December 26, 2014

【036】茶室を持つ、かも。

空だけの写真を見ると、
いつも切り取られている感じがする。
とあるアパートに部屋を借りるかもしれない。

場所は京都の東山。京阪三条から徒歩10分ぐらい。都会。
玄関を入ると靴を脱いで木の床の廊下が続く古い旅館のような木造2階建て。
友達と何人かで借りる算段を立てつつある。
住むのではなく立ち寄る。

エアコンがないから夏は暑い。
そういう時はどこかへ避難する。
近くには図書館、美術館、多数の喫茶店、コンビニ。

風呂がないから風呂には入らない、
か、もしくは近くの銭湯。

冷蔵庫を置く気はないから、食べ物は食べない、
か、もしくは近くのお店。

トイレと洗濯機と物干し台は共同。

都市に暮らすというのは、そういうことだと思う。
私的所有を減らし、公共に潜る。
都市という広大な空間に生きる。

そして、部屋という結界を張った領域に消え入り、
ひとりで考え事をする。
ひとりで本を読む。
友人と会う。

だからこれは茶室。

この計画、進展したら続きを書きます。

December 19, 2014

【035】旅はどこへ行くかではなくて、どれだけ持っていけないかだ。

こんなリュックで暮らせば、
それはもう旅。
チェルフィッチュの『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』を観た。

全てにおいて閉じている。

舞台はコンビニ。若手男性バイトの言葉は次の瞬間、先輩バイトの言葉で打ち消される。常連客の期待と喜びは次の瞬間、苦情へと転落する。新しい釣り銭の渡し方も、正論を吐く買わない客も、何もかも、舞台上に登場したが最後必ず反転し無に帰す。

アフタートークで演出家の岡田利規は「東日本大震災を契機として変わることができたかもしれないけれど変わることはなかった私たちの社会をコンビニは象徴している。」と言っていたけれど、この「何が現れても直ちに反転し無に帰す」虚しさは強烈で、それが現代の日本だという表現は、どんなに面白く、コミカルであっても、僕は観ていてしんどくなる。心の底で泣いてしまう。

そういう意味では前作の『地面と床』の方が、一般的には寂しいお芝居だろうけれど、「死者との対話」「死者の言い分」という、それまで無いと思っていたものへのアプローチを考えるきっかけになったから、僕自身は楽しさやうれしさを感じた。

関連するのか関連しないのかわからないけれど、書き進めてみるのだけれども、最近ネット上で僕がきちんと読むテキストの多くが「Bライフ」系のブログになった。

Bライフというのは、寝太郎さん(『スモールハウス』の著者)の造語で、サイト「Bライフ研究所」は
このホームページは、誰にも文句を言われずにいつまでも寝転がっていられる生活を、低予算で確立するための情報集積、および管理人の実践紹介を目的としたサイト
とある。
http://www.blife.asia/
(※追記:2015/12/20
 上記サイトは閉鎖され、ブログに集約されたようです。
 http://mainennetaro.blog.fc2.com/
 「Bライフ」という言葉も、もうあまり使っていないのかな。)

小さな小屋を自分で建てる、持ち物は最小限、生活費も最小限、特に何をするというわけでもない日々をただ送る。時々目的のない旅に出たりする。そんなライフスタイルがとても心地よくて、これこそが希望に思える。

わたぐもさんの「人のいない海辺の空き家でひっそり暮らす」のこのエントリーで
http://watagumohuwahuwa.blog.fc2.com/blog-entry-29.html
切迫した思いから、バイク一台で
1月の真冬に大学を卒業し、グーグルマップをみながら理想のテント生活ができる場所を求めて原付を走らせました。
というくだりは、いろいろ大変な思いを抱えていただろうけれど、はたから見ればこれ以上ない希望に思える。

ここで最初の話に戻って、「何があっても何も変わらない」虚しい円環からの離脱点は、この「できる限りの無い」で、そこでこの円環から抜け出せる。

この離脱こそが旅で、だから旅には「どこへ」なんてなくて、ただ出来る限り持ち物の「無さ」がある。

December 16, 2014

【034】書くこと残すこと

果樹は野菜と違って食べられるまでに
少し時間がかかるのが書くことに似ている。
前回、「しばらくお会いできていない」と書いた西本さんから、なんとメッセージをいただいた。本当にうれしくて思わず声を上げてしまった。ブログを読んでいただいたとのことで、近況が綴られていた。こういうことがあると書いていてよかったなと思う。

あのエントリーを書いたのは、当時東山いきいき市民活動センターで西本さんと出会った僕とその少しあとにそれを書いた僕がいたからで、過去の「僕たち」が今の僕にこのよろこびを贈ってくれたように感じる。西本さんもお便りのなかに、ブログを読んで当時のことを思い出したと書いてくださっていて、それもとてもうれしかった。

書くことは残すことで、残すことの良い面はこういう時に実感できる。

December 4, 2014

【033】大人しい大人(再掲載)

よくもまぁここまで細かいしきたりやルールが
あふれたこの社会で僕は生きていられるものだ
再掲載シリーズ。

東山いきいき市民活動センターは今でもなんとなく僕の意識の中に場所があって、京都市内へ行くときは京阪三条を思い浮かべる。今、日々履いている革靴をオーダーした靴屋さんも東山いきセンのすぐ近くにある。三条界隈を思った時に今でも立ち現れる漠然とした「好ましい場所」の意識はたぶんこのブログのエピソードに由来する。

なお、東山いきいき市民活動センターに関する記述は掲載当時のもので、現在のサービスと異なる場合があります。

===
2012年8月12日

京阪三条駅近くに東山いきいき市民活動センターという施設がある。この一階に誰でも自由に無料で使える「サロン」スペースがあることを知ったので、近く応募するプランコンペ用の企画書を書くのに使うことにした。L字型をした部屋に事務机と椅子が置いてあり、中央部分にはソファーと低いテーブルもある。そのテーブルの上にジュースのパックや何かを食べた後の残骸が散乱していて、ちょっと気になったがすぐに施設のスタッフがやってきて、それらを片付けて行った。それからしばらく企画書づくりをしているうちに、中学生が5~6人やってきて、ソファーのあたりにたむろしてしゃべりはじめた。たちまちさっきのゴミの山のような状態が再現された。スマートフォンらしきもので音楽を鳴らし、大声を出し始め、最後はサッカーボールまで蹴り始めるのだが、やがて施設スタッフがやってきて注意を始めた。

その女性のスタッフは中学生たちのそばにしゃがんで、何度も同じことを繰り返した。「このトイレットペーパーはどうしたのか?どこから取ってきたのか。ゴミを片付けなさい。大声を出してはいけない。」中学生はまともに取り合わずそのスタッフを茶化し続けた。話の内容からこの状況が毎日続いているらしいことがわかった。

ここまではよくあることだと思って聞いていた。たしかに同じ空間で突然大声を出されると気が散って企画書づくりに支障が出る。正直なところ、中学生たちが早く出て行ってくれないものかと最初は思っていた。

間を挟んで1時間ほど中学生とスタッフのやり取りが続いたがやがて、スタッフの話す内容が変わってきた。「本当はあんたたちにここを使って欲しい。でもこのままじゃ子どもは入っちゃいけないことになってしまう。中学生なんだからちゃんと話ができるはず。話をきいて」と。それでも茶化し続ける中学生たちに対して最後には「もうほんとに悲しくなる。ほんとに怒っている。」とそのスタッフは言い残して部屋を出ていった。

僕は中学生の騒ぎ自体よりも別のことが気になり始めた。もともとその施設自体は地域のために作られたものだろう。そして中学生たちはおそらくその地域に住んでいる。彼らが排除され、僕のように「タダで使えるから」と地域外からやってきて、スペースを占拠している大人がそれを許される理由はなんだろうかと。

つまり「ルールを守っているから」なのだが、もっと簡単に言うと「大人しいから」だ。中学生ぐらいのちょっとやんちゃな彼らの発する「気にさせて、イライラさせる力」は強大だ。不快をテーマにしている現代美術など到底足元にも及ばない。そういった他者を無理やり巻き込んでいく力を自ら削除した「大人しい大人」だからその場にいることができるわけだ。

考えてみれば街にはあんなにたくさん人がいるのに、ちっとも「その存在が気になる」ことがない。見事に大人しい大人ばかりだ。そう思って三条通りを歩いて「気になる人」を探してみる。まずはやはり子ども、何をするかわからないから。それから外国人、しゃべっている言葉が日本語じゃない。ストリートミュージシャンの音も気にさせられるがこれは大きな音だからだ。その場では見かけなかったが、おそらく障害者やホームレス状態の人も「気になる人」に入るだろう。

要するに差別されている人たちで、網野善彦の言う「無縁」の人とも重なるだろう。そういう人が、大人しい大人たちにとって「気にさせられる」という理由で排除の対象になり、親から子どもへ繰り返し「変な目で見てはいけません」という教育がなされることによって「気になるけど見てはいけない人」として扱われ、差別が再生産されてきたのだろう。

そこで、僕自身がこれまで漠然と「誰もが変な目で見られない社会」というのが差別のない社会だと思い込んできたのだと気がついた。しかしそれは間違いでむしろ「誰もが変な目で見られ得る社会」が差別のない社会なんじゃないだろうかと思った。誰もが誰もを気にさせて気にさせられる社会。それは一体どんな社会なんだろうかと想像してちょっと楽しくなったりした。

スタッフが「悲しい」と言い残して部屋を出ていった後、件の中学生たちがどうなったかというと、相変わらず音楽を鳴らしたり大声を出したりしたが、そのたびに仲間のうちの誰かが「やめろ。静かにしろ」と注意し、実際に静かにし、最後はゴミを片付けて帰っていった。

「ちゃんと話をしようよ」と繰り返し対話を試みたあのスタッフはなんとか中学生たちがその場に居続けられるように懸命の努力をしているだろう。組織内でも対地域でも対利用者でも、そういう主張はかなり厳しい批判にさらされていると予想できる。それがわかっていながら、しかもその現場に居合わせながら、作業をするふりをして何も関与できなかった自分が悔しくて、せめて帰り際に中学生たちのその後の「静かにしようとし、ゴミを片付けた」行動を伝えようと思ったがそのスタッフを見つけられず、そのまま帰ってきてしまった。僕のこういうところがほんとにダメなところだと思う。

あの場所は中学生の彼らにとっても必要な場所なはずだ。必ずしも居心地が良いとは言えないような公共的施設に中学生が「ただ居る」ために入ってくるにはそれ相応の切羽詰まったニーズが有るだろう。こういう場合に、いったいどうしたら良いのかと思う。
===

2014年12月4日再掲載追記

後日談。この数日後再びセンターに訪れ、文中の「スタッフ」の方とゆっくりお話することが叶った。その方はセンター長(当時)の西本好江さん。本当に素敵な方で、お話した時間は、とても現実とは思えないほど穏やかで、ただただ体の底から力が湧いてくるような時間だった。今思い出しても純粋に素敵な記憶としてある。

西本さんにはその後、僕も少し協力したドキュメンタリー映画『生きていく』の上映会にお母様と来ていただいたりした。

しばらくお会いできていない。

December 2, 2014

【032】平熱の革命

卵の殻のミルフィーユ。
現在の蓄積が歴史となる。
神と王を殺して近代になった。
自己の時代になった。
夢と希望を努力で勝ち取る時代。
夢と希望と努力が自己である時代。

今、夢も希望も努力もなくなりつつある。
夢も希望も努力もないけれど死んでいるわけではなく、より生きている。

夢と希望と努力という自己を無条件に肯定して日常を生きることが古臭く見える。

現代が更新されている。
平熱の革命。

November 25, 2014

【031】豊富とも稀少とも違うところにある「うれしい」

今年も大きくなってきた隣のザボン。
ハンドボールぐらい。
ぶどうの苗木を注文した。マスカット・ベリーAという品種。
12月初旬に届いたら、庭に植える。

パートナーの澪と、植える場所を決めて、そこにあった切り株を掘り起こして、開いた穴にコンポストを設置して、生ごみを入れて、と準備してきた。

去年、つくだ農園のぶどうの定植に行って、その時いつかうちでもぶどう植えようと思ってから1年半。
http://tsukuda-blog.sblo.jp/article/64043693.html

子供の頃、家に果樹があるのがいいなあと思っていた。
うちの家にはなかった。

と、ふと思い出した。

自宅に果樹がある人が来客に「うちでは食べきれないから好きなだけもっていって」といったようなことを言う。
遠慮せずにという意味なのだろうけど、それにどうにもがっかりしていた。

さらに思い出す。

我が家の庭にルッコラが生えている。
どんどん増えていく。
ちぎって醤油とごま油とチーズを掛けて食べると美味しい。
美味しいのだけど、たくさんあるから、家に来る人に「いくらでもあるから好きなだけ持っていって」と言っていた。

美味しいし、庭に元気に生えていていつでも食べられるのがうれしいとも思う。
でも、たくさんあるということで、そのうれしいは目減りしている。
いや、たくさんあることそのものではなくて、遠慮せずにという意味で使う「いくらでもあるから好きなだけ持っていって」という言い回しによって、僕が目減りさせている。

