December 19, 2019

【566】知識と知恵。

今日は珍しくタイトルから書き始めた。知識と知恵。知識と知恵に関する言説について、僕は実はあんまりピンときたことがない。知識と知恵、それぞれについてもそうだけれど、より多いのは知識と知恵とを比較した言説についてで、これはほんとにピンとくるものがない。

多いのが、ざっくり言えば「知恵は良いけど、知識はだめ」というもので、知恵と知識とを対置して、知恵を良いもの、知識を悪いものに位置づけるもの。不思議なことにこの逆はあまり聞かない。

こういった、二項対立的な知識と知恵の言説にあまり納得が行かないのは、多くの場合、次のような意味合いでそれぞれの言葉を使っているように思われるからだ。

つまり、「知識とは使えない知恵である」あるいは「知恵とは使える知識である」というもの。要するに「知恵は良いけど、知識はだめ」という言説は「使えるものは良いけど、使えないものはだめ」というシンプルな知識知恵道具説に行き着く。

この道具説にあまりピンとこない。というか、道具として見ている以上そういう優劣になるのは当然で、ピンとこないところは、そもそも知識や知恵を道具として扱っているところなのだと思う。

そういうものなのだろうか。

実用性というのは一つの要素ではあるけれど、知識や知恵というものをそれだけで測るには、それこそ「用をなさない」のではないかと僕は思う。

知識や知恵というものに対して、僕が持っているイメージはどちらも肯定的なもので、知識のほうがより正統的な印象で、知恵のほうがより頓智が効いている印象がある。なんとなく少年漫画のライバルと主人公にあてられそうなイメージで、知識と知恵はあったりする。

知識と知恵とを比べる言説は、おそらくその人の直感的な好き嫌いから端を発していて、それを理屈付けたときに、一般的に通じやすく使いやすい道具説を借りている気がする。ようするに、どっちのキャラが好きなのかである。

その好き嫌いがどうやら大きく偏っている。正統的な方は人気がなく、頓知が効いている方が人気がある。愛嬌があるのは後者なのだろう。

時間なのでここまで。続くかも。

文章筋トレ 20分

December 18, 2019

【565】昨日のこと。

覚えているつもりが忘れている。いや忘れていない。一度折ってから開いた折り紙を折り目に沿ってもう一度折るようなことだ。昨日の夜、今日やることを書いておいたのを見て、今日それをやるというのは。結局2回やる。いや、一度目はやっていない。シミュレーションなのだからやっていない。でも、やったような気になっていて、それをもう一度やらなければならないという面倒くささがある。昨日の夜に今日やることを予め想定しておいて、今日起きたらそれをやる。スムーズに始められるということと、一度やってしまったことももう一度やらされるつまらなさが同居している。物事をどうやってやるのかということ自体が、その物事を規定しているという当たり前のことを、また確認している。こういうやり方をしたときに、どういうことが起こるのか、その実践例を収集している。「すぐに取り掛かる。効率よくすすめる」ということと「一回しかできない」ということは並立しないのだろうか。一回しかできないということが、一度失敗すれば終わりということを必ずしも意味しないのだから、可能な気がするのだけれど。

「一回ということの独立性に、何回やっても毀損しない強度を与えれば良いのだ」

と千利休は違う言葉で言った。

「3ではなく1、1、1なのだ。10ではなく、1、1、1、1、1、1、1、1、1、1なのだ。」

なんとも気の遠くなる話だ。

「人の人生が保有する時間は有限である。しかし、その細分化スパンは無限に小さくできる。経済性を上回るほどの潤沢な1単位群を得ることができる。一回性が効率を凌駕する理屈だ。」

と千利休は続けた。

文章筋トレ 30分

December 17, 2019

【564】明日のこと。

もうすぐ寝てしまう。この時間に何かを始めることはできない。明日やると思うことを予め考えておくことはできる。そういうことを考えたほうが良いのかはわからないが、わからないときにはやってみてどうだったかを検証すればいい。試すというのが僕のいつものやり方だ。たぶん吉本隆明が出していた同人誌のタイトルに影響を受けている。『試行』。まったくほんとにセンスがいい。さて明日は、小説を一つ読む。読んで感想を聞かせてほしいと言われている。それから『言語7』の編集。このぐらいで僕が自由に使える時間は終わるはず。それで十分だ。ひょっとしたら、今依頼されている制作物の修正のやり取りが入るかもしれない。そうしたらデザイナーの浅野さんに電話したりするだろう。校正の指示書を作って送ったりもするだろう。あとはいつものように家事をしたり新と遊んだりする。以前と比べていわゆる「仕事」時間は大きく減った。いわゆる「仕事」というのは世間的に通用しそうな意味での「仕事」で、僕自身はそれ以外の家事や新と遊ぶ時間も僕の仕事だとは思っている。そんなふうにしていわゆる「仕事」時間は大幅に減っているけれど、それでも、やるべきことをやっている感じは増えている。それほど多くのことを僕はできないということに気がついてから、不思議なことに、本当にやりたいと思うことができやすくなった。できやすくなったという言い方は普通しない。やりやすくなったと言う。でも、できやすくなったといっても通じなくはない。そろそろ寝る。

