りから、一気に時空を超えてその背後にある作家の〈世界〉が出来(しゅったい)する。

それは本を読むことにも通じていて、僕はどうやらこういうことが好きなんだ。

November 23, 2016

【373】よその国の憲法。

日本国憲法の前文はこの数ヶ月、わりとしつこく読んできた。高圧な中でぐにゅっとひねり出されたような不思議な文体をしている。日本国民としてある程度の歴史的背景を知っているから、この憲法が生み出された特殊な状況に由来するのだとということも予測がついて、だから、本当は「一般的な憲法」というものはもっと違った感じで、もっとスタンダードな憲法があり、もっとスタンダードな前文というものがあるのだと勝手に思っていた。

今日(11月13日)、よその国の憲法を数か国、読んでみて、どうやらそういうわけではなさそうだと認識が変わった。

たとえばソ連憲法(1977)や中華人民共和国憲法(1982)の前文(序言)は、極めて長文の生々しい革命的興奮が前面に出たもので、近代的な「非〈神話〉」を創作しようという強烈な意志を感じる。それが「国営放送のアナウンサーが読み上げる」ような声で聞こえてくる。

さらにアメリカ合衆国憲法(1788)。

[前文]われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の静穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由の祝福のつづくことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。(岩波文庫『世界憲法集』)
こちらは一見すんなりと読める。しかし、一切の外向性を排除した極めて内向きの内容は、僕が知るあの世界の警察たらんとする合衆国の姿とは大きなギャップがある。「われら合衆国の人民」が前提されている強い結束性にもかかわらず、合衆国人民がわざわざ「アメリカ合衆国のために」憲法を制定しなければならないということの脆弱さを背後に感じる。「われら」〈がある〉ということは自明だ。しかし「われら」〈たらんとする〉ことは、自明ではない。そういう強さと危うさを内包している。

ドイツ連邦共和国基本法(1949)の前文には、合衆国憲法のような「われら」が「われら」のために制定したという自己性は薄く、(西)ドイツ国民以外の人間によって書かれたという印象を持つ。「(基本法の決定に)協力することのできなかった、かのドイツ人」といった記述は同胞について言及している感じは薄く、「全ドイツ国民は、自由な自己決定で、ドイツの統一と自由とを完成するように要請されている。」という結語は、ドイツ国民の自戒としてよりも他者から突きつけられたものとして読める。

こういったことが特別な歴史的知識を持たずとも、憲法そのものを文字通りにただ読み、感じたとおりのことを露呈し合うことによって現れてくる。歴史的事実を紐解けば、この素読感はおそらく、正しく裏打ちされるだろう。

それぞれの国の憲法は、その憲法が書かれなければならなかったある状況において書かれている。それはすべて個別の独自性を持ち、独特の契機によって、その共同体自身の個別の姿を描かざるをえない。スタンダードな憲法は、スタンダードな文学作品が無いように、無い。

〈国〉というものも、その共同体自身の独自性によって描かれるもので、スタンダードな国の有り様があるわけではなく、その共同体自身がそれぞれに〈国〉を存在させる。

そういうことが実感できた。

November 22, 2016

【372】国語の教科書。

思うところあって国語の教科書を買う。

小学2年下と中学1年。
イオンモール京都の大垣書店で購入。
棚には光村のしかなかくて、開けて読めないように包んであった。
四条のジュンク堂だと開いて読めるらしい。
僕の国語の教科書への印象は静謐だった。


必ずしもできた生徒ではなかったし、学校も授業も教科書もできれば遠ざけておきたかったように思う。でも国語の教科書の静謐は、どこかそういった目の前の現実を切り裂いてその向こうを見せてくれるような強さがあった。


今の教科書を見てみると、いろいろとごちゃごちゃと複雑な図版の「配慮」がひしめいているページもあるにはあるのだけれど、それでもこの静謐はそのままにある。字体と配置が作り出す強く読まれたい意識が静かににじみ出ている。しばらく眺めたりしていよう。

October 11, 2016

【371】完了感と突破。

料理はわりと好きだ。僕にとって料理の良さはその完了感にあると思う。料理を作り、食べるという一連の流れの終了に「食べた」という完了の感じが伴っている。

完了感には二つの要素があって、一つは終了、途絶である。これについては説明がいらないと思うけれど、ある流れの終了、その途絶だけでは完了感には足りない。もう一つの要素は、その終了、途絶を持って、それ以前の過程がすうっと静まる感じ、鎮静である。

料理を作り、食べ終わったときに、それを作っていた過程、食べていた過程が、その終了、途絶に対して、すぅっと静まり、鎮静する感覚が立ち上がる。この時、僕は完了感を味わっている。

完了感自体には心地よいとか心地悪いとかはない。いや、どちらの要素もあって、心地よい感じの方に重心があれば、その完了感は達成感と言えるだろうし、その時すぅっと静まっていく過程に対しては「報われた」という感じがするだろう。

心地悪い感じの方に重心があれば、あぁ終わってしまったという「惜(お)しい」感覚をその過程に対して感じるだろう。ただ、いずれにせよ、終了・途絶という現象と、その現象に向かって過去のプロセスが打ち寄せ、プロセス自体は鎮静していく感覚が、完了感としてある。

もしも、ある流れがただ終了、途絶するだけで、それ以前の過程が静まるような感覚がなければ、そこには完了感はなく、ただ、呆然と未来の消失があり、その時過去のプロセスは静まらずそのままになる。

完了感を伴う流れには、反復性がある。完了感は反復を促す。完了した行為を、またあとでもう一度やってみたいという感じが立ち上がる。料理して食べるということに関してはこれは良い方向に働く。反復すれば料理すること自体にも食べるということ自体にも、修練として働いて、より大きな完了感、そして達成感を与える。そしてその完了感はさらなる反復を促していく。

完了感によって、同じことの繰り返しとして、仕事や作業をする人は、反復によって作業を身体化し、それによって「身につく」「上手になる」という「上達」を得る。

この世の中の多くの仕事、作業は、このような完了感を持った反復の積み上げによって構成されている。

その仕事、その作業について完了感、できれば達成感を得られれば、その仕事、その作業はその人にとって「向いている」と言える。反復によって、さらに増幅されていく。逆に、その仕事、その作業について完了感を得られない場合は、その人にとってその仕事、その作業は「向いていない」と言える。

「向いている」仕事をしている人は「幸運」だと僕は思う。

僕にとって、書くことはほぼ常に完了感を伴わない。料理を作って食べるような完了感はない。書くことの終了、途絶は、もうこれ以上は「どうしようもない」という諦めによって訪れる。この時、書いていた過程は鎮静せず、隙きあらば襲いかかろうとする野獣のような熱を帯び続けている。本当はこうではない、もっとこうだったはず、もっとこうできるのに、という不全があり、しかし、その不全は「どうしようもない」という諦めの前にうちしおれる。次に書くときは、反復ではなく、その不全の十全を目指すようなものとして、発生する。うちしおれた意識がもう一度息を吹き返すまでの重い時間がある。

だから僕にとって書くことは「向いていない」。

と、ここで終わってしまうとなんとも物悲しいだけなので、もう少し頑張る。

完了感を伴わない「向いていない」仕事をする人というのは、その仕事を一つの終わりなき継続として捉えることもできる。完了しないのだから、終了、途絶もしていないのだ、と。

完了感を伴わない人は、反復は存在せず、ただ「どうしようもなさ」への無防備な盲進によって、進まざるを得ない。ここには「身につく」「上手になる」といった「上達」ではない、方向がある。

ある仕事やある作業に対して、革新的な突破というのは、この盲進的な方向が必要であることが多い。完了感のない、拠り所のない、永久的な持続感覚の時間と空間のなかで、ある局面を突破するほんの小さな一歩が記されていく。もちろん、大半の一歩は何も引き起こさないまま消えていく。膨大で無方向な一歩の果てに、小さく突破する一歩が現れる。

これは「向いている」仕事をしている人にも実は訪れうる。「向いている」ことで上達していった先に、もはや完了感を得ないような領域が広がっている場合がある。そのとき「向いていた」はずの仕事は、もはや「向いていない」。完了感と引き換えに「向いていない」という無方向感を得たのだ。そうして、そこから新たな突破する一歩のために膨大な右往左往が始まる。そういう人が局面を切り開いていく。

October 10, 2016

【催し】よその〈国〉の憲法を読む朝


僕たちが、日本人として「日本」という国を思い浮かべたときのあの感じは、他の国の人たちが自分の国について思い浮かべている感じと同じなのだろうか。そもそも、僕たちが「国」といったときにイメージするあの感じは、他の「国」の人たちも同じなのだろうか。