人に仕事を頼むときに使う「簡単だから」「すぐにできるから」「だれにでもできるから」という言い回しも似ている。
引き受けることの敷居を下げようとする言い回しによって、仕事の意味が目減りする。

たくさんあるからでもなく、
ちょっとしかないからでもなく、
簡単ですぐに誰にでもできるからでもなく、
難しくてあなたにしかできないからでもなく、
そういうこととは違うところにあるうれしいがうれしい。

となりの家にザボンの樹がある。
堆肥を足したり、伸びすぎた枝を切ったり、つきすぎた実を減らしたりして、隣のおばちゃんは毎年ザボンを育てる。
僕はザボンがだんだん大きくなっていくのを見ているだけでうれしくなる。
年末になると、おばちゃんはその実をとって子どもや孫にあげる。
もし余ったら僕のところにもひとつ持ってきてくれる。
とてもうれしい。

ぶどうが成ったらおばちゃんにあげよう。

November 21, 2014

【030】ティッヒー

何の変哲もないとびきり美味しい
シュークリームが一個150円だった。
■11月12日
黄檗駅近くの新生市場のケーキ屋さん、ティッヒーが11月30日で閉業だというので今日も買いに行った。小さな店の右端にあるガラスの冷蔵庫に張り紙がしてあって、11月30日に閉業と書いてある。ショーケースの上の小さな鐘を鳴らすと声がして、いつものようにおじさんが2階から降りてくる。

シュークリームを2つ頼んで、閉業なんですねというと、
はい。

他に移ってとかではないんですかというと、
閉業ですね。

長いことやってるんですか。
32年ですね。

寂しいです。
そう言っていただけるだけでうれしいです。

ティッヒーというのはどういう意味なんですか。
ウィーンでよく行っていたアイスクリーム屋さんの名前です。

ウィーンに修行に行ってられたんですか。
はい。ティッヒーではないですけど、よく行っていて響きが可愛いので黙って拝借しました。

アイスクリーム屋さんなんですね。
はい。ウィーンでとても有名なお店です。ウィーンに行かれることがあれば一度行ってみてください。

ここのシュークリームが好きでそれがもう食べられないと思うと寂しいです。


■11月20日
ティッヒーの店頭営業最終日。閉業は30日。

澪と二人でこの日は最後のシュークリームを買って、おじさんに花束を渡そうと計画していた。

11時頃店に行くとシャッターが閉まっていて、午前中は陽射しが直接ショーケースに入るので以前もシャッターを半ばおろして営業していたことがあったからそうかと思ったり、開店する時間がまだ把握できていないから今日はまだ開店していないのかと思ったりしたが、シャッターに張り紙がしてあって、店頭営業最終日の20日(木)のところが18日(火)に書き換えられていた。

寂しいがじわっと広がった。

どうしようもなくしばらくそこに佇んで、なんとなく花束を持った笑顔のおじさんを撮ろうと思って持ってきていたカメラでシャッターと張り紙と看板を撮った。

18日といえばけんちゃんとなっちゃんと澪の4人で買いに来た日で、あの時が最後の日だった。あのとき張り紙は20日のままだったけど、僕達が去ったあとに書き換えられたのだろう。

僕は勝手に思い込んでいた。

今日は、花束を持って行って、おじさんがちょっとはにかんで笑って、ちょっと話をして、なんとなく感動的なシーンになって、写真を撮って、あぁよかったねといって澪とシュークリームを買って帰る。

でも、感動も、よかったねも、シュークリームもなく、ただどこにも仕舞いようのない寂しいがじわったとあるだけ。

これが本当の最後というもの。
ただ寂しいがじわっとあるだけ。

November 15, 2014

【言葉の記録4】高井ちゃんのカバン 第9回

第9回  ほんま行けるところがあってうれしい。

本文の会話には登場しないが、ペットボトルと缶のプルタブを開ける自助具。
「これがあればいつでもビール飲めます(笑)」

大谷:
これ4年ぐらい使ってるのか。
全然そんな風に見えないね。
高井ちゃんのことやから毎日使ってるやろうに。

高井:
3個をローテーションでぐるぐる。
ここは名刺入れるのに作ってもらったんですよ。

大谷:
外のポケットね。
カードとか入れてたよね。

高井:
ラガールカード。

大谷:
中にはさっきの初代と同じものが入るの?
入れてみよっと。

高井:
パズルです(笑)

大谷:
すっと入るね。

高井:
えぇ。

大谷:
ほんでここにシャチハタ?

高井:
っていうて作ってもらったんですけど、社長出勤になって(笑)

大谷:
あぁ、ちまちまに行く用に作ったんや。

社長出勤、年3回ぐらいかな(笑)

高井:
最近3回は毎週行けてるから、
自分でもうれいいなと思って。

10月31日、その前と、その前と。

大谷:
そうか、行けてるんか、いいね。

高井:
ほんま行けるところがあってうれしい。

大谷:
高井ちゃん、話面白いね。
何言い出すかわからんところが面白い(笑)

高井:
(笑)

大谷:
話の流れがそのまま行くかなと思ったら、「実は」ってなるやん。

高井:
長く付き合ってると時々ムカつくみたいです。
話、方向ぜんぜん違うやんか!っていうて。

大谷:
そんなうまいこと行かへんもんなぁ。
今日はありがとう。
あとなんか言うことあるかな?

高井:
全部出し切った感じ。
おかげさまで。
(終)

【言葉の記録4】高井ちゃんのカバン 第8回

第8回  出勤の時にシャチハタがいるってわかって、シャチハタいれるところ作ってって。

3代目の肩掛けカバン。赤がきれい。
大谷:
これは3代目だね。これは何年ぐらい使ってるの?

高井:
退職の一ヶ月前やから、2010年の7月に。

大谷:
じゃぁ、4年半ぐらいか。しっかりしてるよね。
茶色は高井ちゃんが好きな色なん?

高井:
もう、全部おまかせでしました。

大谷:
おまかせなんや。へぇ。良い色やね。

高井:
うん。

あ、この赤は赤色のカバンが持ちたいっていうたから、
赤色にしてもらった。

もう、使いすぎて使いすぎて。この汚さがいいんですよ。

大谷:
馴染んでる感じや。
すごいね。ポケット。

高井:
ここにポケットがありますやんか。
それは判子入れるところです(笑)。

大谷:
あ、ほんまや、ちょうど。
判子よく使うの?

高井:
ちまちま行くようになって、
出勤の時にシャチハタがいるってわかって、
シャチハタいれるところ作ってって言うて(笑)。

ちまちま:箕面市にある「ちまちま工房」のこと。代表は永田千砂さん。

大谷:
(笑)

高井:
最初に作るときに。
ほんで、その時にうち、携帯でなくてスマホに変えていて、
ここがスマホ入れるとこ。

大谷:
へー。

高井:
でもスマホって高いじゃないですか、毎月。
もうやってられへんわって(笑)。

大谷:
ほんでこっちに戻ったんや。
この鞄、柄がきれいやね。中の。

高井:
裏向けましょか。

大谷:
tamaさんは、底をしっかり作るね。そこがいいな。

高井:
もう、ほんまに。何もかも丁寧に。

大谷:
これ裏もすごい綺麗に作ってあるね。
ひっくり返しても使えそうな。

高井:
ひっくり返してもいいかもしれない。

大谷:
めっちゃ丁寧やな。きれいに作ってある。
形がしっかり出るように、横と底に厚みをもたしてはるね。
ちゃんと色変えて。

高井:
ここも、なんかアクセントつけてくれて。
中までアクセントつけてくれてるんです。

【言葉の記録4】高井ちゃんのカバン 第7回

第7回  リュックってあんまりいいことがなかったんです。

高井:
あ!そうそう。tamaさんのブログ、ご覧になりました?

大谷:
うん。
高井ちゃんがこの話をするのをきいたっていうのを
ブログに書いてくれてたね。

高井:
たぶん、うちと大谷さんのことを書いてくれたんやろなって思って
見てたんですけど。そうと思う。

大谷:
高井ちゃんにそういう話をされてまた作りたくなったってね。

高井:
うん。

大谷:
なんかうれしいね。

高井:
なんか、tamaさんも大谷さんにそう言ってもらえて
ありがとうって言ってました。

大谷:
いえいえ。

高井:
うち、リュックっていうたらね、
あんまりいいことがなかったんです。

リュック背負って、20代なかばですよ。
リュック背負って、ほんで帽子ここまで(目のところ)かぶってて、
バス停で待ってたら、「小学校何年?」って言われて(笑)。

大谷:
(笑)

高井:
帽子パってとったら、老けてますわな(笑)。
「あぁ」っていう感じでしたけど。

その次の出来事がまたバスですね。
席が近くて喋りかけてきてくれて、「にいちゃん」って(笑)。
「にいちゃん高校何年?」って(笑)。

大谷:
(笑)。
それリュックのせいやったん?

高井:
2回目は違うと思う。

2回目は帽子かぶってへんかったから、
髪短くて、ほんまに男に見られたんやと思う。

大谷:
(笑)

高井:
だからこんな大人っぽいデザインにしてくれて、
それもうれしかったです。

リュック背負ってたら、だらしがない子になるし、
キーってなるし。

でもまだ歩いてた頃は、
リハビリの先生に体がどうしても傾いてるから、
リュックやったら体の中心に来るからベストやって。

大谷:
あ、リュックがいいって?

高井:
でも、体にはよくても、
精神衛生上は良くないんです。

大谷:
(笑)。
子どもに見られるからね。

高井:
だらしなくなるし。

大谷:
ほんでこれ作ってもらったから、よかったなぁ。

高井:
重度訪問介護従事者っていう
障害者総合支援法だけで使えるヘルパーの簡易版みたいなのがあるんですよ。

その講座で障害者の当事者のことを話してくださいって言われて、
話す機会があったんですけど。
絶対このリュックを持って行ってたんです。
そうしたら絶対褒めてくれはるんです。

大谷:
参加者の人が?

高井:
ほんで私が自慢するんです(笑)

大谷:
そうかそうか。
なんて褒めてもらえるの?

高井:
まず、かわいいって、見かけから入って。

ここぱっくり開くんです。
かわいくて、その上つかいやすいんですよって。
半分自慢みたいなこと。
毎回受講生さんが気づいてくれはる。

大谷:
あぁ、気づいてもらうために持っていってるんや(笑)

高井:
(笑)

大谷:
そうかそうか。
何も言わんでも、それいいですねって言わはるんやね。

高井:
言わはる。

【言葉の記録4】高井ちゃんのカバン 第6回

第6回  「恵子ちゃん、勉強になったよ」って。だいぶ苦労してくれはったなぁと思う。

2代目のリュック。ヨコ型で形を保つのは難しい。
大谷:
作ってくれたお友達なんていう方なんですか。

高井:
tamaさん。
tamaさんのブログ「工房 place in the sun」。

大谷:
tamaさんは、色の選び方もいいですね。

高井:
これがすごい苦労して作ってくれはったんですよ。

大谷:
このリュックは2代目のカバン?

高井:
2代目。
デイサービスに勤めてたでしょ。
その通勤用に作ってもらったんです。

そこは車いす通勤したらダメとは言わへんけど、
なんか通勤しにくかったんですよ。

大谷:
なんで?

高井:
なんでか。うちもハテナハテナマークが。
まぁ、いろいろそんな事情があって、バス通勤で。

大谷:
なんでや!ってかんじやな。

高井:
そう。だって、うちの家から職場まで30分で行けるとこを
1時間15分かけていってたんです。

大谷:
バス停までわざわざ行って。

高井:
そう。

ほんで、このリュックは仕事のファイルを入れるから、
パカっと開くように。

大谷:
おぉすごいすごい。
こんなに開くやつはないよね。

高井:
ヨコ型が使いやすいねんていう話になって、ヨコ型で。

リュックやからポケットも大きいのでいいわって言って、
一個しかついてない。

リュックってどうしてもスポーティになるから、
かわいいリュックを作ってっていうたんです。

大谷:
かわいいのね。

高井:
ヨコ型はなんか、どうしてもくにゃぁとなるっていうか、

大谷:
形が?

高井:
形がシャキってしないんですって。

「恵子ちゃん、勉強になったよ」って、言ってはったから、
だいぶ苦労してくれたなぁと思って。

ほんで肩紐も。私、跛行ですねやんか。

大谷:
ハコウ?

高井:
体が揺れて歩くこと。

おまけになで肩でしょ。
どうしても、肩紐が肩から外れて、だらしない格好になって(笑)。

大谷:
それでこの胸元で止めるやつがついてるんやね。

高井:
今、カチってなるプラスチックのやつあるでしょ。
あれができませんねん。

大谷:
あ、そっか。

高井:
それも考えてくれて。

大谷:
売ってるリュックはたいがいあれやもんね。

高井:
それもデザイン性も崩れんようにって。

大谷:
それ難しいよね。

高井:
うち、tamaさんに好きな事言うて、あとはお願いねって(笑)

大谷:
(笑)

高井:
「なんでたて型のリュックばっかりかわかったよ」って言うてた。

大谷:
そうか。形が保ちやすいんやね。

高井:
で、作ってもらって。
今になったらすごい楽しい話なんですけど、
実はこれ一回も通勤に使ったことないんですよ(笑)

大谷:
なんや(笑)

高井:
5月ごろにリュックをお願いして、6月に退職したんですよ。
ほんで7月にできた(笑)

大谷:
じゃ、仕事では使ってないの?