文章筋トレ 20分

December 14, 2019

【563】停滞する訓練。

友人の仕事の手伝いでそこに来ている。小学校の体育館らしきその場所は東京より東、たぶん千葉県にある。それほど人口の多くない山間部だと僕は知っている。広い空間に机や棚、椅子、テーブルなどが持ち込まれている。もともとそこにあったというよりは、臨時的に運び込まれたような位置関係で、かなり余裕のある配置でそれらの什器がある。ただ、適当に置かれているわけではなく、一応、必要に応じた区画分けがなされているようだ。体育館だと思うのは、天井の高い広い空間であることに加えて、一つの壁側が一段高くなってステージのようになっているからだ。今、そのステージは使われていないが、ステージのある方向が正面だと自然に感じられるような什器類の配置になっている。僕はそのステージを右前に見る位置にいる。椅子に座っている。特に何かをしなければならない状況にあるわけではない。広い体育館にはかなりの数の人が居て、それぞれに自分の作業をしている。一人で机に向かっている人もいれば、何人かで話をしている人もいる。机や棚などの間を歩き回っている人もいる。のんびりしているわけではなく、急いでいるというわけでもない。ただ、どことなく緊張感は漂っている。ステージの前あたりに応接セットが置かれているのが見える。そこに一人の男がいて、僕は「知事」だと思う。総合的に見て、今起こっているのは、千葉県あたりのどこかの比較的小さな自治体にある小学校の体育館で、災害時を想定した訓練か何かである。僕は特にやることがなく、待機状態でいる。それはこの体育館で予定されている訓練が想定通りに進んでいないからだ。全体的には状況は停滞している。だからといってここにいる全員が何もしていないわけではなく、むしろほとんどの人はなにかの作業をそれぞれで進めている。僕が手伝う予定の僕の友人は、僕の隣に座っているがそれが誰だかはわからない。男性のように思うが女性だと思う瞬間もある。いつまでこの状況なのだろうかとその友人に話をするが、もちろん友人にも答えはない。知事が、別の男に「3日もかかるのか。1日しか予定をとってないからなんとかならないか」と言っているのが聞こえる。この別の男というのがこの訓練全体を取り仕切っている「コンサルタント」だと僕はとらえている。コンサルタントの声は聞こえない。顔も見えない。コンサルタント自身もこの状況をコントロールしていないように感じられる。僕は少し落ち着かない。理由は、僕が直面している大きくてそこそこやっかいな個人的な問題があって、その解決のために、近いうちに西の方へ行かなくてはいけないからだ。西の方というのは、東京と京都の間ぐらいの地図イメージが浮かぶ。そこに、以前からかなり長期に渡って存在している僕の人生を左右するような問題に対する糸口がある。そこへ行かなくてはいけない。この個人的問題も、体育館の訓練と同じように明確でない理由で停滞している。同じようにすっきりとしない。だけどいい加減、そろそろなんとかしなくてはならない。知事と同じく、僕もここで3日は待てそうにない。「3日もかかるのなら、僕はそろそろ行かなくちゃいけない」と友人に話して、僕は椅子から立ち上がった。ところで目が覚めた。

こういう「何かやらなければならないことがあるのだけれど、明確ではない理由で停滞していて落ち着かない」という気分の夢をこの何日か立て続けに見ている気がする。シチュエーションは毎回違っているが、僕の気分や胸騒ぎに近い落ち着かなさは同じだ。

文章筋トレ 30分

December 13, 2019

【562】散漫エントロピー。

ほおっておくとどんどん散らかっていくものをどうにかかき集め積み上げて行こうとしているのが僕である。そんなのはもう散らかるままにしておくのがいいではないかと言われてもちっともそれが「いい」とは思えない。どうにかして積み上げたい。中沢新一の『アースダイバー』の最初にタイトルの由来になった、つまり「アースダイバー」という言葉の由来が書いてあって、名前は忘れてしまったが鳥だ。その鳥が海の底に潜って海底の泥をくちばしでくわえて、その泥を少しずつ寄せ集めて島を作るという話で、細部は違っているかもしれない。この話は神話なのだけれど、神話らしくものすごく時間が圧縮されていて、たぶんこの鳥は掬って来た泥が積み上げたそばから海水に流されていく。だから万年単位ぐらいの話ではないかと思う。陸地ができるような時間だ。そういうことをずっとやっている鳥はなにも虚しくなったりしない。虚しさというものはそういうレベルでは発生しない。何万年もかけて大海に島を作るという作業に虚しさなど感じているはずがない。楽しいかどうかはわからないけれど、それでもやり続けるだけの、自分が世界にひとすくいの泥で関与していくことで、世界がほんの少しでも変化していく自体が面白かったに決まっている。効率や達成感は最初から入る余地がないことが作業の純粋さを規定する。僕も生きている間に島の一つもできないものだろうか。

文章筋トレ
時間測り忘れました。10分ぐらい。

December 11, 2019

November 29, 2019

【561】文章面談(文章の家庭教師)募集再開しました。

文章面談(文章の家庭教師)の募集を再開します。

書くという場所は、書くことを面白がる人にとって、まだまだ広大です。面白がって書くことで、書くことがもっと面白くなります。僕は一緒に面白がるのが得意です。いろいろ大変です。苦労もします。簡単ではありません。ワクワクします。


