November 8, 2018

【485】動物を飼いたいと思ったことは一度もない。

うちには猫が三匹もいるので、こういうことを言うと驚かれるかもしれないけれど、僕自身、動物を飼いたいと思ったことは生まれてから一度もない。動物に限らず、鳥や昆虫もない。大人になってからそうなったのではなく、子供の頃から、物心ついた頃からそうだったし、今でもそれは変わっていない。

猫を飼っている理由は、仕方なくだ。飼わなくても生きていけると思えたら、僕はたぶん3匹の猫を飼っていない。僕が飼わなければ生きていくことが困難だと思えたから、飼うことにした。いずれも仔猫のうちに親から離れ、自分だけでは生きていくことが困難な状態で遭遇している。つまり、これは「責任」という言葉の物語である。

子供の頃、僕もそれなりに昆虫を捕まえたりするのが好きだった。それなりというのは、ものすごく好きだというわけではないけれど、竹林に行って竹を蹴っ飛ばして、上の方からクワガタが落ちてきたりすると、それはやっぱり興奮した。でも、捕まえて虫かごなどに入れて自分で飼うとなるととたんに重圧を感じて、翌日わざわざ捕まえたところまで持っていって逃したりしていた。

僕が直接に関わらなくても生きていける存在について、僕が関わるということの責任に耐えきれなかった、というとあまりに大人びた言い方で信じてもらえないかもしれないが、小学校低学年のときから僕はわりとはっきりとそういったことを感じていた。

こういうふうに書くと「命の尊さを知っている優しい少年」というようなイメージをひょっとしたら持つかもしれない。が、それは違う。なぜなら、同時に僕は、鯛の活造りのような、今なら「残酷」と言われかねないようなご馳走が大好きだった。もちろん、それが「魚という生き物の命を奪っている」ことについても自覚していた。生き物に対する態度として、「優しい」ということの範疇に入るような状態では、少なくとも自分の意識としてはない。

これは今でも基本的な意識としては変わっていない。食べるために殺すこととそれ以外とは、僕の中では全く別のことである。食べない以上、ゴキブリや蚊すらも、本当のところは殺したくない。

食べるために殺す命と、そうではないことで失われる命とを、「命」というものの種別として区別しているのかというと、これは難しい問題なのだけれど、僕としては「命」としては区別はしていない。しかし、外から見ればそう見えてもおかしくはない。

命というものは同じだけれど、命を奪う必然性が異なっている。食べるために殺すことは自然だけれど、食べないのに殺すことは反自然だ。僕はその反自然性に対して抵抗がある。できることなら、あるいはできるだけ、自然に生きたいのだと思う。痒くなければ(そして一部の感染症を無視すれば)蚊に刺されることはなんの問題も僕には生じない。

夏休みの自由課題とかでよく、昆虫が好きだから昆虫採集をしました、みたいなことを言ってる子供がいたが、子供心に全く理解できなかった。極めて反自然に思えたし、「理科」とか「生き物」とか「生物」とかへの興味と、食べるわけでもないのに生き物を殺すことができる反自然的な神経とが同居しているということが僕には不思議でならなかった。

今ならもう少しわかる。自然から遠ざかることは、責任を負うということで、少なくとも僕は、昆虫採集という行為の責任を負えなかったのだ。

冒頭の猫の話に戻りたいのだけれど、流れとして簡単に戻れそうにないので、以下唐突になる。

責任という言葉の根は、命というものへ関与の意識なのだと思う。責任とは、命への関与に対する反作用のことだ。猫を飼う日々は、この反作用を受け続けることである。飼うことは命への関与に他ならない。僕は、できれば猫たちとも自然でいたかった。しかし、そうすることができなかった。命そのものが、自然からの遠ざかることを後押しした。遠ざかった分、命そのものの重さで、反作用が、責任が生まれている。だから、僕は猫を飼っている。


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