高井:
(笑)

【言葉の記録4】高井ちゃんのカバン 第5回

第5回  わりと同じのをしつこく使うタイプやねんね。

サイズもちょうどいい。
大谷:
いつも何を持って歩くかとか、
高井ちゃんは決まってるの?

高井:
えぇ。ポケットに入れていきましょうか。

大谷:
うん。それが決まってるのが面白いなぁと思って。

高井:
測ってもうたんは、ちり紙と薬入れ、手帳、メモ帳と財布と、

大谷:
使い込んだ財布やな。ええ感じやね。

高井:
もう十何年です。

大谷:
わりと同じのをしつこく使うタイプやねんね。

高井:
えぇ(笑)

大谷:
携帯を入れて、

高井:
パズルみたいに。
これはここで、これは・・・

大谷:
ぴったりやな。

高井:
手帳どっちやったかな。
そうや、こっちや。
ほんで財布はここ。
あとはここは切符入れて使ってます。

大谷:
ペンはそこやね。

高井:
できた!

大谷:
おぉ、いいね、これ。
写真撮りたいな、後で撮ろう。
きれいに入るんやね。出しやすさとかもあるの?

高井:
うち、性格も性格やから、
ポケットのないカバンやったらグッチャグッチャになるんです。
ほんで自分一人でキーッってなるんです。

大谷:
僕もぐちゃぐちゃになるねん。
もうね、持って歩くものが決まらないとイーッってなるね。

高井:
(笑)切符ない!切符ない!ってならんように、
切符はそこに入れる。

大谷:
これが初代のカバン?

高井:
初代です。
うちちんちくりんやからね。背が。
ベルト一番短くやっても長いんですよ。
それもちゃんと測って切ってくれて。
なんか、どこか忘れたんですけど、パンチで穴開けて止めてくれはった。

大谷:
これやね。

高井:
今日ね、せっかく見てもらうから洗濯しようと思ったけど、
洗濯せんほうが何か味が出るんちゃうかなと(笑)

大谷:
(笑)味出てるよ。すごい、いいやん。
7年使った割にはきれいやね。

高井:
ほんま、そう思う。きれい。
縫製とか布とか綺麗にしてくれはったおかげやと思う。

大谷:
ほんまに。このベルト直さないの?

高井:
家では別のを使ってるんですけど、
ちぎれたところを見てもらいたくて、
わざわざ付け替えてきました。

大谷:
そうかそうか。
今日はわざわざ付け替えてきて、演出してくれたんや。

【言葉の記録4】高井ちゃんのカバン 第4回

第4回  作ったげるわって、快く引き受けてくれはって。

欲しいものがすっと取り出せる。
大谷:
何年ぐらい使ったん?

高井:
最初から合わすと6年。7年目かもしれへん。
これ茶色くなってからは3年かな。

大谷:
すごい使ってるね。
でも全然、しっかりしてる。

高井:
ほんまになんか、生地からちゃんと考えてくれて。

大谷:
どういうふうないきさつから、そういうことになったん?

高井:
うちもそれ、きかれると思って、
ずっと思い出してたんですけど、なんか忘れてもうて。

なんか作ってるってきいて、私、
なかなかカバンがないねんていう話をしたのは覚えているんです。

大谷:
もともと友達やったん?

高井:
7年前に知り合って。

大谷:
そうか、じゃぁわりと知り合ってすぐに、
作ってあげるわって言ってくれはったんや。

高井:
たぶん。作ったげるわって、快く引き受けてくれはって。

大谷:
よかったなぁ。そうなんや。
なかなかいいひんよね。
その人はもともとこういうの作らはる人なん?

高井:
もともとは全然違う業種で、でも友達に作ったげてたみたいで、
それがなんか口コミ、口コミで。

大谷:
そうなんや。
高井ちゃんみたいに、障害もってる人に作ってはったん?

高井:
たぶん健常者がほとんどやと思うんですけど、
あまり詳しく聞いたことないんです。

【言葉の記録4】高井ちゃんのカバン 第3回

第3回  カバンの自慢していいですか。

高井:
カバンの自慢していいですか(笑)

大谷:
うん。自慢して。

高井:
これ(笑)
使いすぎてブチ切れてるねん。

大谷:
あ、紐が切れてるやん。
丈夫な革ベルトがちぎれるまで使い込んだ。
高井:
こればっかり使ってたんですよ。

大谷:
革の肩紐が切れるって相当やね。

高井:
友達も言うてた。相当使っててんなって。

大谷:
いいなぁ。

高井:
中身もこんな可愛くしてくれて。

大谷:
ほんまやね。ポケットいっぱい。
ちゃんと入れるもののサイズに合わせて作ってあるんやね。

高井:
これも障害者手帳とかメモ帳とか携帯とか、
全部大きさを測ってくれて。

大谷:
へー。すごいな。

ちょうど入るポケットが作ってある。
高井:
これね、2回作り替えてもらったんですよ。

大谷:
なんで?

高井:
はじめね。この茶色いところがね。この色だったんです。

大谷:
ああ、白っぽい生地の。

高井:
あまりにも使いすぎて、
ここの色が半分ねずみ色みたいになってきたんです。

大谷:
汚れて?

高井:
うん。洗濯してもとれなくて。
ほんで、中身はそのままで茶色い部分だけを替えてもらった。

大谷:
いっぺん外して、作りなおしてくれはったんやね。すごい。
ちょっと見せて。へー。
これはこのパチって磁石のやつがいいの?

高井:
はじめマジックテープかこれかっていうてくれはったんやけど、
マジックテープやったらゴミが付きますやん。

大谷:
あぁ、つくつく。

高井:
だからこれやったらいいかなと思って。

【言葉の記録4】高井ちゃんのカバン 第2回

第2回  病弱やけど、そこは機械の力、文明の利器の力を使って。


高井:
さっきお話に戻るんですけど、
一言で言うと「私らこれからやんか!」って。

ほんで、
インターネットで会議とかできひんかなって言うてたんですけど、
その友達とインターネットの会議ってどうやんねんって。
そこから始めようかって。

大谷:
へぇ。

高井:
大谷さんて、機械強いですよね。

大谷:
まぁまぁ、わかるよ。

高井:
今度ね、インターネットの会議の仕方教えて欲しいんですけど。

大谷:
いいですよ。

高井:
ありがとう。
みんなでやれたらいいねって。
みんな結構病弱やけど、そこは機械の力、文明の利器の力を使って。

大谷:
テレビ会議みたいなやつやね?

高井:
そこも、想像さえでけへんから(笑)

大谷:
想像さえできひんのか(笑)
それでよう、やろうって言うたね。

高井:
例えばスカイプとか。

大谷:
あぁ、スカイプ。あるね。

高井:
スカイプって何ですか(笑)

大谷:
知らんねや!(笑)

テレビ電話みたいなやつ。
映像も映るし声も聞こえる。

高井:
カメラを付けて?

大谷:
そうそう。
インターネットつながれば、
スカイプっていうソフトはタダやから、タダでできる。

高井:
今うかがってても、ハテナが(頭の上に)ぶんぶんって。
今度教えてください。

大谷:
わかりました。

【言葉の記録4】高井ちゃんのカバン 第1回

高井ちゃんこと高井恵子さんと初めて会ったのは何年も前の年末の飲み会だった。

バリアフリーマップを作っているのだけれど印刷のことがわからないから協力してほしいと言われた。初めて会ったはずなのに「最初からその距離にいました」というような、馴れ馴れしいというわけではなく、それでいてとても親近感のあるその距離と場所がとても印象的だった。

そんな高井ちゃんと久しぶりにあったらとても素敵なカバンを持っていて、それどうしたん?ときき始めたら、とってもうれしい話が聞けた。お友達のtamaさんが、高井ちゃんの体や持ち物、好みを聞いてぴったりに作ったカバン。

そのカバンのことも、カバンじゃないことも全て、絶妙な高井ちゃんの距離から僕に向かって話された言葉。その記録。

聞き手・まとめ 大谷隆
収録日:2014年11月5日
場所:大阪梅田近辺

November 13, 2014

【029】南北朝に匹敵する動乱のわくわく

線が引かれたシミだらけの本と、
黄色くなった切り抜き、それと猫。
講読ゼミが面白い。仲間と本を読む。よってたかって読む。

僕が特に気にならず読み進めてしまったところを別の誰かが掬いあげてみせる。すると思わぬ景色が見えてきて、あぁ自分だけでは到底辿りつけなかったと思うようなところへ行ける。

来年1月からは網野善彦の『増補 無縁・公界・楽』を読む。いよいよという感じ。好きな本だけど、なかなか難しい。読んでも読んでも読みきれない感じが残っていて、それを仲間と読めるのはとてもうれしい。

そういうわけで、そろそろと準備を始めようかと思って、でもいきなり久しぶりの『無縁・公界・楽』に挑むのはちょっとためらいがあって、あえて『日本の歴史をよみなおす』から読もうと、自宅の本棚にもあるけれど、先日父の本棚で見つけた同じ本を手にとった。

父は切り抜き魔で、たいていの本にはその本にまつわる新聞の切り抜きが挟んである。本だけでなく音楽CDにも挟んであったりして驚く。

『日本の歴史をよみなおす』も例外ではなく、発行当時の新聞記事がいくつか挟んであった。インタビュー記事があって、当たり前だけど、その頃は網野さんは生きていたんだなと思う。

その一つ、1991年5月11日(土曜日)付の日本経済新聞の記事で網野善彦は、
南北朝動乱期は列島全体に視野を広げてみると古代、中世、近世などの区分とは次元の違う日本の社会構造、民族的体質にかかわる大きな転換期だったと思う。
と言っている。網野史学において南北朝動乱期が何よりも大きな日本の転換期と位置づけられているのは有名な話で、この言葉自体は著書を読んでいればすんなり読める。

僕がびっくりしたのはそれに続く次の言葉、
いわば現在進行中の大変化に相当するような社会的な転換期だったと考えているわけです。
新聞記事から、どれぐらい本人の発言したニュアンスが残っているか簡単には判別できないけれど、この通りに発言したと捉えると僕には震えがくるほどの言葉。

一体何をもって「現在」がそれほど大きな転換期だと言うのだろう。「現在」とはいつ頃からを言うのか。残念ながらこれ以降の記事中に「現在」への言及はない。

しかし、すくなくとも、網野善彦が南北朝動乱期に匹敵するという社会的転換期をすでに僕たちは生きてきたし、今も生きている。

これはとてもわくわくする。本当にわくわくする。
ラピュタを見つけたパズーの気分。

November 11, 2014

【028】どこがどうということの書かれたもの

見えている範囲から見えてないところを
予測する想像力の罪。
「文脈」という言葉は、実は大きな意味から小さな意味まであって、例えば通常使う文脈という意味は、と、ここまで読めばこの続きは、一般に使われている文脈という言葉は小さな意味でしかなくて、もっと大きな意味としての文脈もあるというようなことを、さっきの「、と、ここまで」のところまで読んだぐらいでなんとなくわかってしまうようなことを文脈といったりする。

「ここまで読めば」のあたりで読者が予測する結論的なことからずれた続きを書いてしまうと、フェイント。心の置きどころがわからず留保が起こるから、つまり、文章に費やされている文字数は、個々の文字のもつ情報の伝達というよりは、この文脈の構築に費やされるので、同じだけ費やすなら、違法建築を建ててやれ。

November 10, 2014

【027】近いって幸せ(再掲載)

遠いと言えば沖縄。肌が記憶している距離。
あの包み込む空気と気紛れな雨雲の遠さ。
若干手抜きな気もする再掲載シリーズ。
そのうち罪悪感で新しいのを書く気がします。
今回はかなり古め。7年前のものから。

この頃は大阪ボランティア協会の職員として雑誌『ウォロ』を編集していました。
本文中の「東京の方」は大熊由紀子さん、「職場のボス」は早瀬昇さんのこと。

距離に関することはたしかに今でも意識があって、でも、これを書いた時ほど「近い」ことに優位性がないというか、逆に「遠い」ことの価値を見出している気がします。面白いな。

===
2007年05月30日

仕事で編集している月刊誌。そこで連載を書いて下さっている東京の方が事務所に来て下さって、はじめてお会いした。これまでメールと電話では何度も連絡を取っていたのだけれど、直接お会いできたのはうれしい。

 顔や雰囲気をイメージしながら電話やメールができるということはとても重要なことだと僕は思う。その方もどうやら同じ考えらしく「これで原稿を書くときにお顔を思い浮かべて書けます」とおっしゃった。そういうことってあると思う。距離感が近づくのだ。