November 26, 2019

November 10, 2019

【560】いつも途中だと思っている。

例によって、こういう人は僕だけではないと思うので、わざわざ書いてみる。

僕は、常に、今は途中だという気分がしている。もう少し言えば、生活や人生にあるだろう「区切り」をうまく捉えることができない。終わりというものが「終わり」として機能しない。どうしても、途中に思えてしまう。

弊害として、達成感が得にくい。達成感と呼ばれているものを実感することがないわけではないけれど、その言葉が流通している意味ほどの「快楽性」がなく、達成感が得られているはずの状況で、僕はむしろ今後を憂いている。そちらのほうが大きい。

たとえばスモールステップとして言われるような、小さな達成感を積み重ねていくようなことができない。ステップだと思って登ってみたところ、実際はスロープなのだ。

スモールステップのいいところは、ステップの小ささ、取り掛かりやすさにあるとされているけれど、僕にはそれはあまり関係がない。しかし、スモールステップのというかステップそのものの概念の良さはあって、それは後戻りが効かないラチェットのようなイメージである。

ラチェットというのは、例えばこうやってブログを書いて発信することにもあって、その意義は、発信してしまったが最後、する前には戻らないところにある。こういうのはとても安心できる。いつも途中で、常に永続的な前進を続けていく気分である人は、何かしらのラチェットを持つといいかもしれない。ただ、ガス抜きになってしまうことには気をつけたほうがいい。

もっとも、苦悩はひっくり返せば革新でもある。ずっと続くことへの耐久性は高いのだから、それがうまく発揮できるような何かを模索すればいい。そう簡単には見つからないが、そう簡単には見つからないことをずっとやっていくこと自体に耐性があるのだから。

日々模索は続き、ナメクジが這いずったあとのように、少しずつ成果が吐き出されていくのだ。

November 9, 2019

【599】踏みとどまるための自分なりの何かしらのウォームなワード。

生きていくことにはいろいろと嫌なことがある。うまくいかないこともある。そういうときにちょっと踏みとどまるようなことができるようにしておくといいと僕は思っている。

ちょっと踏みとどまってみて、立ち去ったほうがいいか、そこでなんとかしたほうがいいかを判断すればいい。そのためには、この僅かな停滞、踏みとどまりの状況を、自分なりの何かしらのポジティブなワードで表されるような時間として持てるかどうかが問題になる。

嫌なことやうまくいかないことに対して、動物的に反射的に逃避を繰り返してしまっても、おそらく「生存」は可能だ。だから、この踏みとどまり、停滞は、非動物的で、非本能的なものである。逆の言い方をすれば、そういう停滞や踏みとどまりは、命に関わる重大な事態に、ごくまれに結びつきうる。

だから、僕はここで、原理的には危険なことを推奨している。

「危険を察知すれば直ちに(どこでもいいどこかへ)逃げよ」ではなく「少しだけ踏みとどまり、状況を受け入れるものとして受け入れつつ、積極的に周囲への探索を行い、その上でステイかゴーかを判断せよ」と言っている。

この「少しだけ」が本当に命を分けるのだとすれば、僕は死ぬタイプだ。しかしほとんどの場合はそんなにシビアではない。

実際的に日々起こっているのは、この「少しだけ」をあっという間に意識できないレベルで漫然と経過させ、その後をただ仕方なく成り行きにまかせているという状況だ。それを「自然に逆らわず」と言い換えて自己肯定することは、「自然」を後出しで自己都合的に定義することである。「自己都合的に定義された自然」ほど人工的なものはない。

自然が僕を死に至らしめることを、人工的でなく回避する方法があるのだろうか。自然に死ぬような状況を、自然に回避できるのだろうか。自然は複数存在するのか。というわけで、自然だの人工だののことはこのレベルで考えなくてもいい。

要するに、大抵の物事はこの「少しだけ」の踏みとどまりによって、その後大きく変化する、ということが重要だ。その後大きく変化することを見逃して、何も変化しないと嘆いていても、何も変化しない。

この「少しだけ」の踏みとどまりの時間で自分を発揮するために、最も効果的なことが、その状況をポジティブにとらえることだ。ポジティブというより「ウォーム(温かい)」かもしれない。自分の平熱の温かさを意識するようなことだ。「今がそうだ」という状況に対する粘弾性が生まれる程度のじわりとした熱のことだ。平時は固形であっても、この少しの熱を意識することで、物事への関与の柔らかさを取り戻すそういう熱のことだ。柔らくなれば動くことができる。動けばさらに温度が上がる。

たとえば、僕ならこの平熱を意識することは、「面白い」というワードで照らされる領域の「始まり」にあたるのだけど、僕以外の人であれば別のワードがあたるのかもしれない。自分なりの何かしらのウォームなワードがあればいい。