憲法というその国の基本構造となるものを読むことで、そういうことがなんとなく感じ取れるとしたら、これはちょっとおもしろいと思う。

想像だけれど、たぶん「人が集まっている」という、そのことそのものについての感じもきっと違うんじゃないだろうか。僕たちが「共同体」というような言葉でなるべく無味無臭に言おうとしているものは、もっといろんな味や匂いがするんじゃないだろうか。

外国というものがどういうものかを体験するために、僕たちには物理的にそこへ行くという方法がある。それによって僕たちは多くのことを知りうるだろう。

でも、物理的にそこへ行くことではなく、その場所の根幹に触れる体験ができるとしたら、僕たちは「よその国」との関わりのあり方そのものを更新できるかもしれない。

そして〈国〉というものとの関わりのあり方そのものすら更新できるかもしれない。

とにかく憲法を頼りに、よその〈国〉に行ってみようと思う。
世界中を旅し、世界中で暮らすように。

大谷 隆

ーーーーー

他者とともにあるって、どういうことなんだろう。そういうことを、この半年ほど考えていた。

そんな折、みんなで日本国憲法を、バカ丁寧に読む朝があった。改めて読むと、なんとも不思議なテキストなのだ。前文によれば、「日本国民」である「われら」は、「全力をあげて」「崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」という。誓いましたっけ?とは言い出せない雰囲気だからまいってしまう。

でも、これがこの国の構成なのだ。望むと望まざるとに関わらず、1946年から現在に至るまで。出生届が役所に提出されたその朝から、自分も諸々誓った日本国民らしい。

憲法とは、Constitutionの訳語だという。contsitutionはconstituteつまりcon〈ともに〉+stitute〈成り立たせる〉の名詞形だ。憲も法も、「おきて」という意味で、日本国憲法と私たちが呼ぶとき、〈ともに成り立たせ〉たものが日本なのだと思い出すことは難しい。それでは本来、Constitution〈みんなでともに成り立たせた国の構成〉ということが、どういうことなのか。

よその国のConstitution、憲法こそ、その手がかりになるはずだ。それを、ともに読んでみたい。
北村紗知子

ーーー

よその〈国〉の憲法を読む朝

日時:11月13日(日)10時から13時
場所:スタジオCAVE(大阪市)
主催:北村紗知子、大谷隆
協力:山本明日香、山根澪
内容:まず、この企画について北村と大谷が話してみます。
   その後、いくつかの国の憲法を読んで、自由に話をする時間を持ちます。
参加費:2,500円
定員:8人
申込:フェイスブックで「参加」もしくはmarunekodo@gmail.com(大谷)まで。

参考文献:
・岩波文庫『世界憲法集第四版』
アメリカ合衆国憲法、ベルギー国憲法、イタリア共和国憲法、ドイツ連邦共和国基本法、フランス共和国憲法、ソビエト社会主義共和国連邦憲法、ポーランド人民共和国憲法、中華人民共和国憲法、日本国憲法が収録されています。

関連企画:
7回シリーズ「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」
10月13日から全7回で日本国憲法を読みます。会場はスタジオCAVE。

【370】透明の秋。

代返、ダブル聴講、レポート丸写し、試験カンニングで学部の3年間を過ごしたあと、4年になった年に不況が訪れて、僕には就職先がないとわかった。逃げるように大学院へ進学を希望した。成績表を見ながら「お前のようなやつが院へ行こうと言うのか」とあからさまに言う教授の顔をテレビドラマでも見るようにぼーっと眺めていたのを思い出す。

6月から勉強を始めた。アパートで一人、まっさらな教科書を開く。数学、物理、材料力学、機械力学、材料学、熱力学、流体力学・・・。頭から一行ずつ読み、演習問題を一問ずつ解いていった。一つの科目が終われば次の科目に移る。全科目を3周ほど終えたところで試験を受けた。9月だった。

主席という周囲が唖然とする好成績を取って、僕は壊れた。世界と時間が灰色になり、アパートで動けなくなった。テレビのリモコンを持ちあげ、テレビをつけ、チャンネルを次々に切り替えて、一周したら消して、リモコンを置く。数秒後にはまたリモコンを取り上げ同じことをする。これを一日繰り返したりしていた。

冬が来る前の頃だったか、ある日僕は立ち上がることすらできなくなった。腕に力が入らない。足にも力が入らない。寝返りも打てない。筋肉というものがなくなったか、あったとしてもその使い方がわからない。このままでは不随意筋すらも動かなくなるのではないか、と気がついてしまうと息が苦しくなり、鼓動がゆっくりになっていった。

たぶん死ぬ。と思った。こんなバカげた死に方があるのだろうかと思ったけれど、あるのかもしれない、膨大な数の命のうちで、少なくともたったひとつぐらいの命がこうやって消えていくということはあり得るだろうし、それが今の僕であることにある程度の必然性を感じた。僕がそう思ったのだからそれは起こり得る。やがてそう確信するようになった。僕は死ぬ。

もう一回心臓が脈打つかどうか、それすらも不確定になったとき、僕はようやく誰かに助けてほしいと思った。

「だれかたすけて」とかろうじて自分が聞き取れる声を出したとき、僕から死は急速に遠のいていった。

死はあらゆる可能性を持って待機している。
無条件に救いを求めることで人は救われる。
能力と評価は生きていくことの外にある。

その後、そういうこととして僕を形作るようになる最初の体験だった。

今日の秋の透明な空と風がそれを思い出させてくれる。20年以上経ったのに、まだあの時を感じことができる。ちょうどこんな乾いて透き通った肌触りだった。

October 6, 2016

【369】庭に生えてきた枝豆を引っこ抜いて食べる。

一株でこんなに採れた。

庭の片隅に生えていた大豆を引っこ抜く。ちょうど枝豆にして食べるのにいい頃合い。

もともと味噌を作るときに選別してはじいた大豆を適当に庭にばらまいていたやつで、育てようとしたわけではなく育った。

雑草にまみれて、茎も捻くれていて、根元の方は横倒しになって地面を這っていた。それがやたらと元気に育って大量に実をつけている。

こんな風にして何株かが育って、ここ数日毎日一株ずつ抜いて茹でて食べている。

もともとばらまいた大豆はかなりの量だったから、大半の大豆は芽を出さなかったか、芽を出しても育たなかった。

そう考えると全体としては極めて効率が悪い。しかし、大豆をばらまいた以上のことはしていなくて、せいぜい草抜きのときに抜かないようにしたり、周りの雑草を余計に抜いたりしたぐらい。

豆類は痩せた土地のほうがいいという話はよく聞く。事実、庭ではなく多少耕した畑っぽいところのは育ちが悪かった。

育てること、育つこと、放置すること、予め諦めること、恵まれた環境、大量の犠牲、運と実力、収奪と愛情、・・・。

なんというか、いろいろと考えさせられるが、ともかく非常にうまい。

October 3, 2016

【368】「節約」は美徳ではない。むしろ冒涜なのではないか。

ひと月の食費が二人でだいたい3万円ちょっと。一食あたり一人約150円。二人ともほとんど家にいて、ほぼすべての食事を家で作って食べる。この金額で酒も飲みたいだけ飲んでいる。

どの食事も非常に美味しい。僕の味覚が低レベル、ということではないと思う。親にもパートナーにも友人にも、お前は舌が肥えていると言われるし、うちに来てくれる人もたいていうちの料理は美味しいと言う。もしそれがお世辞だとしたら、みんな相当な役者だ。

食材はインターネット通販かよつばの個配か近所のスーパーで買う。お米は親戚が作っているのを相場よりはおそらく安く購入しているが、それ以外は特別なルートで買っているようなものはない。

いつも安くて美味しいものを食べていると思う。食べたいものを食べたいだけ食べているとも思う。だから、こういうことについて、僕は「節約」しているという意識はあまりない。

「節約」という語に僕は「我慢している」というニュアンスを感じるけれど、そういうことはしていない。欲しいものを欲しいだけ買っていて、その金額がこの程度にしかならないということだ。

我慢はしていない、けれど、どこか後ろめたさはある。

日本の社会全体でこんな食生活を送ったら、日本経済は確実に破綻してしまうだろう。こんな金額の消費だけでは、インターネット通販は成立しないかもしれない。よつばもスーパーも破綻するのではないか。

そうしたら僕の食生活を支えているものたちは何も手に入らなくなる。

「節約」して安く食材を手に入れることは一般に美徳とされている。賢いことだとされている。でも本当にそうなんだろうか。すくなくとも「美しい」ことなんだろうか。

欲しいものはすべてお金を出せば買うことができ、それらを玄関まで届けてくれる輸送ネットワークがあり、いらなくなったゴミは家の前においておけば回収される。そういう社会システムの上で僕の低金額で充足した生活は成り立っている。