 「近いって幸せ」と僕は思っていてときどきそういう表現をする。近いということは僕にとって一つの価値だ。同じように「遠い」というのも一種の価値かもしれない。

 そういえば、その方に「大谷さんはどんな時でもパニックにならないんですってね」と言われた。職場のボスが僕のことをそういう風に説明してくれたそうな。変な評価だけど変な自信がつきました。

November 6, 2014

【026】縛る土(再掲載)

テクノロジーは夢を与えた。
テクノロジーは呪いを与えた。
以前書いていたブログを読みたいと言っていただいたので、いくつか再掲載しようと思います。

===
2011年06月07日

庭で畑をやっているとあの野菜は簡単だからやるとよい、あるいは難しいなどと言われる。僕自身、以前住んでいた箕面でも畑をやっていたからその時の経験を頼りにあれは簡単に育つ、これは難しいと思い込んでいたりする。しかし、全くないとまでは言い切れないが、そういう情報は実際のところさほど参考にならない。原因を考えて、土だろうと思い当たった。

土は場所によって違う。これは想像だが、きっと同じ土地でやっている人の情報はある程度参考になるはずだ。

畑で作物を作るにはその土地で情報を蓄積する必要があるのだ。土だけでなく気候気象も。そして気がついた。そのために農業は土地から離れられないのだ。その土地から離れてしまうと単に土地を失うだけでなく、その土地固有の経験の蓄積である情報を失い、新たな場所で農業をするにはそれらを一から構築し直さなければならない。

「この土地を離れては生きていけない」という言葉の意味がわかった。そして、そのような中で生きることで形成された気質は、自然現象だけではなく、人間社会にまで及ぶのではないかと思った。「この人間関係を離れては生きていけない」と。

日本史家の網野善彦が丹念に追いかけた漂泊民の力、無縁の力は、この大地と大気と人間の縛りを逃れていることそのものなのだ。

November 1, 2014

【言葉の記録3】コトバのキロク公開収録 第9回


(まるネコ堂ウェブサイトからの再掲)

第9回 引用を含めた言葉の品というもの

大谷:
引用って、ルールに基づかないと引用にならなくて、
そのルールに基づけば承諾を得なくてもできるっていう、
そういう仕組そのものを引用っていって。

それが僕はすごい素敵な仕組みだなと思うんですよね。
僕が引用したことを引用された元の人は知らない。

まあ、網野善彦なんかもう知りようがない。
死んでるからね。
でもできるっていうのが、素敵なことだなって。

小林:
敬意のない引用があるんじゃないかっていうのを
僕はモーリー(森)の問に含まれてる気がして。

森:

僕の中でそういう問はない。
あ、僕の中では敬意のない引用はあったんやけど。
それを問としてききたいわけじゃない。

小林:
あ、僕は聞きたいです。

大谷:
敬意のない引用。それはできる。
すごく都合よく。
ほんとに都合よく切りとっちゃえばあると思う。

政治家のインタビューみたいなのって
編集である言葉だけを抜き出してそればっかり流しちゃえば、
全文を聞けば違うニュアンスがあるのに、みたいなことはできるし、
それと同じことが引用でも作れる。
だからそんなことをしちゃいけない。

森:

けんちゃんがそれを疑問として受け取った感じにおいついてきた。

ああ、あるかもしれんと思って。

あまり前後のことを分からずに人のことを引用するって
大胆な敬意やねっていうことだけ切り取って聞いた時に、
びっくりすると同時に、
そうじゃないこともある感じが残っていて、
それが言いたかったんやね。

文章のことを言ってるんやけど、
言葉でしゃべる時もそういう引用って頻繁にやってる気がして、
それを敬意をもって人のことを使うというか引用する。
あるいは大胆な敬意をもって引用しているのか。

引用を含めた言葉の品というか
そういうのが僕の中にあると思っていて。

まあ、大胆やなーというか
品位を持って引用できる人になりたいなとか
品位を大事にしたいなみたいな感覚は
僕の中にあるんや。

そのへんところにやっぱアンテナが。
引用ってことに対して敬意という言葉を使ってはったので。
僕も探求したいことなので突っ込んでいきました。

小林:
では時間がきました。

小林・大谷:
ありがとうございました。


公開収録を終えて

この企画のための案内文に僕(大谷)は
「言葉になる前のその何かを直接手で触れるのではないかと思えるほど高濃度な無言」
と書きました。
今回、まさにその無言が、
ふたりきりで話す時よりもはるかに硬質で確かなものとして在ったのですが、
それはやはり文字には残りにくいのだと改めて確認しました。

それでも僕はこの時間に起こったことの何かを文字として記録できると感じていて、
それが何かを掴みたいと思っています。

【言葉の記録3】コトバのキロク公開収録 第8回


(まるネコ堂ウェブサイトからの再掲)

第8回 「入ってもいい」と言われているところの動けなさ

森洋介(参加者):
入ってもいい?

大谷:
どうぞ。

森:
まず自分の居場所を確保したいというのがあって喋ってるんやけど。

「入ってもいい」っていう設定の仕方って難しいって思って。
なんか二人は緊張してるって言ってるけど、
僕は僕なりの緊張があって、
話を聞いてて心が動いた時にふっと行きそうになるんやけど
「入ってもいい」というのはちょっと遠慮するんよ。

小林:
(笑)。そりゃそうだよね。

森:
ちょっと遠慮する不自然さが自分の中に残って、
この場にいるので。

僕の中で大谷さんが緊張するって言った中で、
僕の今の緊張の度合いは僕の中で
ちょっと重なっているところがあって。

その緊張の感覚のちょっと居づらいところが、
「入ってもいい」と言われているところの
ちょっと動けなさみたいなんがあるなと思って。

これを前置きしたら動きやすいかなと思って
ちょっと言ってみました。

小林:
はい。

森:
僕が動きたかったとこっていうのは、
引用するってとこに
大胆な敬意の払い方だなと大谷さん言っていて。

大谷:
はい。

森:
そこ、大胆と感じるのがなんなんかなというのを
聞きたいなと感じていて。

僕はずっと論文書きが仕事だったので、
学術的な論文。
えー、俺、敬意払ってきたかなと思って、
そういう意味での論文書く時ってわりと
自分の主張を言いたいがために材料として使うわけで。
確かにいい事言うよなとか、
こういう視点があるのかという意味で
興味関心は持っているんだけれども、
そんなに敬意をはらって引用してきたかというと、
僕自身が人に敬意を払えているのかどうかということにも
つきあたってくるんだけれども、
とりあえずそのことについては、
俺、敬意というものはそこになかったなと。

客観的にはあるじゃないって言われるかもしれないけど、
本人的には敬意足らんなという経験が今まであると。

でまず敬意なんだなというところから出だして、
僕の中では敬意を持ってなかった自分っていうのを
省みることができたっていうのが一つと、
大胆な敬意の払い方っていう、
もうちょっとその大胆の意味合いを聞きたいなっていう。

大谷:
引用って全然会ったことがない人でも
死んだ人でもできる。
違いがない。

隣にいる人が書いた文章でも100年前に書いた文章でも、
外国の人でも全く同じように扱われていて、
一気にその100年前まで行って
その人に敬意を払えるっていうか、
そこの間になんの手順もなく
いきなりそれがぼんってできるっていうのが
僕の中では大胆で。

なおかつその人の表現、
表現ってこう結構その人の内面みたいなものが
裸の状態ででているように僕には見えていて、
言い訳ができない状態にあるもの。

それに対してアプローチを一気にかけるっていうのも大胆。

「初めまして、私あの、大谷です」とか言って
「今度ちょっとなんか・・・」みたいな
そういうこと全然一切なくいきなりその人の本心を
がって掴んでやる感じがなんか大胆だなって思う。

森:
単なる敬意というより、
大胆な敬意というこのセットになったときに
面白いなと思って、
いいなと思ってるんですけど。

そういう経緯があって
僕の中で論文を引用する時に敬意を払えてない感じがあって、
逆に本になるものの原稿を書こうとした時に、
これ引用しようとしている人に、
「あなたのここを引用したいんです。

初めまして森洋介です。
ここをこういう理由で引用したくて、
こういう風に引用させてください」って
一人ひとりにどうしてもいいたくなって。

本に出るのって初めてだから編集者に相談したんです。
どうすればいいのって。

それは手続きとして編集者がやるから
それはやらなくていいんです、と。

しかも一般的な引用なら
そもそもそこまでやる必要もないんですと。

そういう風にいわれてそういうもんなんか世の中は世間はと、
自分は気にしすぎなんかと。
そこは編集者に任せて
本人に挨拶することもなく引用したんです。

無茶苦茶僕の中では大胆なんです。

大谷:
ふーん。なるほど。

森:
僕の中では大胆と引き換えに
敬意を犠牲にした感じがあって。

僕の中で大胆と敬意ってそんなに簡単に結びつかないの。

でも世の中に大胆な敬意ってあるんやろうなって思って。
逆に僕そういうのに憧れたりする。

大胆でも敬意が払える行為。
僕そういうのに憧れてるんや。

なかなか僕が実現できないから。
それでちょっと大胆な意味確認したかった。

【言葉の記録3】コトバのキロク公開収録 第7回


(まるネコ堂ウェブサイトからの再掲)

第7回 瞬間切り込んでくる感じがあるときがあって、「あっ」て思う

小林:
前、僕の紹介をする時に僕といるとちょっと、
緊張するとかドキドキするとか書いたのもそう?

大谷:
同じかもしれない。
けんちゃんと同じことを考えていることが多いって思って、
似ているっていう言い方をしていたんだけど、
けんちゃんと似ているんだけれど、
似ているからといって安心できなくって。

でも、なんていうか。安心している。(笑)

小林:
似てるけど、安心できないけど、安心している。(笑)

大谷:
うーん、なんだろうな。

瞬間切り込んでくる感じがあるときがあって、「あっ」て思う。
「あ、やられた」って思う。

でもそれは嫌な感じではなくて、
今までそういうことを考えたことがなかったけど、
そういうことを考えるとそうだなって思わされる感じ。

それによって、それ以外の僕の部分が、
がさっと崩れるようなことが起きるとかね。

小林:
これまでこうだなと思ってたものが?

大谷:
がさっと崩れる。
そのことに対してちゃんと考えていたわけじゃなかったんだな
ということが分かる。

「資源はちょっと足りないぐらいがちょうどいい」って
言われたときはやられたって思った。

小林:
あ、そう。
そういうところか。

大谷:
ちょうどいいのがいいと思ってたもん。
ぴったりなのがいいと思ってたもん。

「バターたっぷり」とかさ、
「生クリームたっぷり」とかさ、
ああいう惹句があるじゃん。
コピーが。

あれがよく分からなくてさ。
「バターぴったり」がいいんじゃないのってずっと思っててさ。

小林:
(笑)。うん。

大谷:
思わない?
ぴったりだと思う量で作ってって思うの。

たっぷりって言われると過剰に入っている気がして、
過剰じゃなくて一番美味しいところで作ってって。

小林:
(笑)

大谷:
だからぴったりが丁度いいっていう風にずっと思ってて。
塩分控えめも控えないで。
調度いいのがいいって思ってたら、
けんちゃんが「資源はちょっと足りないぐらいがちょうといい」って
言ってて衝撃を受けた。

ちょっと足りないっていうくらいが調度いいってのは
もっと広いんだなと思って、
ちょっと足りないっていうのとは階層の違う話をしているのが、
ああすげーって思ったんですよ。

小林:
僕、全然その時のこと覚えてないよ。

大谷:
僕、すごい覚えてるんだけど。
でもどういうシチュエーションで言ったかは忘れてる。

【言葉の記録3】コトバのキロク公開収録 第6回


(まるネコ堂ウェブサイトからの再掲)

第6回  対策をとってもそんなんは対策にしか過ぎないよって僕の中のくにちゃんが言う

小林:
でもなんちゅうのかな。
今日、これを開くときでもそうだし、
他で、例えば自分が円座やるときとか、
どっかの組織に呼ばれて、
一応こういうプログラムでとかこういう趣旨で
来てくださいねとか言われるんだけど、
もう完全に非構成というか、
その場の集まった人たちで場を作っていこうとかいう
心持ちでいる時は、
何日か前から緊張している感じがあって、
それは近そうだなと思った。

今日もそうで、
なんだか身をさらす感じがあるのね。

準備しといたり、
今日も大谷さんと話すこと全部決めて、
今日はこういうしつらえでこうやって話そうと決めたら、
それを見てもらえるじゃん。
プログラムとか話す内容を。

でも、完全に僕を見られる。
それに対するすごい恐怖感みたいなのはあるね。

大谷:
準備ができないって、対策が取れないってことでしょ。
対策をとってもそんなんは対策にしか過ぎないよって
僕の中のくにちゃんが言うんよ。

小林:
(笑)。ああそういうこと。
準備してたら?