自分の人生は特段ひどいものではないが「本当はもっと」と思う人に、参考になるかもしれない。

October 25, 2019

【催し】山本明日香レクチャーコンサート第4回「ハイドン」

去年の12月からほぼ3ヶ月ごとにやっているレクチャーコンサート。4回目です。ちょうど一年。

レクチャーコンサートはあまり見かけない形式なので、通常のコンサートと比べると、レクチャーがくっついている、ちょっと余興的な、おまけ的なイメージを持つかもしれませんが、そうではありません。

演奏家が自身の演奏する楽曲を他人に伝わるようなレベルまで言葉として抽象して語るのは、余興や余技などといった中心からズレた周辺領域ではなく、ど真ん中のことです。

というようなことを明日香本人でもないのに断言してしまうのはなかなか勇気がいるのですが、それでもそうです。

同じようなことをレクチャーコンサートを初めた当初に僕は、「この企画は、明日香の本領でやっている」というような言い方をしました。ど真ん中、本領は、とても深度があって高圧で高密度です。長い時間かかって造成された場所です。指一本動かすにもとてもエネルギーが必要で、そんな場所では何事もゆっくりとしか進んでいきません。

そういう場所で、明日香はこの一年、レクチャーコンサートとしてお金を取って人に見てもらうということをきっちり続けてきて、4回目なのです。ほんとにすごいことだと思います。

先日、明日香の練習風景を見学しました。ちょうど次回のハイドンの曲をやっていました。真剣にピアノに向かっている明日香は普段知っている明日香とはちょっと違っていました。一時間ほど僕はそのそばで聴いていただけですが、僕も自分の何かを、自分の真ん中の、自分の本領で、何かをやっていきたいと思いました。

2時間かけてたった1曲だけやるレクチャーコンサートです。
ぜひおいでください。

11月24日(日)14時から16時です。

【催し】山本明日香レクチャー・コンサート(定期開催)


【598】得意不得意を脱する。

得意か不得意かという分類は比較のなかにある。比較に晒されているのは、ある行為の成果であったり、作品であったりする。どういう状況を得意と言い表すのかを考えれば、「うまくできる」という感覚があるときで、そこで言う「うまく」というのは、多くの他者集団の中での偏差を示している。

自分の独自な状況において、得意不得意はどれほど問題になるのだろうか。自分しか知らないことにおいて得意か不得意かはどうやって判定するのだろうか。

「得意なことしかしない」「不得意なことにも挑戦しなければならない」と言った言説が予め組み込んでいるのは、或る比較基準の存在であり、その基準への依存である。そういう予め存在する基準からどのように離脱するのかが僕にとっての問題だ。

もう一度いうけれど「得意だからする」も「不得意だからする」も同じように、予め存在する基準線に対して向かった意識でしかない。何かをするときにそういう方向ではない意識でやることはできるのだろうか。できると僕は思っている。

そういう場所にもおそらく得意だと思ったり不得意だと思ったりする瞬間はあるのだろうけれど、その思惟が優位に来ないようにやることができると思う。得意だろうと不得意だろうと、それをやるのだ。

October 3, 2019

【598】イケナイ、隙間があれば小説を読んでしまう。

読書の秋とか言っていい感じに文化的な雰囲気を出しているが、読書はそんな生半可なものではない。中毒症だ。この秋、小島信夫に感染した。

『残光』はしばらく前に買っておいて、少し読んでやめたおいた。買ったのはたぶん保坂和志のせいだ。佐々木敦かもしれない。つい最近また読みはじめて、気づけば病に落ちていた。

読書でだいたいひどい症状が出るときは絶版だ。しかたなく『寓話』を図書館で借りる。でかい本だ。読み終わってさらにひどい。欲しい。これ欲しい。絶版だ。保坂さんたちが復刊したのを知っている。買ってしまいそうでなんどかウェブの紹介ページをすでに見ている。メールすればいいと書いてある。

小島信夫のひどいところは、小島信夫の小説群は、そう、群れだ。『残光』でさんざん『寓話』が話題になる。他の自作も話題にする。引用ももちろんする。そんなわけで『寓話』を読む。『寓話』ではさんざん『墓碑銘』と『燕京大学部隊』が話題になる。他の自作も話題にする。そんなわけで、小島信夫の小説を読むということは小島信夫の小説群を読むことになる。小島信夫の小説群を読むことで、小島信夫という小説家を僕の中に創作的に誕生させてしまうことになる。小島信夫は小説を創作することで、小説家まで創作するということをやっている。こんな小説を他に見たことがない。

September 23, 2019

【597】ついでにの楽。わざわざの美。

「近くに来たついでに」というのは楽な気にさせる。この快楽を僕はよく知っている。一方で「わざわざ来ました」というときの美もある。もちろん「わざわざ来ました」などということを言うこと自体が稀である。そんなことはわざわざ言わない。普通は。

楽に生きることの快楽を存分に享受していることを自覚しながら言うのだけれど、僕はわざわざ生きている。わざわざ生きていたい。わざわざのコアにある美にうたれていたい。

生きることが苦しかったりする時代なのはよく知っている。僕自身そうだった。だから、生き延びるために「生きることに意味なんてない。」「生きることがどういうことかなんて考えてもしょうがない。」「もっと楽に生きろ。」「ただ生きていればいいのだ。」というふうにサバイブすることが生のハッキングとして成立する。でもそれは一時的なものだ。雨宿りだ。