これは貴族だと思う。貴族の生活だと思う。都に居ながらにして全国の優れた食材が手に入る。自分自身では作らず、それを作っている人、運んでいる人の労働に対して、相対的に僅かな対価で美味を得る生活。

こういうことに僕はどこかで後ろめたさを感じている。

恵まれた僕の場所は誰かの「放蕩」ともいえる莫大な労働によって成り立っている。それを「節約」する「我慢して食べる」あるいは「我慢して食べない」なんて冒涜だと僕は思っている。

October 1, 2016

【催し】12月7日 青木亭 高槻食会

持ち寄り食会やります。
食会は「やられた!」と負けを感じることはあっても、
「やった!」と勝った気にはなれないんですよね。
みんなが勝手に負ける。
「相手に」勝つということはつまらないことです。

===
青木邸 高槻食会

【日  程】2016年12月7日(水) 
【集合時間】16:00
【集合場所】JR高槻駅改札
【会  場】青木亭(高槻市の民家。買い物終了後、市バスで一緒に移動します。駅から10-15分程度です。)
【設定金額】1,500円
【内  容】高槻の青木麻由子さん宅で食会をします。集合後、1時間程度の時間を設定し、高槻駅前のアルプラザ、松坂屋・西武百貨店のデパ地下で買い物。その後、一緒にバスで会場まで移動します。普段スーパーでの買い物が多い食会。デパ地下での買い物でどうなるか。

会場に、食器・基本的な調味料があります。気になる方はお問合せください。

【申し込み】mio.yamane@gmail.com(山根)まで。

持ち寄り食会サイト

【催し】「読む・書く・残す」探求ゼミ 1DAY in まるネコ堂

秋になって、ようやく読んだり書いたりすることが戻ってきた感じがします。
湿度との相性があるんじゃないかと思います。

夏は夏をやり、
冬は冬をやる。

季節というのが、気候や気象にとどまらない。
そういうことを思います。

===
【「読む・書く・残す」探求ゼミ 1DAY in まるネコ堂】

「読む・書く・残す」探求ゼミ。通称「書く講座」。
初めてまるネコ堂(京都)にて開催します。

けんちゃんこと小林健司さんと大谷隆さんが始めたこの講座。
参加者の一人が持ち寄った文章を、
じっくりと読んでいきます。

そのときに頼りにするのが、
講師の大谷隆の文字に対する信頼や距離の近さ。
隆の文字に対する世界を垣間見ることで、
文字というものを、
今までに知らなかったところから見ることができ、
そこから持ち寄られた文章を読むと、
それまでの自分の読み方では思いもよらなかっただろう仕方で
文章が見え、それを話していました。
・・・
こう書きながら、
以前講座で文章を読み、何かを発見して、
興奮したことを思い出し、今、多分めっちゃ笑顔です。

それくらいに、文字の世界が見れていました。
わたしにとって文章を読むことは、
講座を通して新たなものになり、
そして書く世界も変化してきたと思います。

しばらく開かれていなかった「書く講座」。
今回、久しぶりにめっちゃやりたくて、
やりたい、やりたいと言っていたら開催に結びつきました。
家作りに忙しいけんちゃんも一緒に開催します。
(多分、開催日までには少し落ち着いているのではないかと思います)
二人がいる「書く講座」が楽しみです。

今回1DAYで2セッション行います。
同じメンバーで2セッションというのは
わたしは初めてで、これもどうなるのか楽しみです。

読む・書く・残す、文字の世界の探求をしてみたい方、
是非ご一緒しましょう。

山根澪

=====
▶日にち:2016年12月4日(日)
▶時 間: 9:00~13:00 セッション1
     13:00~15:00 昼食・休憩
     15:00~18:00 セッション2
     ※昼食はご用意します。
     遠方の方は前泊可能です。申込時にご連絡ください。
▶内 容: 参加者がじぶんで書いた文章を持ち寄って
     じっくりと読み込んでいきます。
     ※通常、各セッション一名ずつ文章の持込を受付けていますが、
     今回すでに先行したチラシ告知にて持込の受付けは終了しています。
▶場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
▶注 意:猫がいます。アレルギーの方はご注意下さい
▶参加費:8000円
     (セッション1のみの参加の場合は5000円。
     セッション2のみの参加はできません。)
▶講 師:大谷隆
▶主 催:小林健司、山根澪
▶定 員:6人程度
▶お申込:mio.yamane@gmail.com
 ・お名前
 ・電話番号
 ・前泊の希望(あれば)
 ・その他(何かあればご自由に)

〈講師の大谷隆のプロフィール〉
1971年生まれ。宇治市出身。
「まるネコ堂」代表。環境報告書・CSRレポート制作会社編集部門、市民活動総合支援センター(社福)大阪ボランティア協会・出版部を経て2010年5月独立。フリーランスの編集者として、読む、話す、聞く、書く、それぞれにじっくり向き合う仕事をおこなう。
・言葉の場所「まるネコ堂」 http://marunekodoblog.blogspot.jp/
・雑誌「言語」 http://gengoweb.jimdo.com/

<小林健司のプロフィール>
愛知県春日井市出身。大阪教育大学在学中に教育関係のNPOの起ち上げに関わり、卒業後も含めて約十年勤務する。ソーシャルビジネスの創業支援をする NPOでの勤務を経て独立。目的のない生命体的集団フェンスワークスに2年在籍し、現在、人とことばの研究室代表。
・人とことばの研究室 http://hitotookane.blogspot.jp/
・雑誌「言語」 http://gengoweb.jimdo.com/

September 27, 2016

【367】ツバスにヨコワ、安くて旨いっていいながら食べてたよ。出世魚と乱獲。

両親が海沿い出身(広島市と秋田県能代市)なせいか、子供の頃から魚はよく食べていて、いまでも好きです。だから喜んで買ってました。

スーパーでよく見かけるツバス。ハマチっぽくて刺し身でも食べられて、うまくて、安くて。以前はあまり聞いたことがなかったけれど、たぶん出世魚でブリになるんじゃないの、なんて言いながら食べてました。

でもちょっと気になって調べてみました。

勝川俊雄公式サイト「未成魚の漁獲による損失は、売り上げの4倍

あぁ・・・・

ツバスはやはりブリの未成熟魚。以前はブリになってから獲っていたのだろうけど、短期的な資金を得るために乱獲状況にあって、結果ブリが激減している。

マグロは出世魚とは言わないらしいけれど、ヨコワも食べてました。美味しいです。

同「ヨコワの成長乱獲について

あぁ・・・。

魚、好きなんですよ。
なんて言ってたのが恥ずかしい。

September 23, 2016

【366】米ヤフーの5億件と本当に守りたいもの。

5億件というと世界人口の約7%。米ヤフーはさすがにやらかすことの規模が違うなぁ、と思わず変な感心をしてしまう。

個人情報流出といえば印刷通販のグラフィックでクレジットのセキュリティコードまで綺麗に出ちゃって、個人的にも頭痛の種。今回の米ヤフーもアカウントを持っているのでこっちもなんとかしないといけない。

こういう事象に対して、技術的にはアカウント・パスワードという「モノ」で個人を認証するということ自体に無理が出ているということで、だから今後は生体認証というバーチャルな対面認証の方向へ行くのだろう。それ自体は止められないというか止めるべきものでもない。


でも別の方向でなんとなく違うと思うのは、僕たちはほんとにそんなに隠さなければいけないのかなぁ。

悪意というものを想定すると、いや、現実に悪意を持って事をなす人はいるから想定もなにもないので、未出の悪意の可能性を「最大化して」対処するということなのだけど、それって窮屈だ。

僕は手元のお金は、金魚鉢みたいなガラスの器に入れて居間においている。多いときには1万円札も入れていたりする。居間はいろんなイベントにも使うから結構人の出入りがある。それでいて僕は「この部屋にあるものは自由に使ってくださって結構です」なんて言ってる。

だから当然、「じゃぁあの金魚鉢の5千円札、勝手に持ってっちゃってもいいんですか?」と訊かれたことがある。かなり長く考えて僕は「まぁ、構わないです」と応えた。

「もしもここに来る人でのっぴきならない状況として5千円が必要なら持っていって構わない。でもたぶんその人は後でこっそり返してくれると思う」と。

もちろん、何から何まで僕がこんなオープンな態度であるというわけではないし、オープンな態度を誇りたいわけでもなくて、どちらかと言うと、僕は窮屈なんだと思うのです。そういうことって。