大谷:
準備しようとしてたら。

で、あなたはそんな対策を取らなくてもいいんですよ。
対策をとってないあなたを私は見るんですよって言うのよ。
それがこわいよね。

本当にくにちゃんがそんなことをいうかどうかは
全然関係ないし、
別にくにちゃんと面と向かって話す時に
そんなプレッシャーを受ける訳ではないんだけれど、
なんだろうね。

フェンスワークスというグループそのものの
コアになっているものとして
僕はそういうふうに見えちゃうんだよね。
きっと。

小林:
コアになっているものとしてそういうふうに見えちゃう。

大谷:
現実にいるのはけんちゃんとか、なっちゃんとか、
くにちゃんとかであり、
円座というプログラムであるんだけれど。

そういうものの中心に、
なにかそれがそういうふうに構造を作る、
それがそういうふうになる何かがあると想定して、
その中心にある何かみたいなものから
僕がそういうふうに言われているように聞こえる。

小林:
うん。

大谷:
逆に言うと、
対策を取らずに緊張している状態の中から
何かを言うというのは絶対に大丈夫という感じがしている。
そこから言う言葉っていうのを否定される感じがない。
けど緊張はする。
珍しいと思う、こういう場所は。

で、結局あの時思ったのが
緊張している状態のほうが普通なのだ。
緊張している状態がノーマルな状態というか。

そういう風に思って、
緊張しないように対策を取るということを
普段はやってるんだけどここではできない。
という感じを受けるんだよね。

【言葉の記録3】コトバのキロク公開収録 第5回


(まるネコ堂ウェブサイトからの再掲)

第5回 ここの場所がそもそも緊張する。フェンスワークスというものが緊張する

大谷:
今、緊張してるんですよね。

小林:
ははは。

大谷:
僕ね、
こういう場だから緊張するっていうのもあるんですけど、
ここの場所がそもそも緊張する。
フェンスワークスというものが緊張する。

フェンスワークス:目的を持たない生命体的集団。
大阪の千代崎に拠点を持つ。
円坐やエンカウンターグループなどを数多く開催。
代表は田中聡氏。2014年より小林夫妻も所属。

小林:
(笑)
フェンスワークスというものが緊張する。

大谷:
緊張する。
フェンスワークスに来て緊張しなかったことがない。

小林:
もう月曜日くらいから緊張してたよね。

大谷:
くにちゃん(という存在)が緊張するのかもしれないね。
緊張しない?

くにちゃん:橋本久仁彦氏。「きく」ことの達人。
口承即興舞踏劇団「坐・フェンス」を率いる。
フェンスワークスの誕生にも関わったフェンスワークス・フェロー。

小林:
前よりはしなくなったって感じかな。
だから緊張してるんだな。

でも今日くにちゃんはいないじゃん。

大谷:
いないんだよね。
いないけど緊張するよ。

一番緊張したのはミニカンの録音のとき。
僕がしゃべった。
もう、緊張したっていうことしか喋ってないような
ミニカンだったんだけど、
あれが一番緊張した。

で、結局あの時思ったのが
緊張している状態のほうが普通なのだ。
緊張している状態がノーマルな状態というか。
そういう風に思って、
緊張しないように対策を取るということを
普段はやってるんだけどここではできない。
という感じを受けるんだよね。

ミニカン:ミニカウンセリングの略。
15分間、話し手の話を聞き手が聞き、
それを録音し状況音も含めて逐語録を作成。
それをもとに15分間に何が起こっていたのかをレビューする。

小林:
フェンスワークスでもくにちゃんでもってことだよね。

大谷:
そうそう。
人としてそんなにプレッシャーを受けてる訳ではないんだけれど、
フェンスワークスの人って誰一人とって
そういうことはないんだけど、
むしろ逆かな。

その威圧感みたいなものはないんだけどさ、
でも何故かそうなるんだよね。

小林:
はあ。

大谷:
稀有な場所だよ。

おそれがある、「畏れ」が。
悪いことが起こる感じの恐れじゃなくて。
畏れている。

小林:
畏れている?
くにちゃんを?

大谷:
くにちゃんを畏れているのかな?
そうかもしれない。
そういうことにしてみよう。

小林:
でも別になにもやってこないじゃん。
大谷:
やってこないんだよね。

【言葉の記録3】コトバのキロク公開収録 第4回

(まるネコ堂ウェブサイトからの再掲)

第4回 引用は大胆で深い敬意の表し方

小林:
僕が勝手にイメージしたもので言えば、
それによって大谷さんの言わんとしていたことが完成したというか、
次の状態にすすんだと言ってもいいのかわからないけど
そんな感じがした。

そのうれしかったってのはなんなんだろうな。

大谷:
読んでくれているってことがわかったってのがうれしかったし、
伝わったというか、
引用するってことは僕が言わんとしていることがわかった、
のだろうなと思ったのよ。

小林:
引用したってことは僕が言わんとしていたことがわかった?

大谷:
何書いてあるかよくわからないものは多分引用できない。
部分だけを切り抜いたからといって使えないと思うんだけど。
ちゃんと伝わったんだなと思った。

小林:
大谷さんがFacebookにも書いてたけど、
最大限の敬意の表し方だっけ、あの表現。

僕が例えば中沢新一さんのことを引用するときにも、
それが僕が言わんとしていたことを
最も的確に表しているから引用したりしてるんだけど。

その人の言っていることが、
自分の中に入ってきた感じがあって、
それも含めて僕のものを出す方がより伝わるような感じがしていて。
それを大きい敬意の表し方だと言われることは
すごくうれしかったのね。
いまそのことを詳しく言ってくれている感じがあって
聞いててよかったなと思って。

大谷:
そうだね。
Facebookでは「大胆で深い敬意の表し方」って書いたと思う。

小林:
大胆で深い敬意の表し方。

大谷:
中沢新一のある文を引用するってなったら、
中沢新一に挑む感じがあるじゃん。

小林:
うん。挑む感じがある。

大谷:
対等な感じがある。
そういうことが引用という作法でできるのが
大胆だなと思って。

【言葉の記録3】コトバのキロク公開収録 第3回

(まるネコ堂ウェブサイトからの再掲)

第3回  引用ってドキドキするんですよ。するのもされるのも

大谷:
往復書簡。公開書簡か。
雑誌とかでよくあるあれ。
なんか憧れてたんだよね。

小林:
(笑)

大谷:
ブログのやりとりはなんか、
そういうのができてうれしい感じがあって。
引用。お互いに引用する。
引用ってものすごく敬意を払う行為だなと思っていて。

文章を書くって結構大変で、
自分の考えを晒す形になる。
それを引用は切りとる。
その人の出したものを切り取って、
でも切り取られた分はそのまま、
一字一句変わらないものを自分の中に一度入れて、
またそれを形として出す行為。

けんちゃんていう人を例えば切り刻んで、
その部分を僕に移植して、
それによって僕というものができるくらいの感じがしていて
ドキドキするんですよ。
するのもされるのも。

小林:
うん。

大谷:
僕が勝手に師匠だと思っている、
その人は思ってないかもしれないけど、
編集者の人がいらっしゃって。
もう亡くなられてるんですけど。

その人に一度だけ僕が書いた文章の一部を引用されたことがあって。
それはすごくうれしかった。

これはちゃんと話したほうがいいのかな。
僕は地元が京都の宇治なんですけど、
黄檗という駅があって、
その近くに住んでいて、
その黄檗のことを書いた雑誌を作っていた。以前。

その雑誌を作っているってことをその人は知っていて、
僕がなぜその雑誌を作っているかを
その人の編集しているメールマガジンに書いた。
そこから引用されたんですけど。

黄檗という場所は、特段何もないところなんだけれど、
でも僕にとってはいろいろ面白いものがあるみたいな感じの
そういう文章だったの。

そこに僕の師匠がたまたま仕事かなんかでやってきて
その黄檗の街を見たと、
その時のことを自分で書かれて、
大谷っていうやつがいて、
大谷が言うにはこの辺りはとりたててなにもないっていう
僕の文章が引用されて、
でもこんなに色んなものがあるんじゃないかってことを
書いてくれた。

文脈的にいうと僕の言葉は否定される材料として、
大谷がこう言っているけれどもそうじゃなっていう
文脈で引用はされているんだけれども、
すごいそれこそが僕が言わんとしていたことというか、
その人がそう書いてくれたことを
僕は言おうとしていたという感じがして。
うれしかった。

唐突なんだよね引用って。

小林:
唐突?

大谷:
唐突。

読んだら「あっ」てなる。
あ、当たり前か。知らないで読むからか。

小林:
引用されたってことをね。

【言葉の記録3】コトバのキロク公開収録 第2回

(まるネコ堂ウェブサイトからの再掲)

第2回  組織の一員として、どこから何を言われるかわからないって結構リスキー

小林:
もう一つ思い出すのが、前にメディフェスというのがあって。

大谷:
市民メディアフェスタかな。

市民メディアフェスタ:
2004年に「第1回市民メディア全国交流集会」が開催され、その後、市民メディアの祭典として全国各地の主要な市民メディア団体が持ち回りで実行委員会を立ち上げて毎年開催されるようになったイベント。

小林:
うん。あれももう10年位やってるんだっけ。

大谷:
それ自体は年1回、10年位やってるんじゃないかな。

小林:
去年か一昨年だったか、
大阪でやろうっていう話になって、
大谷さんがそれのとりまとめのようなことをしていて、
僕も協力してくれと言われて一緒に行って、
やったことを思い出します。

その時はそのメディフェスを作る打ち合わせ自体を
オープンにしようって言って、
議事録とかも公開していくというのをやったんだけど。

その時扱っているテーマが面白くて、
「タブーについて」。
メディアに載るときに宗教とか、

大谷:
政治とか、

小林:
いくつかタブーがあると。
なんで扱ってはいけないのかみたいな話があって。
そういうのを扱うメディアフェスティバルみたいのを
やるんだから、議事録自体もオープンにしようって
いってたんだけど。

実際には「これはオフレコで」とか。
録音を取ることもちょっと待ってくれみたいな
話になりながら進んだと。

大谷:
崩壊したんだよね(笑)

小林:
結局やることはなかったんだよね。

大谷:
僕らの意図した形ではできなかった。
僕らの敗戦の記録ですね。

小林:
それもオープンにする時に起こる現象だなと思っていて、
僕ら個人でやっているときにはいいんだけど、
例えば組織に所属してたりだとか。

組織の一員としてなにかしているときに、
どこから何を言われるかわからないって
結構リスキーな状況だと思ったりしてね。

今この場をこういう風にやっているということ自体が
メディフェスの頃からの流れの
ちょっと先に今があるなという思いがあります。

大谷:
メディフェスの話はすっかり忘れていて今日まで。

言われてああほんとだなと、
あそこでやろうとしていたことかと思って。
ちょっと、はーと思った。

【言葉の記録3】コトバのキロク 公開収録 第1回

(まるネコ堂ウェブサイトからの再掲)

言葉の記録

人と話をするのが面白い。どこがどう面白いかというのは、その人、その時それぞれだから、ひとくくりにはできない。話、離し、放された言葉が少し景色を変えてみせる。そんな言葉の記録。事と場の記録。

小林けんじさんの「自分では、自分の考えてることを文字にするのが難しいから人に聞いてもらいたい」という言葉から生まれた企画。

October 27, 2014

【025】家内移住

温暖で快適ゆえ、猫有り。
ゆえに我、捗らず。
かない、じゃなくて「いえない」。

2階建ての我が家。年間を通じて1階は低気温、2階は高気温。
特に2階の南側の部屋は冬でも昼間は暖房いらず(家内温暖地域)。
逆に1階はどんなに暖房を入れても入れ足りない(家内寒冷地域)。

机と椅子とパソコンがあればそこがオフィスなので、季節ごとにオフィスを移住。快適快適。

こういう時に物が少ないと便利だなと思う。
シンプルな暮らしで移住楽々。

October 26, 2014

【024】『2014年』のsekenism


庭から見える景色。
毎年寒くなると恒例なのだけれど、薪ストーブが欲しくなる。
年々、設置してもいいんじゃないかという期待の度合いが高まってきている。
今年こそは、と思ったけれど、うっかり「薪ストーブ 苦情」で検索してしまって、この国の支配者の存在に気づく。
天皇陛下でも総理大臣でもない。
この国を実効支配しているのは「偉大なる世間様」である。
世間様の治める世間主義(sekenism)国家である。
(架空小説『2014年』より)
まるで、ジョージ・オーウェル『1984年』の「偉大なる兄弟(ビッグ・ブラザー)」のようにあまねく人々を監視している「偉大なる世間様」。

と妄想が膨らんで近所の街並みが別の世界に見えてくる遊びをして楽しむ秋。

夜長にまた読もうかな『1984年』。
旧訳版。 新訳版。

【023】いさぎわるいから生きている

新月を撮ろうとした写真。
中央の白いのが新月、ではなくたぶん飛行機雲。
前回の続き。

僕には「残るということへの執着と罪悪感がある」。

「残るということへの執着」と書いたけれど、執着そのものが残ることであるから、執着は省略できて「残ることへの罪悪感」。

逆に残らないこと、つまり「消えることは潔い」と思っている。
これも言葉としては冗長で、消えることそのものが潔い。
潔いという言葉の一例として消えることがあるのではなくて、消えることそのものが潔い。だからこれも省略できて「潔い」だけ。

その「潔い」の逆だから、残ることは「いさぎわるい」。

「いさぎわるい」という言葉はないので「潔くない」ということだけど、罪悪感も合わせた表現として「いさぎわるい」という言葉がしっくり来る。そして、罪悪感というもの自体も「いさぎわるい」に含むことができる。

