November 28, 2018

【511】生誕は日常の破れである。(生後83日目)

生後9分。
新(あらた)の現存する最古の写真。
子供が生まれる。つまり、人が一人増えるということは重大なことである。もう少し厳密に言えば、日常の破れである。この破れを繕うのは並大抵のことではない。いつもであればできたことが、「そもそもできない」というふうに破れているからだ。できたことができない。破れを直すことそれ自体ができない(破れている)と言ってもいい。破れにあてようとした、あて布すら破れているのだ。

しかしこれは、逆に、それまでの固着した日常を打破するきっかけにもなっている。いや、きっかけなどという生易しいものではなく、もうすでに、打破されている状態である。だから、この時期、出来事が膨大に溢れ出るようなことが起こる。また、起こすことも可能になる。日常の破れがないときに、固着した日常を打破するのは容易ではない。容易に変えることができないという意味が、日常の「常」という文字に刻み込まれている。

こういったことは何も新しい概念や世界の見方ではない。網野善彦がきちんと定型化してくれている有縁と無縁の二つの原理を示している。

日常、「ケ」は有縁の原理に基づき、日々強化されている。それに対し、その破れ、特異点としての「ハレ」は無縁の原理に基づいている。

子供が生まれたり、人が死んだりすると、日常が破綻する。こういうときに守りに入ることは、決壊した川の破れた土手に土をかけるようなものである。いっそ、これを期に、川自体が流れを変えてしまってもいいと思って、更新された川の流れを生きることにする、というのが無縁の原理で生きる視座である。流されながら新たに築く。

というわけで、濁流に飲み込まれながら、新しい川の流れで生きてやろうと思って、いろいろやっている生後83日目。いまだ出来事の洪水は終わらず、水位高し。

まったく、網野善彦のエクリチュール(書いたもの)をこれほどまでに強く体験することになるとは。書かれたものを読むことは時に重大なことを引き起こす。


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