現実にはまだ現れていない悪意の可能性を最大化して、必ずしも必要でないものに鍵を掛けてしまうのは、僕にはとても窮屈なのです。

それは僕自身の行動にセキュリティ手順を付加するという行動レベルの窮屈さだけではなくて、僕が他人と付き合っていくということそのものに対して窮屈になる。

あとの方の窮屈さは厄介で、僕は誰かと何かをするということができなくなってしまうかもしれない。それは困る。そのほうが困る。

僕に財産と呼ぶべきものがあるとしたら、それは僕が誰かと一緒に何かをやることによってしか手に入らない。その人の悪意を想定してしまうと僕は人と一緒に何かをやることができなくなって、結果として財産自体を得ることができなくなる。

で、ここまで来て改めて思うのは、そういう「財産」とは違って本当に僕が守りたいと思うものはいったい何なんだろう。きっとそれはとっても素敵で掛け替えのないものに違いない。でもそれにはそもそも鍵をかけられるのだろうか。

そんなことを考えました。

さて、ヤフーのパスワード変更しないと。

September 22, 2016

【催し】フミノ・バー2&まるネコ・カレーショップ



10月18日火曜日に、またやります。

現実のバーをほぼ知らない僕とフミノさんが、
二人の妙な存在感を発揮して、
妄想のバーを自宅で実現してしまう企画。

フミノ・バーです。

前回、初のバーをやってみて大きな発見がありました。

バーでは意外と酒を飲まない。

これ、驚きでした。
もっとみんなガブガブ飲むものかとどこかで思っていて、
用意した酒類の大半が残りました。

ベロベロに酔いたい人はバーには来ないんだそうです。
で、酒も飲まず何をやるかというと、喋る。
喋りたおしてましたね。みんな。

どうやら僕が無意識にイメージしていたのは、
ハードボイルド小説に出てくるバーだったんですね。
大学時代読みまくっていたレイモンド・チャンドラーの世界です。

私立探偵やら訳アリ気な宿無しやらが、
片隅でじっとグラスを睨んで、
「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」
なんてことを煙草の煙とともに吐き出したりする。

そんなバー、ないって。

で、2回目ですが、この発見を踏まえることは特にせず、なるようにやります。

そして昼間、なぜかカレーショップもやります。
スパイシーなインドカレーの予定です。

何の変哲もない平日ですが、来ていただければうれしいです。

日 時:10月18日(火) 昼・14時から17時、夜・17時から21時
参加費:昼1,000円、夜1,000円
場 所:まるネコ堂

September 16, 2016

【365】内田樹『呪いの時代』を読んで。

友達のさとしが好きだと教えてくれた、たつるんの『呪いの時代』。面白かった。

相手を傷付けるための「呪い」言説では、たとえそれが「正しく」て「頭が良さそうに見えた」としても、世の中は良くならない。というのは本当にそうだと思う。

特に政治、この国をなんとかやっていこうということに際して、口喧嘩的な相手をいかに貶めるかという言説が今もタイムラインを流れている。

内田樹はわかりやすく「贈与」をテーマに据えてくれているけれど、その根底にはやはり語法があるように僕は感じる。

頻出する「敬意」がそうで、敬意を持った語法では呪いようがない。

内田樹自身が言うように「この本の中で別に新しい知見を語っているわけではない」。ただ語り口が呪いではなく贈与であるのだ。

September 14, 2016

【364】畳の解体。本当の畳はきっともっと柔らかいと思う。

裏側はブルーシート。
畳の解体。

以前、解体の様子はブログに書きました。

木質ボードを畳んで分解。
木質ボードは厚紙みたいな感じ。

ポリスチレンの板を木質ボード2枚でサンドイッチしてあります。
木質ボードは着火剤として使えるのだけれど、こんなにたくさんはいらないので捨てることになりました。ポリスチレンは燃えないゴミ。

本来の稲わらの畳床の畳って、どんな感じなんだろう。
きっともっと柔らかいんじゃないかなぁ。

稲わらだったら解体しても庭に積んでおけばそのうち堆肥になるんだけどな。

September 12, 2016

【363】秋刀魚を焼く日々のはじまり。

近所のスーパーで一匹百円まで下がったので季節到来。

野菜も魚も、たぶん果物も安い時が美味しい。旬というのは裏腹なもの。

シーズン初めはだいたいちょっと失敗する。
庭で七輪を出して焼く。
初夏に選定した庭木の枝が乾いていて薪にちょうどいい。
魚は熾火になってから焼くとうまくいく。
熾火になるまでの間に塩をしておく。
焼くときには手ぬぐいで水気を拭いておく。

今年は庭のかぼすが実をつけたので絞る。
ごちそうさま。

七輪に残った熾火にヤカンをかけて食後の珈琲を入れる至福。

September 6, 2016

【催し】7回シリーズ「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」


最初からポジションを持ってしまうと失われる視界があると僕は思います。

改憲か護憲か、自主か押し付けか、好きか嫌いか、
そういうことは一先ず脇において、まずは文章として「ただ読んで」みたい。
そうしたらどんなことが見えてくるのか。

僕たちは「読む・書く・残す探求ゼミ」で多くの文章を「ただ読む」、
それだけをやってきました。

古文書のように読む。

何世紀に、誰が、何の目的で書いたのかわからない文書が
目の前にあるとして、その人が何を見て、誰に、何を伝えようと
この文字を書いたのか、一つ一つを読んでいく。

こうやって、特に複数の人で一緒にただ読むと、
それまで平面だとばかり思っていたのが実は立体だったのだ、
というぐらいの衝撃的な出来事が生じます。

一人ひとり別々である人間が、
同一の文字をただ読むことで生じる多重像は、
正しさとは違う「何か」を発現させます。

この読み方で日本国憲法を読むとどうなるか。
全7回、半年かけてじっくり行きます。

大谷 隆

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▶日にちと内容:
 第1回 10月13日 前文
 第2回 11月24日 第一章、第二章
 第3回 12月 8日 第三章
 第4回  1月12日 第四章
 第5回  2月 9日 第五章、第六章
 第6回  3月 9日 第七章、第八章
 第7回  4月13日 第九章、第十章、第十一章
  すべて木曜日です。
  内容は予定です。進捗に合わせて変更していきます。
▶時 間 :19時〜22時
▶内 容 :日本国憲法を読みます。(自民党改正草案も参照します)
▶場 所 :studio CAVE(大阪市)
      http://www.fenceworks.jp/access.html
▶参加費 :7回通し 15,000円
      (単発参加 リピーター2,500円、初参加3,500円)
      ※リピーターは「バカ丁寧に読む会」「読む・書く・残す探求ゼミ」の参加者。
▶主 催 :大谷隆、山根澪、山本明日香
▶定 員 :6人程度
▶お申込み:フェイスブックで「参加」、もしくはmarunekodo@gmail.com (大谷)まで
▶持ち物 :
筆記用具と日本国憲法と自由民主党「日本国憲法改正草案」をお持ちください。
下記サイトからダウンロードできます。
・日本国憲法
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j01.html
・自由民主党「日本国憲法改正草案」
http://constitution.jimin.jp/draft/

▶主催プロフィール
大谷 隆
言葉の場所「まるネコ堂」代表。書籍雑誌編集の経験から、読むこと・書くこと・
話すこと・聞くことについてじっくり向き合う企画を実施しています。
・雑誌「言語」発行 http://gengoweb.jimdo.com/
・読む・書く・残す探求ゼミ(第2期まで終了。第3期を準備中)
・講読ゼミ http://marunekodosemi.blogspot.jp/
・言葉の場所「まるネコ堂」 http://marunekodoblog.blogspot.jp/

September 5, 2016

【362】柿渋を作ってみる。その2(追記あり)

前回の記事
【361】柿渋を作ってみる。その1

柿を潰したものに、日向水を入れる。水道水をそのまま使うと塩素などで発酵に悪いらしい。

水を入れた翌日見るとブクブク泡が出て発酵していた。

酒っぽい匂いもしてくる。
ゴミや虫が入らないようにフタをする。
毎日、上下を入れ替える感じでかき混ぜる。
8日目、発酵が止まったようで泡がなくなっている。
色もちょっと柿渋っぽい。
これを濾す。
とりあえず2.5リットルぐらいとれた。
保管容器がなくて、こんなのに入れてみている。
薄めの柿色液。

で、このまま2,3年経てばできあがりらしい。
結構時間が掛かるものなのね。

この間も発酵が進むはずなので、ほんとは口の空いた容器がいいと思う。
これだと蓋が飛ぶかもしれないので、蓋は緩めにしておく。

絞ったあとの柿に再び水を入れて二番汁もとる。やり方は一回目を同じ。

===
追記(2016/09/09)
二番汁はうまく行きませんでした。
・ブクブクの泡が出なかった → 発酵していない
・水面に白い膜が張った → カビ
・舐めてみても渋くなかった → 渋が溶け出ていない