僕は総じてわざわざ生きていたい。毎日わざわざ生きていたい。これはもはや悩みとしての成立要件を備えていない悩みとしてはもはや不備が生じて傲慢とすら言えるレベルにまで昇華されてしまった贅沢な悩みだ。それでいい。

September 5, 2019

【596】褒めることは他人の努力の搾取なのではないか。

子育てをするとそれ以前と比べて格段に増えることがある。褒めることと叱ることだ。乳児の場合は特に、褒めることが多くなる。叱ることはあまりない。

それまでできなかったことができるようになったとき、その人を僕たちは褒める。褒められた方は嬉しくなる。一般に、褒めてくれた人に対して好意すら持つだろう。ここに何ら「悪」は介在していないように見える。

けれど、最近、ちょっと違うことを考えるようになった。

何らかの努力を重ねて困難に立ち向かいそれを克服した人がいたとして、それを褒めることで、その人から良い印象を得るということに、なんとなく居心地の悪い思いをすることがある。なぜなら、褒める側は何らの努力を必要としないからだ。何も努力をしていない、なんら苦労していない、それにもかかわらず、なんらかの好意を得てしまうということに、僕は無頓着でいられない気分になる。また、こういうメカニズムとも言えない単純な仕組みを知った上で、人間関係上の優位性を得る目的で積極的に他人を褒めているのではないかと疑われる場面に遭遇すると、僕は気分が悪くなる。

単に、僕がひねくれているのかもしれない。どうかしているのかもしれない。

でも、何かを得るために苦労を重ねた人に対する〈敬意〉の表明と「褒める」という態度の表明とは、似て非なる実体を持っている可能性があるのではないか。一見するとその違いはわかりにくいかもしれないけれど、見かけ上わかりにくいだけで、実体としては全く異なるものなのではないか。その異なる実体によって放たれている臭気のために、僕は気分が悪くなっているのではないか。

子供が毎日少しずつ反復練習して、何かができるようになったときの喜びは、単に子供の努力を褒めているものではなくて、それを長期間見守り続けた親として、自分のこととして嬉しい。こういうときに発生しているものと、他人との関係を良好にする〈ために〉他人の努力の成果をかすめ取るように「褒める」ことは確実に異なる。

ともかくこれぐらいは言える。他人を褒めることにおいて、同時に自分に起こっていることは、外してはいけない要素である。

September 1, 2019

【595】積み木とレゴの違い。物と景色。

澪がKAPLAで作った謎の宗教施設。あるいは亀。
先日、新の誕生日プレゼントでいただいたKAPLA。毎日遊んでいる。
僕が適当に作った「テキ塔」。

KAPLAのような積み木とレゴのようなブロック、似ているけれど違う点がある、ということを遊びながら考えていた。

あらかじめ言っておくと、僕は積み木もレゴもどちらも好きで、子供の頃はレゴで遊んでいる時間のほうが長かった。

さて。

レゴはパーツ同士をかっちりと接続することができるので、できあがった完成品は〈物〉となる。〈物〉は離床できる。持ち運びできる。一方、積み木は接続されずただ積まれたり置かれたりしているだけなので、全体を地面から離すこと(離床)ができない。つまり積み木は〈景色〉を作っているのである。

さかのぼって言えば、レゴと積み木では遊んでいるその場所の特性からして違ってくる。レゴで遊んでいる部屋は「工房」や「工場」である。一方、積み木で遊んでいる部屋は、「陸地」や「海原」である。

レゴは重力を無視しうるが、積み木は重力を無視できない。

レゴで汽車を作る。
積み木でレールを作る。

レゴで車を作る。
積み木で道を作る。

工学部で言えば、レゴは機械学科で、積み木は建築学科だ。

僕が機械工学科に行ったのはレゴの影響が大きいのではないか。
積み木で遊び続けていたら、あるいは建築に進んだのではないか。

レゴは〈物〉を作り、積み木は〈景色〉を作る。

好みの問題であるから、どちらがどうということはないけれど、この違いは世界観として結構大きい。

【594】嵐のような一週間。

嵐のような日々だった。

新が風邪で火曜から木曜まで3日間、保育園を休む。機嫌が悪くて大変な上、高熱で汗をかいたり、おしっこが上手くできなかったりで、洗濯物が激増。その上雨続き。実家の風呂場乾燥機能でなんとかやり過ごす。

ようやく新が回復した金曜日は、今度は風邪が僕にうつって38度3分の熱。一日寝ていた。

そのまま、土曜日は保育園の夕べのつどい。午後から準備に3人で行くもののイベント開始時には、今度は澪の調子が悪くなって帰宅。澪が熱を出す。

そして今日の日曜日、3人とも回復しきらない状態。「コーランゼミ」を延期して休養にあてる。

保育園に行く以上は、今後も風邪や病気のリスクは避けられない。もうすこし対策を考えておこうと思う。

August 31, 2019

【593】1歳の誕生日プレゼントにKAPLA。

義母から新の1歳の誕生日プレゼントに何が欲しいかきかれてKAPLAをいただいた。
ありがとうございます。

パッケージ写真みたいになった。

KAPLAはシンプルな積み木。
かまぼこ板みたいなのが200個入ってる。
握って揃えて置くだけの極短期工法で造った塔。
解体専門業者(写真奥)がやってくる前にすばやく建てて写真を撮る。
木がきれい。
近代的な造形をイメージ。
現状では新は解体専門。あとは拍子木っぽく打ち鳴らしてリズムを取ったりもする。
もっぱら僕と澪が楽しんでいる。