どんどん言葉が省略されていって、最終的に僕も消えてなくなれば、単に「いさぎわるい」。

世界で最後に残るのは「いさぎわるい」だけ。

『はてしない物語』 で虚無によってファンタージエンは砂の一粒まで追いやられた。その一粒は「いさぎわるい」だろう。

この世界のすべてのものは「いさぎわるい」から派生している。
まず光があったわけではなくて「いさぎわるい」があったのだろう。

なぜ生きているのかという問いが時々僕に襲いかかる。
それは前回の回答を更新すべき時が来たということ。
大体10年周期ぐらい。

「悲しむ人がいるから」の次が「死ぬ理由がないから」。
そしていまは「いさぎわるいから」。

これでまたしばらく時間が進む。

October 25, 2014

【022】残すの熱

消えそうな虹の写真。
写真は消えない。
「残す」は時間と空間を移動して存在すること。
それは強烈な力の源で、発電所の炉の熱から電気が作られるように、そこからさまざまな力を生み出す。
未来、計画、安定、所有・・・

本を書くのはその時点での視界を残すこと。
もやもやとしたものを言葉として取り出し文字として定着する。
本はフリーズドライになった仮死状態の著者の視界。
読む者は自分の体験という温かなお湯をかけて仮死状態の著者の視界をよみがえらせる。
時間を超えて読む人が書いた人になる。他人の視界を得る。
これも「残すの熱」がもたらしたもの。

その時間を過去からも未来からもどんどん縮めて、今、ここに到達すると、残すの熱は失われ、書くことは話すことに、読むことは聞くことにたどり着く。

October 12, 2014

【021】無縁の場は現代でも存在しうる

パイプは縁のイメージ。
けんちゃんのこの論考、面白い。
円坐(エンカウンターグループ)と無縁の原理

なぜなら、
アジールは存在できないーーそれが現代人の「常識」である。その常識はメディアや教育や家庭をとおして、子供の頃から私たちの心に深くすり込まれている。(中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』p69)
アジールは無縁と読み替えられる。ここで中沢新一はカギカッコの「常識」と書いている。中沢自身は常識だと考えていないが、世間一般の「常識」という意味だと思う。

この「常識」に対して、
 「おじちゃん(網野善彦)の考えでいくと、縁を断ち切った無縁を原理にすえても社会はつくれる、ということだよね」
 「ああそうだ。無縁になってしまった人間たちを集めて、権力によらない自由な関係だけでつくられた社会空間というものは、実際に存在することができるはずなのさ。(略)」(同p97)
と無縁(アジール)が現代にも存在しうると網野善彦は言っている。
円坐を空間と時間を区切った一つの社会だとすれば、円坐は網野善彦の言葉を実現している。
「・・・そういう空間が長い時間にわたって永続できるかどうかってことが、難しい問題になるわけさ。君はそういう実例を知らないかい。社会的な縁を否定してつくられている集団なのに、長いこと持続もできるというような人間関係って、(略)」(同p98)
と無縁の実例を切望した網野善彦が円坐を見たらどう思うのだろう。

無縁という語が一般に否定的文脈で使われていたというのは、中世のころからすでにあったし、それは網野善彦も認めている(網野善彦『増補 無縁・公界・楽』p367など)わけで、そこをあえて肯定的文脈で使っていた証拠を集めているというのが『無縁・公界・楽』のすごいところ。

現代において、「今やお金で買えないものなどないのか、いやあるのか」といった議論が起こるとか、身寄りのない人が増えてきたというNHKの『無縁社会』とか、そういった否定的文脈だけでなく、けんちゃんのように自らの営みの中で無縁を肯定的文脈で捉えることは、網野善彦が浮かび上がらせたいきいきとした無縁が現代にも存在しうる証拠だと思う。


October 6, 2014

【020】死者の言い分

父の書斎。
片付けるのは容易ではない。
5月に父が死んだ。僕は生まれて初めて喪主をした。通夜の後、葬儀場に泊まりようやく時間ができて、喪主とは何かを一晩考えた。

そもそも、この葬式は父が死んだから引き起こされたことで、父が当事者である。死んでいるからこちらに何かを伝えることはできないけれど、今起こっていることの主であることは間違いない。意思が伝達できない状況にあるからといって、その人がいないことにはならない。喪主はあくまでも生者の代表でしかない。生者は誰も死んだことがないから死者の側にある言い分を正確に知ることはできない。死者の言い分は、生者の代表たる喪主よりもさらに「前に」ある。喪主は死者と最も近いが不完全な〈代理人〉である。

そうわかったからといって大したことができるわけではなくて、その時点で僕にできたのは、通夜のレイアウトでは参列者が父から遠すぎたので、式場に無理を言って翌朝の葬儀の椅子の並べ方を変えたぐらい。そんなことを父が望んだかどうかはもちろんわからない。

すでに死んだ人、まだ生まれていない人、生きていないけれど言い分はある。

October 5, 2014

【019】〈大ストーリー〉への憧れとメタ僕

風が吹いていれば自分が止まっていても安心できる。
さらに続き。

軽薄で表面的な暮らしと書いたけど、僕はこの軽薄さを気に入っている。と書いたけれど、なかなかそこで終わらない。

森のなかに小屋を建てて住んでみたいと思ったりする。しかし、その理由は、猫を外に出せる、焚き火で煙も出し放題、周りに気にせず木槌の音を出せるといった、今住んでいる家では制限されているものからの解放でしかない。今の家でもそれらができるようになるなら、移る必要はなくなってしまう。

軽薄で表面的な暮らしを望むのであれば、「必要はなくなってしまう」と悲観することではない。

しかし、どこかで僕は、それらの具体的な制限要因が全てクリアになることはもちろん、それどころか僕のすべてを包み込んでくれるような〈大ストーリー〉があって、それを僕は進んでいるはずなのだと思ってしまう。まだ見えない幻想のストーリーの中に入りたがる。

でも、やっぱりそんな都合の良いストーリーはない。だから、目の前にあるシーンの解像度を上げるしかない。と思考が輪廻する。

軽薄で表面的な暮らしを気に入っている僕と生き方のすべてを精細に導いてくれる〈大ストーリー〉を望む僕がいて、その両方を行き来する僕を優柔不断な奴と眺めるメタ僕がいる。

October 3, 2014

【018】砂のふりかけ

できたばかりの若い空き地もまた良い。
昨日の続き。

深遠なる構想(ストーリー)を持って生活しているのではなくて、軽薄で表面的な暮らしと書いたけど、僕はこの軽薄さを気に入っている。

というのも以前ストーリーに依存してうまくいかなかったからだ。例えば、

あるとき美緒(澪)が、糠でふりかけができることをきいてきた。炒って塩を混ぜると確かにふりかけだった。このころは節約とかもったいないとかそういったストーリーに依存していた。

その展開から、出がらしのお茶がらでも作った。美味しいかと言われると微妙だが、ふりかけにはなった。ストーリーへの依存は強い圧力を持って僕達の背中を押していく。お茶でもできるんだから、コーヒーかすでもできるんじゃないかと僕は思った。そうすれば、毎日発生するコーヒーかすをきれいに活用できると思った。期待は大きかった。コーヒーかすと醤油を鍋にいれて火にかけた。

結果、食べ物とは言えないものができあがってしまった。でも、ホッとした自分もいた。もしこれがうまくいったら、僕は次に庭の砂を炒り始めたはずだから。

こういう時、ストーリーへ依存してしまっている僕は、自分自身を見ることができなくなっていて、途中で止めることができない。「節約のためにならなんでもやるべき」となってしまう。いつの間にか自分自身から乖離していて、それどころか人間からも乖離するところまで行こうとしてしまう。ストーリーの中にいると、自分がいったいどこで乖離したのかすらわからなくなる。

という話を澪にしたら、それは小林けんちゃんの話にあった一節を思い出すといった。

小林 ミッションがこうで、
   このためにこういう事業計画があって、
   具体的にはこういうタスクがあって、
   で、これやる人は?
   って言った途端、
   「いやいや、どうぞどうぞ」って感じで、
   誰もやりたがらない(笑)
   なんじゃそりゃって感じだよね。
ほんとだ。
この場合、ミッションがストーリーとなり、そこへ依存してしまっている。そして、そこにいる人から乖離している。

ストーリーかシーンかで言えば、僕の場合はシーンに依存するほうがうまくいく。だからといって全くストーリーがないかというとそうではないけれど、ストーリーに乗る時は自分自身からの乖離がないかどうかを注意深く見ている。

今では糠もお茶がらもコーヒーかすもなんのためらいもなくコンポストに入れている。コンポストが美味しそうに食べてくれるシーンの楽しさは以前にも書いたとおり

と、ここまで書いて思い出した。最初に勤めていた会社で僕は毎日終電まで働いていた。病気で入院もした。社会的に意義のある仕事だと思っていたから、どこまでもやれたし、やらないといけないと思っていた。しかも最悪なことに僕はそんな働き方を同僚たちへも暗黙のうちに求めていた。自分の依存するストーリーに他者を巻き込んでいた。ストーリーへの依存が進んで僕は人間としての感覚を失っていた。「人間に戻れなくなる」ところまで、僕は僕が作り出したストーリーに潜行していた。

【017】シーン先行型の暮らし

刃物を研いで使うというシーン。
岡田斗司夫が、「エヴァンゲリオンはシーン先行型で作られている。これでもかこれでもかとかっこいいシーンを繰り出してくる。ストーリーは二の次」というようなことを言っていて、あぁそうかと思った。

僕らの暮らしはシーン先行型だ。

例えば、
七輪でサンマを焼いて食べるシーン。
火鉢であったまりながら本を読むシーン。
万年筆にインクを吸い上げるシーン。
シーンは何かが有ることで作られるだけではなく、
電子レンジがないことで生じるシーン。
なんていうのもある。

シーンと言っても、画的なものだけではなくてもう少し概念的なものもある。
オーダーして作った足にピッタリの靴を履いてどんどん歩くシーン。
新品よりも使っていくことで良くなっていく道具のシーン。
講読ゼミで本を読みながら仲間と真剣な話をするシーン。
それぞれのシーンは、そのシーンにおいて最適化されていくから、例えば庭で七輪に火をつけて秋刀魚を焼く工程はどんどん洗練されていく。もともと魅力的だと思うから作り上げたシーンはそれなりの強度と魅力を持って僕の暮らしに存在し積み重なっていく。しかし、その七輪シーンとペンキを塗り直し作り上げた部屋の中の喫茶店シーンの接続はかなり強引になる。

また、やってみたいと思っても実現できないシーンもあった。なんで、できないんだろうと思ってたけど、そりゃ無理だ。すでにでき上がっているシーンに必要な設定や小道具と新たにつくろうとしているシーンに必要なものが大きく食い違っているのだから。

そんなわけで、ずっと僕が暮らしに持っていた違和感の正体がわかった。

ストーリーは二の次だったのだ。

例えば、エコロジー、ロハス、田舎暮らし、節約、のんびり、などなど。
そういったストーリーで僕らの暮らしを説明しようとすると、おかしなことになってくる。

特に、つい最近まで僕が信じ込んでいたストーリーがミニマリズム。
とにかく家の中にある物の数が少ないほど良いと思い込んでいたし、そう言ってきたし、そう行動してきた。

そのつもりだった。
でも、やっぱりおかしい。

普通の人の家にない七輪みたいなものがなんであるの?
ガスコンロを使わないならミニマルといえるかもしれないけど、ガスコンロあるし。

これはミニマリズムでは説明できない。
ある程度まではうまくいくのだけど、最後まで行けそうな気がしない。

ストーリー先行型であれば、次にどういったシーンが来るかは、ストーリーを読み進めることで作られる。でもシーン先行型は、とにかくかっこいいシーンを思いつかないと次のシーンは出てこないし、逆に、突然思いついてしまったシーンを強引にでもやってしまう。

外からは、なにやら深い意味がありそうなライフスタイル(ストーリー)に見えていたのかもしれないけれど、実はとっても軽薄で表面的。そういうことがわかって、自分で笑えた。

そんなわけで、つい2日ほど前に思いついた新たなシーン。
ハンモックで本を読んだりコーヒーを飲んだりしながら、うとうとしたい。
これ、近いうちにやってしまう可能性が高い。

きっと、スモールハウスも強烈な魅力と長い尺を持つ大きなシーンだから、惹かれるんだろうな。

とにかく、僕らの暮らしのシンプルなんだかカオスなんだかわからない状況は、シーン先行型というメタストーリーである程度説明がつく。今の住環境でやれる新たなシーンがなくなった時、僕は別の舞台へ移動するのだろう。


追記:このエントリーを読んだ山根澪に「これじゃぁ、私がやったことが暮らしの中に入っていない」というクレームを受けたので、3箇所の「僕の暮らし」を「僕らの暮らし」と修正しました。