というわけで、庭に廃棄しました。肥料にはなってくれるでしょう。

さらに追記。
二年後、熟成したものはこちら。
【444】柿渋を作る。

【催し】内田樹『ためらいの倫理学』ゼミやります。


日程近くてすみませんが、読んでみて面白かったのでゼミをやります。

===
研究のためでもなく仕事のためでもなく「ただ読むこと」を通して本を体験します。

『ためらいの倫理学』
アマゾン http://amzn.to/2cdWm1U

日程 :9月25日(日) 13:00から17:00

セッション1 13:00〜15:00
 なぜ私は戦争について語らないか
 なぜ私は性について語らないか

セッション2 15:00〜17:00
 なぜ私は審問の語法で語らないか
 それではいかに物語るのかーーためらいの倫理学

参加費:ゼミ初参加 2,000円。リピーターは投げ銭で。
場所 :まるネコ堂(京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167)
http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html

定員 :8人程度

申込 :フェイスブックで「参加」。もしくは 大谷 隆 (Ohtani Takashi)までメッセージかmarunekodo@gmail.comまでメール下さい。

・本を読んできてください。
・セッションごとにレジュメ(形式自由、A4最大2ページ程度)を提出できます。

注意:猫がいます。ゼミ中は会場には入れませんが、普段は出入りしています。アレルギーの方はご相談ください。

参考:
まるネコ堂ゼミ
http://marunekodosemi.blogspot.jp/

September 1, 2016

【催し】CARAPACE、秋の展示会


「丈夫でシンプル、手入れをしながら育てる」ことに重心をおいたバッグと革製品を作っているCARAPACEからのお知らせです。

CARAPACE工房で秋の展示会やります。
10月28日(金)から31日(月)


ショルダー、革のスリッパ、革のベルトに加えて、
新作のトートバッグも準備しています。

価格を抑えたかったのと、
20色もの帆布から自分にあった色をお選びいただくため、
CARAPACEは実店舗での販売を行っていません。

なので、この展示会は僕達にとってとても重要は販売機会です。
宇治市の自宅(工房)までわざわざ来ていただかなくてはならないのですが、この機会にぜひ足をお運びいただけたらうれしいです。

注文せずにちょっと見てみるというだけでももちろん歓迎です。
工房のある「まるネコ堂」ってどんなところか見てみたいという方もぜひ。

CARAPACE製品にかぎらず、革製品をお持ちの方はオイルをご用意していますので、ぜひご自由にメンテナンスにお使いください。塗り方やメンテナンス方法などのアドバイスもいたします。

お会いできるのを楽しみにしています。

August 29, 2016

【催し】言葉の表出、冬合宿2016。やります。


【おかげさまで満席となりました。以後「キャンセル待ち」となります。9/25】

夏合宿に引き続き、冬合宿を開催します。

===
言葉による表出(表現)に挑みます。「書く」ことです。

小説、詩、随筆、戯曲、映画脚本、評論、論文、歌詞、キャッチコピーなど言葉の表出であれば何でも。

大量の「ナニカ」を費やして、ほんの少しでも表出できたらそれはすごいことだと思います。自分の言葉を自分の表に出すという「契機をつかむ」ことができれば。

1 初日(23 日)の9時からオープニングミーティングをします。
2 最終日(25日)の8時から20時まで、それぞれが表出した作品を発表し、全員で「ただ」読んでみます。
3 それ以外の時間は自由です。書いたり読んだり話したり聞いたり寝たり起きたり、ただ居たり居なかったり。

参加費 13,000円
(まるネコ堂宿泊費と食事代込。アルコール代は別とします。通いもOKです。)

===
2016年12月23日(金・祝)9:00~12月25日(日)20:00
自分の筆記用具をお持ち下さい。プリンタ・印刷用紙はあります。

場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
    宿泊は、雑魚寝になります。
    遠方の方は前泊・後泊可能です。申込時にご連絡ください。
注 意:猫がいます。アレルギーの方はご注意下さい
定 員:3名
主 催:大谷隆、鈴木陵、山根澪
お申込:mio.yamane@gmail.com (山根)まで
    お名前
    電話番号
    その他何かあれば

関連情報:
・言葉の表出、夏合宿 2016
https://www.facebook.com/events/1103888469683307/

・雑誌『言語』
2号まで刊行中。
http://gengoweb.jimdo.com/

・読む・書く・残す探求ゼミ
http://marunekodoblog.blogspot.jp/2015/10/2.html

・日本国憲法と改正案をバカ丁寧に読む会
https://www.facebook.com/events/1657877521201973/

August 28, 2016

【361】柿渋を作ってみる。その1

思い立って柿渋を作ってみることにする。
実家の柿の木に結構柿がなってる。

まずはグーグル。
農文協のサイトの説明がなんとなく適当にできそうに書いてあってやる気になる。

あれやれ、これだめとしきりに書いてあるとそれだけでやる気がそがれるので、最初にやってみるというときに、そういうサイトは参考にしない。

大して大きくもない樹だけど今年はよく成った。
例年であればそのまま放置される柿。

バケツ一杯分ぐらい。
叩いて潰す。
こんなかんじ。

このあと、水をひたひたまで入れるのだけど、水道水は殺菌力が強いので発酵に必要な菌が死にやすいらしいので、日向水を作ることに。

とりあえず今日はここまで。

つづき。
【361】柿渋を作ってみる。その2

二年後、熟成したものはこちら。
【444】柿渋を作る。

August 20, 2016

【360】天皇の〈眼差し〉。

8月16日 終戦記念日の翌日に玉音放送をバカ丁寧に聞き読む会」が終了した。

「バカ丁寧に」というのは、関連する歴史的事実やそれに対する歴史観、イデオロギーなどはなるべく脇において、ただ文章を読んでみるという意味で、今回も玉音放送にこれまで持っていた散発的で周辺的なイメージが変わっていったり、それまでなかった実感が立ち上がったりということが起き、とても面白かった。

最初に正午の時報から始まる当日(1945年8月15日)のラジオ放送の音源を聞く。アナウンサーの「只今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様御起立願います」からすでに現在ではなかなか無い感じの雰囲気。君が代に続いて、肝心の詔書のレコードが再生され、再び君が代。その後アナウンサーによる「奉読」と続く。

詔書部分は文体のせいもあるが、一度聞くだけでは理解し難い。なので、詔書のみの比較的音質の良い音源をもう一度聞く。それから、僕自身で音読してみる。参加者の一人も音読。その後30分ほど黙読する時間を取って、それぞれが思ったことを共有する。こういう流れでやってみた。

自分の声で音読するというのは、なかなか緊張感のある独特な体験だった。僕にとって音読というのが、僕自身にかなり強い作用を及ぼすことはすでに知っていて、今回も憑依感に近いような感覚を持った。

特に最後「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」という命令文は、意味としては「あなたたち臣民はこの私の意図するところをよく理解して行動するように」というようなことだと思うけれど「朕カ意ヲ體セヨ」というのは、そういった理解や行動というレベルではなく、「私と一体であれ」という感じがする。僕がこれまでまず体験したことのない感じだ。これほど一方的な立場、絶対的な立場から何かを言うという体験がまずないのだと実感した。

その後の、30分間黙読していくなかで、文体から感じたのは、天皇は「臣民のこと」だけをずっと考えている、あるいは思っている、ということだった。ここでいう「臣民のこと」というのは、すなわち国であり、そのすべてを一体化したものを「國體」というのではないか。天皇によって思い、思われるものの統合として「國體」が存在する。

権力者や支配者というものに対する僕のこれまでのイメージとは違っている。絶対的な立場でありつつ、その立場からどこまでも民のことを考え続けている。支配欲や権力欲、さらに広く、私欲と言えそうなものは全く感じられない。

ここでいう支配欲や権力欲というのは、悪い意味の側面だけではなく指導欲といったような意味も含んでいるし、私欲といった場合も必ずしも「私腹を肥やす」ような意味ではなくて、人としてどうしても持ってしまうある方向性のようなことなのだけど、そういったことの主体がこの玉音放送からはほとんど感じられない。

この主体の感じられなさは、「私と一体であれ」という強力で一方的なメッセージに対して意味的には矛盾している気もするが、だからこそ言えるのだ、という気もする。たとえて言えば、聖書の「汝の隣人を愛せよ」というようなメッセージに似ているのかもしれない。強い絶対的な命令としての言葉が、どの「汝」とも違う立場から「汝」のことを考え続ける、ということそのものによって発せられるというような。