作品を幼児に壊してもらって喜ぶ大人。
だんだん遊び方が変わってくるのだろう。それを見ていくのが楽しみ。

僕自身、子供の頃、積み木でよく遊んだ。小学校に上る直前ぐらいにレゴに移ってそれ以後はレゴで遊んでいた。レゴはとても良くできている。でも一つ気に入らないことがあって、作るのはいいけれど分解するのがめんどくさくて心地よくない。作品として恒久的に形を維持するにはレゴはいい。でも僕は、もう少し違うことをしたかったのだと思う。それは単純で小さなものから思いもよらないような複雑で大きなものを作っていくことそのもので、出来上がったものがずっと残って欲しいという欲求はそれほどは強くなかった。違うことを思いついたら、それをやってみたくなって、そのために今作っているものを一つ一つ分解しなくてはならないというのがめんどうだった。その点、積み木のほうが優れている。どんなに大きくても壊すのは一瞬だから、すぐに次に移ることができる。飽きっぽい僕にとって積み木のほうが相性が良かった。ただ、当時僕の家にあった積み木は、りんご箱を一回り小さくした木箱に納められた三角や四角や球などの形のいわゆる積み木らしい積み木で、複雑なものを作っていくには不適切だった。KAPLAはその点、パーフェクトだ。

新がどんな性格になるのかはわからないけれど、もし積み木が好きになるならば、これで存分に遊んでほしいと思う。もし気に入ってくれるなら、今後も数を買い足していく。


August 28, 2019

【592】新、風邪。

昨日から新、風邪をひく。保育園を休む。今日で二日目。

元気なときは、寝ていてもおしっこはちゃんと起きて教えてくれるのだけど、風邪で調子が悪いのか、布団三枚立て続けに濡らす。布団なくなる。他にも高熱で汗をかいて次々と洗濯物が増える。雨が続いている。ついに着るものがなくなる。洗濯物を干す場所もなくなる。

平日日中をようやく業務時間に確保して、いろいろとやり始めていたのが、この二日間で壊滅する。慣らし保育以前の状態へ強制的に還元される。慌ててやるような仕事もないので、たっぷり新タイムにあてる。二日間、10.6キロを抱っこし続ける。さすがにちょっと腰が危険な状態になる。

本日午後、澪が僕の実家の風呂場の乾燥機能を発見して、洗濯物問題は解決に向かう。

新は、ちょっと熱が下がって楽になると途端に、いつも以上にはしゃいで高這いで走り回って、また熱が上がるというのを繰り返している。雨は明日も降るらしい。明日は保育園行けるかな。

August 26, 2019

【催し】東山読書会を開催します。

読書会をやります。
会場は京都東山二条の和室です。岡崎公園の近くです。

会場です。

1 面白いと思う本を一冊持ってくる。
2 本の紹介をする(一人10分)。
3 みんなで話す。

日 時:2019年10月5日(土)午前10:00〜12:00
場 所:「東山二条会ギ室」詳細は参加受付後お知らせします。
(京都、京阪本線 三条駅 から 徒歩12分 地下鉄 東山駅から 徒歩8分 岡崎公園、ロームシアター、細見美術館の近く)

お菓子などの差し入れ歓迎です。

参加費:1,000円
定 員:4名程
主 催:大谷隆、木下有貴

お申込:開催前々日までに、大谷(marunekodo@gmail.com)か木下(uki.office@gmail.com)まで。
(件名を「10/5読書会申込み」として、お名前をお知らせください。会場の詳細案内をお送りします。)

August 20, 2019

【591】慣らし保育終了。明日から通常保育。


8月1日から始めていた新の慣らし保育が今日で終了。明日からいよいよ通常時間帯の8時半から17時。新はほんとに毎日よく頑張った。

僕と澪にはこれで平日の8時間が生まれる。新がいるうちはどうしてもなにかに集中することが難しかったけれど、これで思う存分やれる。新に与えられた時間。どうするか。本当に楽しみ。

ありがとう、新。

今日も新は元気いっぱい。保育園から戻るとだいたい少し甘えっ子タイムがあって、そのあと思い出したように活動的になる。保育園ではいろんな出来事があるのだろう。

August 13, 2019

【590】進みあぐねているときのYouTube。その2。

合宿も終わってちょっと気が抜けてしまっているところで、YouTube。

ちなみに、前回の進みあぐねているときはダンス動画ばかり観てました。
https://marunekodoblog.blogspot.com/2019/04/560youtube.html