September 26, 2014

【016】「へー、すごいアプローチだね(笑)」

自分の中で形にならないと思っているものは、
光量不足でブレて写っているだけなのかもしれない。
「言葉の記録」というコーナーを作って、小林けんちゃんと話をした。この時、僕がけんちゃんに話を聞きにいっているのだけど、冒頭こんなやり取りをしている。

小林 なんか大谷さんの、ないの? 聞いてみたいこととか、関心とか。 
大谷 (けんちゃんが)普段考えている、ずっと考えてしまうようなことが、
   聞けたらいいかな。
小林 ふーん。なるほど。 大谷さんなりに僕にいろいろ関心持ったりとか、
   こんな話面白そうとかは、あったとしてもそれじゃなくてね。
   へー、すごいアプローチだね(笑)

この後、「そう?」と僕は気の抜けたような応答をしている。
この時は、このアプローチがどう「すごい」のか感じ取れなかった。本当にただ、けんちゃんが今何を考えているか聞いてみたいと思ったからだ。

取材の常識で言えば、こんなインタビュアは失格だ。なんの準備もしないで「なんでもいいので今考えてること聞かせてください」なんて言いながらレコーダーを回しだしたら、その場で叩きだされてもおかしくない。

用意周到に対象者に関する情報、最近の著作や発言を頭に入れて、ありそうな話の流れを予め読んでおいて、質問を準備する。それがインタビューの「イロハ」である。そういう点では、僕は友人という関係性に乗っかって、無茶で失礼なやり方をしているのかもしれない。

しかし、ここでけんちゃんの言う「すごいアプローチ」は、そういった「質問をするはずの人」側のマナーや常識についてではない。

僕は、この時以来、ずっとこの対話のことを考えている。

けんちゃんの話したことは、本来は僕の中にはないものだった。けんちゃんと僕とは、全く別々に存在していた。それにもかかわらず、けんちゃんの中にあったことが、僕の中にあったことに重なり、その2方向の照射から、それぞれの中に再びそれぞれの方向と強度を持った新たな視界が生まれた。その視界がまた何かを見えるようにしてくれる。

そういうことを引き起こすアプローチだから「すごい」のだ。
目的を持たない非構成の場を数多く経験してきたけんちゃんだからこそ、それを感じ取れたのだと思う。


10月24日にけんちゃんと2回目をやります。今度は公開収録をしてみます。
fence works「コトバのキロク 公開収録」

【015】対価ではなく畏怖や敬意として

こんなに小さかった。
欲しいものをもらったら、「ありがとう」と言う。
ありがとうを言われたければ、人が欲しいものをあげる。
ありがとうは欲しいものの対価にすぎない。

欲しいとも思っていなかったけれど、
それをもらったことで、
大きく何かが変わることもある。
その変化は、変化する前の自分では予想すらできなくて、
だから、それを欲しいと思うことはできない。

そんなことは頻繁にあることではなくて、
一生に一度あるかどうか、
そういうことかもしれない。

そういうものをもらった時に、
対価としてではなく、
畏怖として、敬意として、
「有難く」思う。

September 25, 2014

【014】支援を超えて

こういう気分の時に行きたくなる場所。

共同連の機関誌「れざみ」Vol.149の「【報告】大阪マラソントーク」というコーナーに駄文を書いた。いやもう駄文。僕の文章などよりも同じコーナーの他のお二人の筆者の文章をぜひ読んでほしいと思う。下記にそれぞれから一部を引用。

支援について話をした。「つらい、苦しい」がこみあげてきて、涙がとまらなかった。「平等ではない」に感じ、「支援」という言葉の力がこわかった。きいてると自分が暗くなる。

「『働きたくない!』『仕事をよこせ!』の2つを同時に言える力が必要なんです」という高橋さんの言葉に、私の3年間は引っ張りだされた。
 「誰かに話してもいいのだ。」「苦しい。といっても良かったのだ。」初めてそう思えた。
高橋さん:ニュースタート事務局関西の高橋淳敏さんのこと。

僕たちは悲しいほどに一方的だ。それは誰も死んだことのない「生の世界」から死者というものを決めつけるように、有るものによってしか認識できない「有るの世界」から無というものを決めつけるように。

September 19, 2014

【013】例えばとても悲しい事実がある。そして、

飛行機雲はなぜできるのかとか、
夜空はなぜ黒いのかとか、そういう質問が好きだ。
例えばとても悲しい事実がある。そして、
その事実はもうどうすることもできない。

こういう場合に作文で、こう書いたりする。

   とても悲しい。しかし、どうしようもない。

この場合、それに続く次の文章を想起する。

   だから、悲しんでも仕方がない。

つまり、この人は悲しむことをしていない。
一方、

   とても悲しい。そして、どうしようもない。

普通はこうは書かないけれど、この人は悲しんでいる。
悲しむことをちゃんとしている。
悲しいこととどうしようもないことはつながらない。
つなげる必要もない。
悲しいことは悲しいだけだ。

September 17, 2014

【012】無くても死なないもののために命をかけること

外国人が見た日本の風景、
みたいな写真。
「音楽がないと生きていけない」といったようなことをよく言うけど、これはもちろん比喩で、食べ物や水や空気のように、音楽が無くなると直ちに生命の危険にさらされるようなことはない。音楽にかぎらず芸術や文化というものはすべてそうだ。

飢饉や戦争に対して芸術や文化は負ける。
災害や病気に対して芸術や文化は負ける。

だから、そんなもののために命や人生をかける行為は、生きていくことについてのみ着目すれば、無意味である。

つまり、その無意味さの中にだけ、芸術や文化の核があるということだ。

そんなもの無くても誰も死なないと言われたら、そうだと答えて、それに命をかけているんだとにっこり笑えばいい。それだけの話。

【言葉の記録2】小林健司さん 第11回

第11回  だから旅とか、冒険みたいなのに似てる

小林:
だから旅とか、冒険みたいなのに似てる。
ここまでなぜ来てしまったのかという説明を、
一個一個していこうと思うと、
いろんな分岐点があって、
こっちは池で、こっちは森だったから、
こっちに向かったとか
全部説明できるけど、
なんでこんなところまで出発地から、
来たのかっていう全部の説明は無理だよね。

大谷:
うん、そうだね。
小林:
けど、動機としては僕の言葉で言えば、
さっきの丁寧に生きるみたいな部分をちゃんと、
自分でそっちの方向に歩いて行こうとしたら
この道しか結果、なかった。
他、あったのかもしれないけど、
僕にはその道しか見えなかったというか。
ので、ここにいます、
ぐらいの説明になるだろうね。

大谷:
面白いね、これ。
文字にしてこの面白さが伝わるだろうか・・・。

小林:
だから僕がここに住むのを決めるのと同じくらい、
大谷さんが冷蔵庫を買い替えてちっちゃくしたとかさ、
僕も、何かをなくすとか、
捨てたとかと同列な感じがするよね。

大谷:
あぁ、するする!
するよね。

小林:
同じ行為、本質的には。
前の話してた言葉で言えば、フロンティアを開拓するみたいな。

より未開の地に歩を進めるための行為っていう意味では、
まったく同じ意味合いの行動というか。

大谷:
するね。
電子レンジなくしたらどうなるんだろうっていうのを
あんなに楽しく考えるのは、おかしいよね(笑)

小林:
(笑)

大谷:
さっきから鳥肌が立つ寸前の状態でさ。
もう少しっていう感じがある。
そういうふうなことを考えられるんだよね。
けんちゃんと一緒にいると。

小林:
うん。

大谷:
今日は、このへんにしときますか。

小林:
うん。いいよ。
(終)

【言葉の記録2】小林健司さん 第10回

第10回  納得しやすいストーリーへの依存

大谷:
前にさ、あの、「無いの世界」の話をした時にけんちゃんが、
「無いの世界を語る言葉が無いから、
言葉で語ろうとしてる時点で、
その言葉はちょっと変な感じになる」っていうことを言っててさ、
そりゃそうだなと、すごい思ってて。

言葉自体が有るというものを前提に作られているから、
道具として適切じゃないけどそれを使わざるを得ない、
みたいなことがある。

小林:
あぁ、うん。

無いの世界:一般的なこの世界は「有るもの」によって構成され、認識されている。だから「無い」というのは「あるはずのところに無い」という欠損としての意味が現れる。しかし、もともとは、「何も無い広大な世界(無いの世界)」が「有って」、その中にところどころ「何かが有る」だけではないのか。その「無いの世界」は言葉でどう表現できるのか。言葉も「有る」を前提としている以上は、「無いの世界」を語るには不都合が出て、「ちょっと変な感じ」になる。といった小林と大谷の会話から。

大谷:
それと同じで、
子供の頃こういう体験をして、音楽に出会ってとか、
ビートルズに出会って今やってます、
みたいなストーリーって、
そういうのでその人を語るのって、やりやすい。
でも、それ以外の方法で
その人が何かっていうのって言いにくいんだよね、きっと。

みんなストーリーによっかかっているというか、
なんで今こんなことしてるんですかっていうのは、
なにかきっかけがあったからこうなっているはずっていう、
因果関係をベースにしちゃっている感じがある。
それで理解しようとしちゃうんだろうな。
だから因果関係は無いんですっていう人が現れると、
なんじゃこいつってなる(笑)。

小林:
(笑)
大谷さん、なんで訊いたの、僕に。
今、なんでそのようなのかって。

大谷:
僕自身も方向感が無いなって思っていて、
けんちゃんと似通ってると思ってる。状況的に。だから、説明してくれたらすっきりするなって(笑)

小林:
(笑)
そしたらやっぱりなかった。なるほど。
他人に頼ってでも説明したくなるよね。
僕も、大谷さんに言ってもらいたいもん。
僕がなぜこうなのか。

大谷:
そのなんか、名前もついてないし形もない、
なんでもない何かが想定されてるんだよね、きっと。

けんちゃんがこうである理由がすぱっとそれでわかるみたいな。
その理由に多分僕も乗っかれると思ってるんだけど、
今んとこそれは、ない。

小林:
解明されてないね。

なるほど、ここまで来ると特定の事象とかって言うよりは、
なにかそういう「無い世界」をちょっと表現できるような、
あれがあればいいんだけどな。まぁ、それがないから苦労してるっちゅう話だ。

大谷:
そうだね。構造を全部取り外していって、
組織はこういうところがしんどいとか、
お金はこういうところがしんどいとか、
計画はこういうところがしんどいとか、
そういうの全部とりはずしてってようやく、
なんかがあるのか、みたいな。

でもそれが何かはわからない。
っていうところまで来ました。

【言葉の記録2】小林健司さん 第9回

第9回 同じ対象に向けて描写した事柄だというのは明確にわかる

小林:
ピラミッドと川みたいなものでさ、
僕が川だと思ってたものをピラミッドだよねそれは、って
大谷さんが言ってくれるのが
すごく僕にとっては豊かになる感じがあって。
僕の結婚式の時も、
「そのままのけんちゃんとなっちゃんがいる。
みんなもそのまま、普段のままいた」って、
大谷さんが言って、
あぁ俺やりたかったのそれだ!みたいに思った。        

大谷:
うん。そう見えた。

結婚式の時:2014年5月に赤松氏の北比良のログハウスにて行われた小林夫妻の結婚報告会にて、橋本久仁彦氏ら「坐・フェンス」による縁坐舞台(即興芸能)が行われた。文中の発言は、その時の大谷の発言「普段通り。けんちゃんは緊張しているし、なっちゃんはとてもきれいな格好をしているけど、普段通りのけんちゃんとなっちゃんで、ここにいる人全員がそうなんだと思う」から。

小林:
なんちゅうのかな。
描写だから、ストーリーとは似ているようで違うと思うけど、
違う角度から光を当てている、まぁよく言う喩えだけどさ。
ちょっと僕にとってそれが立体的に捉えられるようになる感じ。

さっきの僕のこと言ってくれたのもそうで、
原因と結果が結びついてない、とかね。

そのそういうピラミッドみたいなものから距離をとって、
生きようとしてるんだから、
当然そういうものと縁遠くなるというのは、
わかりきったことだっていうのは、
言われてみると
そんなに明らかなことはないっていうぐらい明らか。
僕の中にも、手応えとしてはあるけど、
それをまだこう立体的にはみたことがないというか、
まだ紙に書いてみたものが
ちょっと3Dみたいに浮き上がってくるみたいなさ、
なんかそんな感じがあって、
面白いなぁって感じていたね。

大谷:
面白いね。
僕、哲学書とかを読むのが好きなんだけど、
哲学者が
「これはこういうことだ。
これがデカルトの言うなんとかで、
フーコーの言うなんとかである」
みたいな、すごいことをスパって言い切る。
あれ、かっこいいなと思って(笑)

小林:
(笑)

大谷:
「それは、けんちゃんでいうところで本流である」ってさ、
それがそれだって言えるって、なんだろう。
それぞれにその要素を足してって
わかってるわけじゃないじゃん。

なんだかわかんないものを僕はピラミッドに喩えたら、
なんとなく自分の中でスッキリ行くなっていうのと、
けんちゃんが川で喩えたのがすっきりいくなっていうのが、
それがイコールであるっていう感じが、わかる。

それなんかすごいなと思って。

小林:
実体としては無いわけだからね。
そういう川とかピラミッドっていうのは。
けれど同じ対象に向けて描写した事柄であるというのは、
明確にわかる。

大谷:
わかるよね。
そんなことばっかり話してたら、
そりゃ楽しいだろうって思うよ。
けんちゃんとは考えている対象が似てるんだけど、
たどる道が違う感じがある。
でもおんなじものを見てる感じがある。

けんちゃんは変化してるしそれが予測はできないんだけれども、
支離滅裂な感じになっているというふうには感じないから、
どうやって僕は、
けんちゃんをけんちゃんだと認識してるんだろうね。

別人だと思ってもおかしくないぐらいだけど、
間違いなく同一人物だと思ってる。

小林:
大学のホントに親しいやつ、
そいつに言わしても、
僕の状況がこんだけいろいろ変わってってるけど、
「ほんまにお前けんじやなぁ」って毎回言われるんだけど、
ちょっと毎回新鮮で、ちょっとそれによってほっとする部分もある。

大谷:
あぁ、それわかる。そんな感じもする。

小林:
それがほっとするっていうのもまた面白いもので、
なんら安定も何もしないけど自分で居れたということに対して、
ほっとしてるっていうか。

だからといって、そいつに、
お前らしくねぇなとか言われるのが嫌だとか、
そう言われないために頑張ってるつもりも
さらさらないんだけど。

【言葉の記録2】小林健司さん 第8回

第8回  なんでけんちゃんはそういうふうになってるの?