つまり僕は、天皇制の「宗教」としての側面というものに直接触れる体験をしたのだと思う。

天皇が持っている支配のうち、強力な権力機構によって人々を主従的に支配する側面ではなく、この地に住む人々のことをただずっと思う「眼差し」的存在として神聖的に支配する側面が宗教的な側面で、この側面によって、天皇制はこれまで幾度もの危機を生き延びたのだろうと思わせる。

この辺まできてようやく、僕自身が天皇という立場をどう思うのかということが言える気がする。

僕は、「私と一体なのだ」という僕自身の存在のあり方に対する侵入を許容できないが、「民のことを思っている」というあたたかな眼差しに対して拒絶するのは難しい。

この点で、2016年8月8日、今上天皇による「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」は、71年前の玉音放送とは文体として大きく変化している。

「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」に該当する部分は、「国民の理解を得られることを,切に願っています。」となり、「私と一体なのだ」という位相は鳴りを潜めている。同時に「民のことを思っている」というあたたかな眼差しは、「天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。」としてさらに強く僕達の身近に接近している。

僕にとって、許容できない部分が鳴りを潜め、拒絶できない部分が拡大している。僕だけでなく、天皇制に対して保守と革新との間の中間的なイデオロギーを持つ多くの現在のこの国の民にとって、これは当てはまるだろう。

天皇とはまさに、多くの民にとって心地よく望ましい自らの位置を考え続けてきた。天皇のもつ神聖王としての側面の〈原点〉は、神話的な無限遠点にあるが、天皇のもつ神聖王としての側面の〈現在〉は、民のことを思い続ける〈あたたかな眼差し〉によって常に更新され続けている。

もしも将来、この国の民が天皇制を廃すという決断を下す時が来るのだとしたら、最後に残るのは、この神話的無限遠点から照射される〈あたたかな眼差し〉そのものだろう。断裂的で暴力的な拒絶によるのか、静かに息を引き取るような消滅になるのかはわからないが。

August 19, 2016

【359】能代

米代川(よねしろがわ)。
左のほう、もう少し行くと日本海。

秋田県能代(のしろ)市。
8月6日から二泊していました。

バスケットボール好きなら能代工業、
鉄道好きなら五能線で有名ですが、
それ以外の人にはほとんど知られていない街だと思います。
奥羽山脈から流れる米代川が日本海に注ぐ河口の小さな港です。

なぜこんなところに行ったかというと、
ここは僕が生まれたところだからで、
その時、第一子を出産するために母親が里帰りしていました。
今でも祖母や親戚が居ます。

秋田県といえば米どころ・農地の印象が強いですが、
もともと能代は秋田杉などの良質木材の集積地で、
多数の材木屋が栄えた木都でした。
北前船の寄港地でもあります。

港なので荷揚げ荷降ろしする人足もたくさんいたはずで、
人足を斡旋する手配師もいたでしょうし、
賭場も開かれ博徒もいたでしょう。

大坂などから買い付けに訪れる材木商も多く、
料亭が立ち並び、芸妓が呼ばれ、
材木屋との連夜の宴が繰り広げられました。

農民ではない海民、商人、漂泊民たちが活躍した街です。

僕の亡くなった曾祖母もそんな料亭の女将です。
材木屋として一旗揚げた男の妾でした。

8月のこの時期、能代では能代役七夕と言われる祭をやります。

かん高い悲鳴のような笛が流れ、地響きのような太鼓が鳴り、
「ちょーれーちょーれー、ちょごれごれごれん、ちょごれごれんれんれん」と
掛け声が聞こえ始めると城郭をかたどった大きな灯籠が引かれてきます。
灯籠の幅は道幅いっぱい、
高さは2階の屋根を超えるため、
電線をくぐる時には、上部のシャチを倒して進みます。
町ごとにいくつもつらなって進みます。


能代役七夕。
夕方から市内を回丁する。
曾祖母の息子で料亭を継いだ
僕の大おじにあたる人はこの七夕が大好きでした。
日頃の仕事も七夕の人脈をつくるためにやっていたのではないかと思います。
敵も多かったかもしれませんが、体が大きく、威圧感があって
七夕の灯籠に乗って提灯を上げ下げする姿はよく目立ちました。

能代役七夕の由来は諸説ありますが、
阿倍比羅夫、坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に灯籠を使ったのが起源という説があります。
この説からすると、
それまでこの地にいた部族を征服した中央の側を称える祭なのですが、
単純にそうとも言い切れない何かを秘めているように感じます。

たしかに灯籠の城郭部分には宮廷の美人画や武将の武者絵が描かれていて、
雅な都の宮廷世界を思わせます。
しかし、その城郭の上には、
不釣り合いに巨大な二匹のシャチが乗っかっています。
目を見開き、歯をギラつかせ荒々しくそびえ立つシャチの姿は、
むしろ「反雅」です。
激しい太鼓、郷愁を誘う笛とあいまって、
祭は野蛮さと切なさをまとっています。

1日目、大きな交差点に集まり、太鼓。

「ノシロ」が歴史文書に登場するのは古く日本書紀で、
まさに、658年に阿倍比羅夫の蝦夷征討に降った「渟代(ヌシロ)」として登場します。
日本書紀によれば、「渟代」はこの時、比羅夫の軍船180隻を恐れ、戦わずして降伏しています。

ある日、征服された部族がいたとして、
その部族はその瞬間から征服した者と同じ帰属意識を持つわけではない。
征服者はその部族の上に、かろうじて支配という網をかぶせたに過ぎない。
その網の下では長く反抗の血が流れていたのではないか。
七夕はそういう祭なのではないか。

それでも、やがて血は交じり合っていく。
その事自体への反抗なのかもしれません。

2014年、日本創生会議は大潟村を除く秋田県全域を「消滅可能性都市」としました。
ここでいう「消滅」は、そこにいる人が消えるわけではなく
「自治体としての機能を失う」ことですが、
阿倍比羅夫から1300年を経て、
この場所は再び、
中央朝廷の力のおよばぬところに戻るのかもしれません。

August 10, 2016

【358】ありえそうな話。

細野晴臣っぽい人が、ただし20代で、その人を含め3人(時に4人)で、自分たちがやっていたバンドがいかにして誕生したか、どのようなことをやってきてそうなったかを自分たち自身で伝記的に書き残そうとしている。細野っぽい人はそれを熱心に進めようとしているが書いているのは別のメンバーである。

3人はひたすら話をしている。大学生のころにそのバンドを始めたらしい。バンドを始めた動機は基本的には女の子にもてたいということで、それも具体的なあの子やこの子とどうやって仲良くなるか、みたいなことをひたすらやってきた。時にバンドではなくて自主制作映画を作っていることになったりもする。くだらないことを不器用に何度もやってきている。女の子にもてるということ自体はあまり成功していない。

それをただずっと3人で、思い出すために話をしていて、書く担当になったメンバーがそれをどうにかまとめていく。

時々原稿が進んでいくようだが、書く担当のメンバーはもともと書くのが得意というわけでもなく、本当にこれで良いのかわからない感じである。

大して面白くもない冗談を言いながら、3人の作業は進んでいく。話している内容も大して面白くもない話ではあるが、不思議な魅力がある3人で、自分たちがやってきた音楽(か映画)はとても重大なことなのだということを醸し出している。ある意味とてもまじめに、この、とても成果を結びそうもない自分たちによる伝記づくりを続けていく。

やがて、数週間か数ヶ月か、何度も開催された話し合いは終わって、書く担当のメンバーはそれを書き上げる。細野っぽい人は真面目にそれを読んで、「これはとてもよく僕達の持っているものが書き残されているんだけど」と言って、原稿の束を持ち上げる。その束は一抱えもある段ボール箱サイズになっていて冗談っぽく「はい。テストはここから問題出すよー」と言ってみせる。ようするに多すぎて「ただこの分量だと誰も読んでくれない。もしよかったら僕が少し削って一冊の本にするけれど、それでいいかな」と書いたメンバーに言って了承を得る。

細野っぽい人は「あくまでもその過程の中から書かないといけなくて、その過程が今のバンドにつながっているんだ、だからすごいんだというようにしないといけないから」と言って、その「過程」の外にあるような描写を削るつもりだと匂わせる。

僕はといえばそれをずっと、少し離れたところで見ている。喫茶店の隣のテーブルで聞き耳を立てている感じで、細野っぽい人たちのグループは僕のことを認識していない。僕は、馬鹿っぽいこの大真面目なやり取りをずっと聞きながら、この人達は後に本当にすごい人たちに、それこそYMOのような世界的なバンドになるということを知っていて、面白がりつつも尊敬を持ってことの成り行きを見守っている。

最後は、結局、その本ができあがり、まさにその本によってこのバンドは一躍脚光を浴びていくのだ、という気分がしてきたところで、目が覚めた。とても切りの良い終わり方だった。

