脇腹あたりをくすぐっても、新(あらた)はくすぐったそうにはしない。いわゆるくすぐったいというのはいつ頃から始まるのだろうか。
そもそもくすぐったいというのは厄介な感覚で、例えば自分でくすぐってもほとんどくすぐったくない。くすぐったいという感覚は、他人にすくぐられなければ発生しない。
物理的身体的には同じ刺激でも、自分でやるのと他人でやるのとで引き起こされる感覚が全く異なる。感覚と言っているものの正体の一端がここに現れていると思う。
つまり、感覚はイメージを伴うのだ。より正確な言い方をすれば、少なくとも、イメージを経由することで生じる感覚があるのだ。
感覚というのは、ある外部刺激に対する、該当身体部位の感受性によってのみ発生するわけではなく、感受した刺激が統合されることによって発生する。その際、意思や意図あるいは想像といった〈イメージ〉も統合に加わっている。
これは「感覚と理解」「感覚と思考」「感覚と想像」といったように、感覚を身体的なものとして、理解や思考や想像を頭脳的なこととして、両者を区別することはできないということを示している。理解することで緩和される肉体的な痛みもあるし、知らないために感じない痛みもある。
また、悲惨な話を聞いて、そのシーンを想像し「胸が痛む」ことと、物理的にあるいは病理的に胸の部分が「痛む」ことは、痛みの感覚というものの仕組み上、同じ構造を持っているとも言える。イメージが身体システムに浸潤している。それも誤差などではなく重大に浸潤していることの証拠が「くすぐったい」ということだと思う。
新がくすぐったくなる時、新のイメージが身体システムに浸潤したのだと言えるはずだ。