今度はこれ。ヒューマンビートボックス。やっぱりストリート系が良いみたい。


このSO-SOの特にLoopstationと呼ばれる多重録音機を使って曲を作ったりパフォーマンスをしたりするのが良かった。

対戦してる動画もなかなかかっこいい。SO-SOの一曲目がかなりかなり。



結構エグイ音がするので視聴は気をつけてくださいませ。ヘッドフォンやイヤフォン推奨。

ビートボックスといえばヒカキンさんとDaichiも良い。楽しそうで良い。


総じてビートボックスの人は優しい気がする。

【589】得意と不得意。楽しいとつまらない。

得意か不得意かという軸と楽しいかつまらないかという軸を直行させて4つの象限を作る。その4つを好ましい順に並べよ。

1 得意で楽しい。
4 不得意でつまらない。

これは誰でもそう。
問題は2番目。

2 不得意で楽しい。
3 得意でつまらない。

僕はたぶんこう。
全部並べると。

1 得意で楽しい。
2 不得意で楽しい。
3 得意でつまらない。
4 不得意でつまらない。

「1 得意で楽しい」ことがあればそれをやる。
今のところ見つからないのであれば、
「2 不得意で楽しい」をやる。
それも無理であれば、
「3 得意でつまらない」をやるかどうかを慎重に検討する。
「4 不得意でつまらない」はやらない。

この「2 不得意で楽しい」の段階で食い止められれば、生きていることは楽しい。

不得意は克服できる。
少なくとも、時間とパワーをかければそれなりのレベルには到達できる。
適切なやり方があれば到達できる。

それなりのレベルに到達できて、なおかつ楽しいままであれば、
「1 得意で楽しい」まではそう遠くない。

最初はなんでもたどたどしい。
幼児が初めて立ち上がるように。

August 6, 2019

【588】慣らし保育3日目。少し慣れてきた。


新が8月1日から保育園に通い始めた。最初は慣らし保育。1時間から始める。8時半から9時半。僕がさっき連れて行ったと思ったら、すぐに澪が迎えに行く時間。

とはいえ、今日で慣らし保育も3日目。1時間半にまでのびた。これぐらいになると、ちょっと気分が変わってくる。一日1時間半。子供のことを頭の片隅にも置かなくて良い時間。

ちょうど言葉の表出合宿中もあって、久しぶりにまとまった文章を書こうとあれこれと文字をコネコネやってみる。やっぱり、楽しい。文章を書くことは楽しいことだと思う。必要に迫られているわけではない文章を書くことは、純粋に僕だけの時間だ。とても貴重で楽しくて面白い、どこまでもやっていける。

このまま新の保育時間が伸びて夕方までこういう時間が続くようになるのかと思うと、それだけでとても贅沢な気分になる。

その分、新は毎日頑張っている。今日はプールに入ったらしい。おやつのりんごも食べたらしい。初日はおやつも食べなかったし、水にも口をつけなかったらしい。今日、帰ってくるとしばらく甘えっ子になっていて、いっぱい抱っこしてやる。そうするととても機嫌が良くなって、ふらつきながらも一人で立ってみせる。クラスの他の子はみんな新より月齢がいっているから、たぶんもう立ったり歩いたりしたりしているのだろう。それをじっと見ていたのだろう。

それと、一人でおもちゃで遊ぶこともできるようになってきた。そうして一人で遊んでいて、ふいに僕や澪を見つけると顔を見ただけでにっこり笑ったりもする。僕も澪もいない僕たちとは異なった場所に一人でいる時間があるということを、新は知ってしまった。それは新が自分だけの世界の扉を開けたことになるのだと思う。

僕も少し慣れてきた。僕に物音が聞こえてこないところに新がいる時間があることに。

July 28, 2019

【587】遊ぶこと。


遊びについて考えている。
まるネコ堂第二期は遊ぶことをメインに据えたい。

まずは基礎的なリサーチからというわけで、本を読むことにする。

遊びに関する古典はこの2冊。
・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス
・ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』



それに加えて、比較的新しい「遊び」論は、テレビゲーム関連で読む。
・ミゲル・シカール『プレイ・マターズ』
・イェスパー・ユール『ハーフリアル』
・『ゲンロン8』特集 ゲームの時代



ゲームは子供の頃から好きだったけれど、ゲームの何が面白かったのかというのは、そういえばあまり考えたことがなかった。ゲーム界隈の理論化は比較的新しい分野で、先日イェスパー・ユール『ハーフリアル』が面白かったので、ちょっと読み込んでみたいと思って調べてみた。本当はケイティ・サレンとエリック・ジマーマンの『ルールズ・オブ・プレイ』が読みたかったのだけど、すでに絶版で中古価格が高騰しているので手が届かず。京都府立図書館にもなかった。『ゲンロン8』のゲーム特集はゲームの歴史や流れをざっと抑えておきたかったので、年表目当てで。

『ハーフリアル』を以前読んだときの感想はこちら。この本、意外にと言うと失礼かもしれないけど、ゲームだけじゃなくてもっと広く普遍化できるような面白さがある。面白さというものの土台を考えるようなところがいい。