全体の雰囲気は、昭和の漫画っぽい線画で、時々新聞の4コマ漫画的なデフォルメも受ける。大友克洋の初期の短編のような「どうしようもなさ」がにじみ出ていた。

自分たちがやっていることのすごさ、今現在はそういう評価は得ていないけれど、それでもすごいのだという確信を持っていることや、そのすごさ自体を自分たちで本として書くというやり方、しかもその内容がグダグダな感じであること、それにもかかわらずこの人達は後に高い評価を得るのだということ、それらが混ぜ合わさり、起きた時には憧憬となっていて、強烈に書き残しておきたくなってこれを書いた。

July 31, 2016

【357】コーヒーのおすすめドリップポット。

先日友達のさいちゃんに、うちで使っているコーヒーのドリップポットを紹介してよと言われたので、ここに紹介します。

うちで使っているのはカリタの細口ポット0.7Lです。

が、実はおすすめしたいのは別のポット。

タカヒロ コーヒードリップポット0.9Lです。
(容量・グレード的に同等品を選びました)

タカヒロは湯滴のコントロールがとってもやりやすいです。取っ手も持ちやすい。

カリタのもわりと細く出せますがタカヒロとは全然違います。あと、カリタの取っ手は悪いです。板の角が指にあたって痛いです。

アマゾンの価格差だったら、タカヒロをおすすめします。
僕も今買うならタカヒロです。

■アマゾン
タカヒロ コーヒードリップポット0.9L
http://amzn.to/2allCGi

参考:カリタ 細口ポット0.7L
http://amzn.to/2alm9rZ

その他のメーカについては使い込んだことがないので、なんともいえません。

以上、参考になれば。

July 29, 2016

【催し】「8月16日 終戦記念日の翌日に玉音放送をバカ丁寧に聞き読む会」やります。

先日「(参院選の)投票日に日本国憲法と改正草案をバカ丁寧に読む会」というのをやって以来、引き続き興味を持ち続けて、今度はこんなことをやります。

網野善彦が『日本の歴史をよみなおす』(1991)で、現代というのは南北朝動乱以来の大転換の時期だというようなことを書いていて、少し前まではいったいどういうことなんだろうと思っていたのですが、たしかに今、日本という国家は大きな転換期に入っているかもしれないというざわついた気分が僕にもしてきました。

南北朝期、後醍醐天皇が無縁の力(悪党)を結集し南朝を打ちたて日本の王権を2つに割ったようなことに匹敵する何かが起こる、のかもしれません。

それと玉音放送がどうつながるのかわからないのですが、無関係ではないだろうという予感はあります。

いずれにせよ僕は、読むことぐらいしか取り柄が無いので、とにかく読んでみます。

===
終戦記念日をきっかけに、玉音放送を聞き読みます。
(開催は、終戦記念日の翌日8月16日です。)


玉音放送にまつわる話は、何度も聞き読んできた。
例えば、祖母の終戦の日のはなし。
ある作家がその日見た空のこと。

でも、玉音放送自体をしっかり聞き、読んだことは、一度もなかった。
いったい、どういうことが書かれ、話され、終戦が告げられたのか。

玉音放送にまつわる記憶はいったん脇に置いておいて、
玉音放送を聞き、「ただ読む」ということをやりたいと思います。

山根澪

=====
「8月16日 終戦記念日の翌日に玉音放送をバカ丁寧に聞き読む会」
▶日にち :2016年8月16日(火) 
▶時 間 :13:00‐17:00
▶内 容 :玉音放送を聞き読みます。
      ※下記のリンク先などより、
      大東亜戦争終結ニ関スル詔書(玉音放送)を印刷してお持ち下さい。
▶場 所 :まるネコ堂
      京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
      http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
▶参加費 :2,000円
▶主 催 :大谷隆、山根澪
▶定 員 :6人程度
▶お申込 :mio.yamane@gmail.com(山根)
 ・お名前
 ・電話番号
 ・その他(何かあればご自由に)

※近くに昼ごはんを買えるところがありません。早く来られる方には軽食をお作りします。お申込時にお伝え下さい。(投げ銭歓迎)
※会場には普段ネコがいます。会の間は同じ部屋にはいませんが、猫アレルギーの方はご注意下さい。

■大東亜戦争終結ニ関スル詔書
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/pdf/syousyo.pdf
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000042961&ID&TYPE=large&IMG_FLG=on&NO

■玉音放送(youtube)
https://youtu.be/TDgOFsH8PZo


関連情報:
・日本国憲法と改正案をバカ丁寧に読む会
7月10日 https://www.facebook.com/events/869868913145529/
7月18日 https://www.facebook.com/events/1657877521201973/

・雑誌『言語』
2号まで刊行中。
http://gengoweb.jimdo.com/

・読む・書く・残す探求ゼミ
http://marunekodoblog.blogspot.jp/2015/10/2.html

【催し】8月11日から13日「言葉の表出、夏合宿2016」やります。

去年は、ばかみたいに長期間のフリーキャンプ(キャンプじゃないけど)をまるネコ堂でやりましたが、今年は言葉に向かいます。

直前の告知ですが、もしお盆休みの予定が決まっていない方がいらっしゃれば。

===
夏です。

言葉による表出(表現)に挑みます。「書く」ことです。

小説、詩、随筆、戯曲、映画脚本、評論、論文、歌詞、キャッチコピーなど言葉の表出であれば何でも。

大量の「ナニカ」を費やして、ほんの少しでも表出できたらそれはすごいことだと思います。自分の言葉を自分の表に出すという「契機をつかむ」ことができれば。

1 初日(11日)の9時からオープニングミーティングをします。
2 最終日(13日)の13時から18時まで、それぞれが表出した作品を発表し、全員で「ただ」読んでみます。
3 それ以外の時間は自由です。書いたり読んだり話したり聞いたり寝たり起きたり、ただ居たり居なかったり。

参加費5,000円
(まるネコ堂宿泊費と食事代込。アルコール代は別とします。通いもOKです。遠隔参加(スカイプなど)もできるだけやりたいと思いますのでご相談ください。)

===
2016年8月11日(木・祝)9:00~8月13日(土)18:00
自分の筆記用具をお持ち下さい。プリンタ・印刷用紙はあります。

場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
    宿泊は、雑魚寝になります。

注意:猫がいます。円坐を行なう部屋には入れませんが普段は出入りしています。アレルギーの方はご注意下さい

主 催:大谷隆、鈴木陵、山根澪
お申込:mio.yamane@gmail.com (山根)まで
    お名前
    電話番号
    その他何かあれば

関連情報:
・雑誌『言語』
2号まで刊行中。
http://gengoweb.jimdo.com/

・読む・書く・残す探求ゼミ
http://marunekodoblog.blogspot.jp/2015/10/2.html

・日本国憲法と改正案をバカ丁寧に読む会
https://www.facebook.com/events/1657877521201973/

July 28, 2016

【356】大学時代と今。

僕の大学時代の思い出はあまりいいものではない。

もちろん楽しいこともあったし、多くの人との出会いもあった。学んだこともあった。それでも記憶の中では、僕の大学は薄暗いところに沈んでいる。大学院も含めれば8年ほどそこにいて、結局は破綻した。そういう結末も大きく影響しているのかもしれない。

いずれにせよ、だから大学というところはダメなところなのだ、ということを言いたいのではなくて、僕のそこでの経験に対して、僕自身がずっと薄暗さを感じていて、そのことにずっと引っかかり続けていた。盛大に無駄な回り道をしてしまったのではないかと。

2年ほど前にまるネコ堂ゼミという名前で講読ゼミを始めたのは、僕の中の理想というか妄想として、僕自身はそういう体験ができなかったけれど、きっと他の人達は、特に文系の人たちは、集まってただただ真剣に全力で本に向かうという素敵な時間を大学で過ごしたに違いないという思い込みがあったからで、社会人学生として社会学の大学院に通う友達のむっきー(高向くん)に、うらやましいなあと伝えたら「いやいや、ゼミそんなんじゃないですよ。そんなゼミがあったら僕も行きたいです」と言われたことがきっかけだった。

まるネコ堂ゼミは21冊目にを迎えている。どの時間もとても面白く素敵で、どの本も僕の消化器官をゆっくりと通って僕自身に成っていっている。今は幾分勢いを抑えてゆったりと進めているけれど、講読ゼミのこの感じ、この雰囲気はもうしっかり僕の体にしみついていて、いつでも筋力として駆動できる。