大谷:
なんでそういうふうになってんの?
けんちゃんという人は。

小林:
僕が?
なんなんだろうね、これ。

大谷:
たとえばさ、常識に囚われない発想とか、
ちょっと人と違うことをやるとか、
そういう人はいるやん。

でも、そういう人は
ある方向に向かってやっている感じがあって、
「そういう考えだったらそうなるよね」って、
一貫している。

だから、次会った時、あぁそこまで進んだのね、っていう感じがするけど・・・。

小林:
常識には囚われまくってるもんね。僕は。全然、斬新なことをしてやろうとも思ってないし。

大谷:
そうだよね。

小林:
なのになんでこんなとこにいる。
僕の方が教えてくださいって感じだな・・・

大谷:
「こんなとこにいる」の、
「こんなところ」っていうのにあんまり意味が無いやん。

小林:
ああ、うん。そうだね。

大谷:
たまたまそうっていう感じで。
なんでこんなとこにいるんですか?って
聞かれても多分答えられない感じがする。
こんなところに、の「こんなところ」に執着がない。
だからそういう質問をしてもしょうがないなと思ってる。
だから、「なんでそうなのか?」。

小林:
なんだろうねー。
こんな時に「ちっちゃい頃に」とかって話出せれば、
すっきり解決もするんだろうけどさ。なんにも思い当たるフシがないんだよね。

大谷:
うん。すばらしい!

小林:
(笑)
なんにもないんだよね。

大谷:
質問が間違ってるんだよね、きっと。

小林:
質問・・・、うーん。
僕にとってもそれは興味のある質問ではあるんだけれど。
もっとね、わかりやすいストーリーとかがあれば、
もっと人にわかってもらえるんだろうな
とかいうのは思うけどね。

大谷:
すごいね。
けんちゃんて、
原因と結果が結びつかないよね。

小林:
(笑)
原因と結果が結びつかない・・・

大谷:
普通はさ、これこれこういうことがあって、
この時出会った人があってとか、
今と原因を結びつける。

でもそれ、僕は嘘だと思ってて、
今、こうなってることからその原因を考えて、
特定の何かに行き着くわけがない、と思ってる。

それはその人が勝手に創りだした都合のいいストーリーだよね。
それで悪いことが引き起こされるとかそういうことではないけれど、
これこれこうだから今、こうなんですっていう話に嘘がある。

そういう話は、よーく考えると納得がいかない。
それを体現してるよね。

小林:
ま、細かい事象で見りゃあ、いろいろあるけどね。こういう結果になった、これ、原因がありますとかね。

大谷:
コップを倒したらから、
水がこぼれたとか、
そんな程度だったらあれだけど。

小林:
ま、そうだよね。物理法則のレベルではあるわな。
赤松さんと出会ったからログハウスが建てられました。
とか、くにちゃんと出会ったから
フェンスワークスに入りましたとかね。

大谷:
でも、くにちゃんと出会ってもフェンスワークスに入らない人もいるし、赤松さんに出会ってもログハウスを建てない人もいる。

赤松さん:けんちゃんの知人。30年ほど前に自分で北比良にログハウスを建て、今年さらにもう一棟ログハウスをけんちゃんも手伝って建てた。ログハウス建設の様子

くにちゃん:橋本久仁彦氏。「きく」ことの達人。口承即興舞踏劇団「坐・フェンス」を率いる。フェンスワークスの誕生にも関わったフェンスワークス・フェロー。
http://enzabutai.com/

小林:
そういう都合のいいストーリーを語ってる人が
羨ましいと思う。僕は。

大谷:
語りたい?

小林:
語りたいよねー。
だってわかりやすいじゃん。

大谷:
そうだねぇ。
あれ、語りたいよね(笑)

小林:
子供の頃こうで、大学の頃こういう経験をして、
こうこうこうだからこうなんです、みたいな。

大谷:
それは、語りたいのはどうして?
どういう場面で?

小林:
こういう場面で(笑)
それ以外の時はあんまり思わない。
だから信じてないって言うことはあるかもね。
原因と結果みたいなものをさ。

大谷:
すごいね。
訊かれてんのに、言わない。
普通、訊かれたら作るやん。

小林:
あぁ、そうだね。
つくんないね。

【言葉の記録2】小林健司さん 第7回

第7回  計画とか未来ってそんなにお金と密接だったんだ

大谷:
前にさ、けんちゃんと一緒にお金のテレビ見たじゃん。        

小林:
うんうん。NHKのやつ。

大谷:
あれのお金の一番最初、
起源をこないだ思い出してたんだけど。
お金の誕生によって未来が生まれた、
計画が立てられるようになったって話でさ、
あぁ、そんなにそうだったのかと。

計画とか未来ってそんなにお金と密接だったんだなって。
というか計画や未来はお金そのものやん。

小林:
うん。そうだね。

大谷:
安定とかもそうだけど、計画とか未来を考えるっていうのは
全部同じこと、同じものについての話で、
そいつがこのピラミッドを作っているっていう気がしてて。

同じ何か、概念というか。
そいつをこっちから見ると計画、
こっちから見るとお金、
こっちから見ると未来、
こっちから見ると夢、
みたいななんかそんなふうになってる気がして。

だから、それらがしんどいとしたら、
その本体みたいな概念というか何かがしんどいと
思うようになったんだよね。
たぶん、お金を使わなくても、
お金っていう実体を動かさなくても
未来とか計画とか安定とかってものを扱おうとすると
裏側にお金も動いている、
そんなことになるんじゃないかな。

で、そうそう。
けんちゃんってどんな人かなって考えてたんよ。
けんちゃんって、会うたんびに変わるよね。

小林:
(笑)。そう。

大谷:
会うたんびに変わる。
安定しない(笑)。
僕の中で安定しない。

そういう安定とか未来とか夢とかっていうものとそぐわない。
僕から見たけんちゃんは。

だって、ここにいるってさどういうこと?あれ?滋賀に土地買ったんじゃないのかよって。

滋賀に土地買った:今年小林夫妻はログハウスを建てるために滋賀県の北比良に土地を購入。それにもかかわらず、つい最近、それまで住んでいた高槻から逆方向の大阪市内へ引っ越した。

小林:
ほんとだよね。ほんとに自分でもそう思うわ。

大谷:
それがね、面白いなと思って。

小林:それでまたお金稼ぐとか言ってるから。

大谷:
そうそうそう。
あれ、またなんか違うこと言ってるなと思って。

小林:
わざわざこんなとこ来て・・・

大谷:
非常に非効率。
でもその効率っていうものがもう計画とか、でしょ。
同じものなんだよ。

小林:
うん。

大谷:
だからそりゃそう。
そういうのに対して距離を取ろうとすると
非効率にならざるを得ないし、
無計画になるし、
夢は?ってきかれても答えられへん(笑)

小林:
(笑)

大谷:
その上、お金もない、って、
そりゃそうやん。
全部一緒やんって。

小林:
(笑)
なるほど。ほんとだね。

大谷:
っていう存在に見えるよ。

小林:
当たり前の結果が訪れてるだけの話か。
そうだよね。

大谷:
でも困ってないよね。

小林:
困ってることも含めて困ってないね。

大谷:
無人島のおじさんも困ってないのよ。

小林:
うんうん。

大谷:
台風来ても。
台風来て困るのはたぶん残さなきゃいけないものがある人。

【言葉の記録2】小林健司さん 第6回

第6回  構造というか本質的な仕組みは大企業と同じ

大谷:
けんちゃん、最初、
お金を稼ぐことを考えてるって、言ってたけど、
このピラミッドの中にいる人が
「お金を稼ぐことを考えている」って言うのと
違う感じがするなぁと思って。

小林:
そうだね。

大谷:
今までけんちゃんの話を聞いてきてわかったけど、
ぱっと最初の言葉だけ普通に、
僕の固定観念で聞いてしまうと、
このピラミッドの中でスーツ着た人たちの
「お金を稼ぐことを考えてます」っていう言葉と
全く同じ言葉なんだなぁ。

僕ら経済がないとたぶんこういう暮らしはできない。
お米が届くとか。
自分で作ってないお米が届くのは経済だから。
そういうのには乗っかってる気はして、
それはもう否定はできない。
それこそ無人島に行くとかしないと。

小林:
うん。

大谷:
でも、僕は、位置としては
このピラミッドのてっぺんより上にいる感じなんだよね。
この人達が頑張って作ったピラミッドによるインフラの上にいるけど、
ただピラミッドの論理から離れている時間帯があるっていう感じだね。
あと、経済じゃない別のピラミッドもどこかにあって、
そこへ行くとそれによる強固な体系があったりするんだろうなって
思ったりもする。

小林:
そうだね。
この前、話を聞いたんだけど、
100人ぐらいが住んでいる村があって、
そこでは塩と油以外は全部自給自足で賄ってるんだって。
食べ物とか衣食住。
でも月に一人あたり4万ぐらい現金が必要って言ってるから、
それなりにいろいろ買ったりするんだとは思うんだけどね。

大谷:
うん。

小林:
聞くとそこの農業の仕方とか技術とかすごい進んでると。
自然農法とかやってる。
でも話し聞いてくと、いろいろ、
組織の中のいろんなルールがあるわけ。

それはそれでそれがいいと思ってやってるんだったらいいけど、
夜に8時ぐらいから長い時は1時とか2時ぐらいまで、
それこそ円坐みたいな感じで話すんだって、ずっと。
何を話すのっていったら、
その日起こったいろんな出来事に、
どんな意味があったかを話すと。

たとえば車をどっかにぶつけたとかだったら、
それは自分にとってどういう意味があって起こったのかって。

それ聞いて、ものすごくめんどくさいなー、と思って。
その話し合いで1時2時までやられたら、
僕はたまらない・・・

大谷:
それはみんな好きでやってんの?

小林:
まぁ知らないけどね。どうなんだろうね。
でも、たぶん、僕がそこに行っても居れないと思うんだよね。
しかも、入るときに全財産、預けるんだって。預けるというかあげると。
それさ、大企業に入ってんのと変わんないじゃんと思って。
構造というか本質的な仕組みとしては。

そこの村の場合は、先に全部預けて、
その代わり膨大にかかるいろんな生活コストだったり、
そこから生まれる環境への負荷だったりを
限りなく抑えた状態で暮らせますよっていう
安心みたいなものを担保してるわけだよね。

企業の場合は、毎月お金が得られるけど、
自分がその構造に乗っかることで会社が得たお金を
分配してもらってるわけで、
構造として似ている。

大谷:
あぁ、うん。

小林:
環境への負荷とか、貨幣の使用量をどの程度にするか、
という違いはあるけど、事前精算か都度精算かぐらいの話で。
どちらにいるとしても安心を得ているわけで、
そこにいる限りは絶対食いっぱぐれないという。

経済から外れるって言うと例えば自給自足とか、
環境負荷が少ないとか、
そういうエコとかそういうような暮らしとかを想像するけど、
それとは直接的に関係ない気がしてて、
その村にしても、塩と油は買ってるんじゃん。
乗っかってんじゃんって。

大谷:
そうだよね。

小林:
だから、結局、
例えば信仰とかミッションが先にあるのか、
自分とか人が先にあるのかでずいぶん違うよねっていう話をしてて。

信仰が先にあると、NPOのミッションと同じだよね。
そこに全部合わせてくわけ、人が、信仰の方にね。
その教えを守っていくことが先に来るから
その場にいる人がどう感じてるかは無視。
だって信仰が絶対的に正しいから。

じゃなくて、その場にいる人とか僕とか自分の中の全体というか、
いろんな全感覚というのをちゃんと大事にしながら生きたいみたいな部分が、
僕とその組織にいる人との違いだなと思って。

そんなようなことを考える夏だったな。