1年半ほど前から、友達のなっちゃん(小林直子さん)をきっかけにして、けんちゃん(小林健司さん)とともに「読む・書く・残す探求ゼミ」というのをやっている。この探求ゼミは、毎回僕は僕の全部を使うことになって、恐ろしくスリリングで面白い。ただただ「読むということ」「書くということ」に向かう時間。今考えれば、よくまぁほんとにこんなことができたなぁと驚くばかりである。今年の6月には東京でやることもできた。さらに7月の参院選の「投票日に日本国憲法と改正草案をバカ丁寧に読む会」につながって翼を広げつつある。

まるネコ堂ゼミや「読む・書く・残す探求ゼミ」でしつこくやってきたことは、今年の4月1日に発刊した雑誌『言語』として、今まさにどうにか文字にしようと悪戦苦闘している。この雑誌『言語』もけんちゃんとともに作っている。『言語』は、けんちゃんは時々そうなのだけれど「行動そのものとしてのけんちゃん」がいなければ、なかったことだ。探求ゼミも『言語』の発行も、自分にとってもうこれ以上後退することができないギリギリのところで踏みとどまるようなことだ。

僕にとって大学とはこういうことができる場であってほしかった。そこになんとか踏みとどまって、自分の全部を使ってやるようなこと、膨大な量の自分の何かを使って、ホンの少しずつ進むこと、そういうことができる場所であってほしかった。現実に過ごした僕の大学の8年は、そういうことができなかった。やろうとしなかった。それが薄暗さとなった。後悔といえば後悔のようにも思えるけれど、ただその時は僕はそうとしかできなかったのだし、それが不幸だとは思っていない。

こうして書いてきた今、もはやそれが大学であるかどうかはどうでもいいと思っている。そうあってほしいという遠い場所ではなく、ただ、こうだという場所にいればいいと実感している。そこで一緒に読んだり書いたり話したり聞いたり居たり居なかったりするすべての人にただ感謝がある。

こういったことに隣で、何度も喧嘩をしながら一緒に歩いてくれたのがパートナーの澪で、澪がいなければ全ては違っていた。今こうであることを僕はとてもありがたいと思っている。

July 24, 2016

【催し】東山の和室・最後の食会

東山の和室と称して友人と4人で借りていた木造アパートの一室を7月末で解約することにしました。

いつでも好きなときに行けて、好きなだけ居られる。

僕にとってはそういう場所です。

風呂は無く、トイレは共同、エアコンもありません。冬場はガスストーブ一つ。冷蔵庫はなく、カセットコンロとフライパンにわずかな食器類だけ置き、家具と呼ばれるものは一切ありません。寝袋を幾つか持ち込んで、それで寝ていました。

ほとんど日は誰も居ない場所。

たまに4人のうちの誰かがふらっと居る。一人で本を読んだり、文章を書いたりしました。だれかと一緒にただひたすら話したりもしました。

時々は円坐をしました。
あとは持ち寄り食会も。

共同で使うためのルールというべきものはほとんどありません。ここを持つ明示的なメリットは何もなく、それでも1年7ヶ月ものあいだ、ここはありました。

いつ無くなってもおかしくなかったものが無くなります。

7月29日に最後にここで持ち寄り食会をやろうと思っています。

確実に蒸し暑いので汗をかいてもいい格好で。
終了後近くの銭湯に行こうと思っています。

これまでこの場所に訪れた方、訪れたことはないけど気になっていた方など、どうぞ。最後です。

July 11, 2016

【355】投票日の朝に憲法と改正草案をバカ丁寧に読む会というのをやりました。

投票日前のギリギリに生まれた企画だったので、ブログで紹介することができなかったのですが、「投票日の朝に憲法と改正草案をバカ丁寧に読む会」をやりました。

開催にあたってはいろいろとあったのですが、結果としてはとても面白かった。憲法って考えてみれば不思議な文章で、現行憲法はなかでもとても不思議な感じがする。いわく言いがたい魅力があるということがわかった。

今後も読んでいきたいと思っています。


終わったイベントですが、こんな感じでフェイスブックで告知していました。
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「投票日の朝に憲法と改正草案をバカ丁寧に読む会」

とある投稿からの流れで、こんな場を開くことになりました。
 

大谷隆より案内
 
憲法とは何か、好きか嫌いか、変えたほうがいいか変えないほうがいいか、
そういうことはまるごと脇において、まずは文章として「ただ読んで」みたい。
 
そうしたらどんなことが見えてくるのか。
 
小林健司さんと僕(大谷隆)がこれまでに2期にわたってやってきた
「読む・書く・残す探求ゼミ」では、この「ただ読む」ということ、
ほぼそれだけをバカ丁寧にやってきました。
 
「ただ読む」というのは、ゼミでよく使う喩えでは「古文書のように読む」。
 
何世紀に、誰が、何の目的で書いたのかわからない文書が
目の前にあるとして、その人が何を見て、何を伝えようと
この文字を書いたのか、一つ一つを読んでいく。
 
面白いことに、こうやって、特に複数の人で一緒に読むと、
それまで平面だとばかり思っていたのが実は立体だったのだ、
というぐらいの衝撃的な出来事が生じます。
 
憲法ほど、
いつ、だれが、何の目的で書かれたのか明白なものはない、
と思うと同時に、
 
憲法ほど、
いつ、だれが、何の目的で書かれたのかということを超えて読まれるものもない、
とも言えそうで、
 
とにかく、ちょっと慌て気味ですが、
もう一人の主催・青木麻由子さんの「今、起きていること」の方に
手を伸ばしていくしぐさを契機に、
今一番読んでみたい文、憲法と改正草案を読みます。
 
大谷 隆

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▶日にち :7月10日(日) 参議院投票日です。
▶時 間 :早朝7時〜9時頃
▶内 容 :日本国憲法、自由民主党改正草案を読みます。
▶場 所 :高槻市(詳細は申し込み後、お知らせします)
▶参加費 :1500円
▶主 催 :青木麻由子、大谷隆、小林健司
▶定 員 :6人程度
▶お申込み:marunekodo@gmail.com (大谷)まで
・お名前
・電話番号
・その他(何かあればご自由に)

July 6, 2016

【354】猫との領域。家の中に仕切りを作って入れた。

材料はコーナンで買いました。軽トラックを借りて運びます。
ホワイトウッド。
27×40×2700を8本。
他にも金網とか買いました。

必要な長さに切って、色を塗ります。
ペンキを塗るときはつなぎです。

うちは家中を白く塗ったので、今回も白のペンキです。

乾いたら印を入れます。墨付けと言うのかな。
統一的なルールがあると思われますが、
自己流です。
切ります。

こういう「つぎ」は今回はじめてやってみました。
のこぎりとノミがあればそれなりにできることがわかりました。

おもいっきり端折って、できあがり。

階段の前の部屋を2つに仕切りました。
写真では見えませんが、金網を貼っています。

室内を2つにわけています。
全面に金網を貼ってあって、左側はドアになっています。

本日をもって家の中の猫との領土問題が約2メートル前進。
トイレまでの安全なルートが確保され、
家の外を通ってトイレまで行く必要がなくなった。

June 20, 2016

【353】ゴミ箱のバージョンアップ。蓋をつける。

うちのゴミ箱はりんご箱。

なんの変哲もないりんご箱をゴミ箱にしています。
ここに燃えるゴミとプラゴミの袋を入れていました。袋は2つだけど、なかでごちゃっとなっていて、そのうえうちの猫が漁るのでなんとかしないととバージョンアップを決意。

バージョンアップ用の材料は、もう一つのりんご箱をバラして入手することに。
左の黒いのがゴミ箱。
右の白いのをバラして材料に。
新しさから言えば、バラしてしまう白い方が新しいのだけど、あえて古い方を活かすことに。なぜなら、


同じ側面の板でも厚みが違う。
この手のものは、だいたい古いほうが良い材料を使っているから。
この箱の場合は、板の厚みが違う。

というわけで、まずは白い箱をバラす。
釘抜きはお尻のところに当て木をしてやると
釘が真っ直ぐ抜けます。
釘で止めてあるので、板を叩いて釘を浮かせて抜いていく。
バラすとこんな感じ。
幅が不均一な板をうまく組み合わせている。
抜いた釘はこんな感じ。
蓋につける取っ手を以前バラしたドアのやつから使いまわそうと思ったのだけど見当たらない。仕方がないので、

両端は平らに削った。
となりの家のザボンの剪定枝から適当に曲がっているのを選ぶ。

両端の固定用の板もバラした材料で作る。
バラした板を繋いで蓋にする。
取っ手が斜めなのは、デザイン上からではなくて、
真横につけると板を割ってしまいそうなので。
箱のなかは、
仕切り板もその固定用のパーツもバラした素材で。
仕切りを入れておく。
これで、燃えるゴミと燃えないごみが分けやすくなる。

蓋をつけた状態で猫のチェックを受けると、開けようともしなくて、これでゴミ漁り対策もバッチリ。