ゲームのことを考えていたら久しぶりにゲームをやりたくなったので「マインクラフト」を購入して夜な夜なプレイ中。結構楽しい。

こんな感じで気になっていることに関する本を体系的に読むのがとても好きな読み方で、いくらでも時間が欲しくなる。これ自体がもう遊びなんだろう。

July 24, 2019

【586】8月から保育園。

新(あらた)の保育園入園が決まった。8月1日から。

最近はほんとに元気いっぱいで、うちにいると元気が余ってしまう。僕と澪の仕事も進まない。三人ともにストレスがかかっている。これはまずい。ということで、先日申込みをしたら、無事、近所の保育園に。

この保育園は良い保育園で、腕のいい保育士がそろっている。庭に築山があって、定期的に砂を入れて作り直されている。木で組んだアスレチックのようなものもあり、その横にはジャングルジムが斜めに設置してある。ジャングルジムを斜めに設置してあるのはここしか見たことがない。子どもたちはそこで一日中登ったり走ったり泥遊びをしたりしている。夏はプールにほぼ毎日入っている。散歩もほぼ毎日出かける。それもかなり遠くまで出かける。

たぶん、新も元気いっぱい遊んでくれるはず。

昨年、澪の妊娠と出産、二人での子育てで、大幅に落ち込んだまるネコ堂の売上をなんとか回復させよう。

July 17, 2019

【585】まるネコ堂第二期の構想。

考えています。第二期。

20年ちょっとの第一期を振り返ってみれば、生き残ることに主眼があったような気がします。とにかく、どうにかして、生き残るためにまるネコ堂は必要だった。避難所のような場所として機能してきたのだと思います。だからこんな殺風景な場所になっている。サバイブするためにはこうなった。

【581】まるネコ堂第一期を完了とする。

これからは違う方向で第二の航海に出ます。

一つは創作をちゃんとやりたい。錨を上げて外洋に出る。きっとすぐに沈むだろうけど、沈んでもサルベージして直せばいい。そのぐらいのタフさは身につけることができた。

サバイブからサルベージへ。

たとえばそんなことを構想しています。

もう少しまとまったら、なにかやります。

July 15, 2019

【584】第3回山本明日香レクチャーコンサート「シューベルト」



今日のレクチャーコンサートは、第3回目でシューベルト。レクチャーコンサートは毎回僕にとって、ちょっと不思議な事が起こるのだけど、今回も二つほど起こる。

一つ目、「これは、いよいよ僕にも楽譜が読めるようになるかもしれない」。

僕は楽器は全く演奏できないし、歌もだめ。もちろん楽譜も読めない。それなのに、明日香の演奏に合わせて、演奏されている箇所を目で追うことができた。前回のベートーヴェンのときも少し「あ、今このへんかな」と言うレベルではわかってはいたのだけど、今回はほぼ全部、それも音符単位の解像度で追いかけることができた。その上、不協和音のときにちょっと変な感じの音符の並びになることとか、斜面を駆け上がるように配置された音符がその直後、壁っぽく縦に並んだ和音にぶつかるときに、壁に激突したっぽい音がなることとか、そういうことが聴くのと読むのとの混合でわかるようになってきた。

相変わらず、五線譜の何番目の線に丸があるときに、この音がでるといった読み方はできないけれど、譜面全体の流れは追えて、一度ロストしても、もう一度戻って来れるという安心感を持って楽譜を見ていられるようになった。これはとても大きいことだと自分では思う。

これを続けていたら本当に楽譜を読めるようになるかもしれない。楽器が演奏できないのに楽譜が読めるようになるなんて、果たしてそんな不思議なことが起こるのだろうかと明日香にきいてみたらあっさり「指揮者とか、そうだよ」。なるほど、音楽って広い。そういえば指揮者って、どんな「練習」をするんだろう。

二つ目の不思議なことは、ちょっと説明が難しいのだけれど、「音楽は音を聴いているというだけではないことが起こる」。

音楽って音を聞いてその、外的な刺激としての音によって、心とか情緒とかが受動的に反応しているというふうに思っていたのですが、どうやらそういうことではないこと「も」起こっている。

明日香はよく「ここからピアニッシモの世界に入ります」とか「シューベルトの世界観はこうではない」とか、「世界」を語るのだけれど、こういう「世界」は、音楽を聴いている人に生じている聴覚的な反応に対するある種の比喩だと思っていた。でも、そういうことではなく、音はその時、どちらかというと、入り口やガイドとしてあって、それに導かれて、僕がそこへ自主的に入っていくことができるような「世界」が出現することがある。

その世界に入ってしまうと、音は感覚的に聴くというものではなくて、音によって出現した(構築された)「世界」での様々な出来事を、聴覚以外を含んで、自主的に体験することになる。これは僕にとっては、文章を読んでいるときに、とても似ているのだけれど、こういうふうに音楽を聴いたことが僕はこれまでなかった。

楽しい曲を聴くと楽しくなる、悲しい曲を聴くと悲しくなるという反射的なレベルではなくて、その曲を聴くとその曲の世界に存在して、アレコレいろんな出来事が起こる、という音楽。

なるほどこういうことが、音楽が多くの人を魅了する理由なのかもしれない。少なくとも音楽に人生をかけてしまうような人が現れる理由なのだと思う。ようやく僕はそこに触れた気がする。

三回目はこの辺まで。次回は一体なにが起こるんだろう。

次回は11月24日。
https://marunekodoblog.blogspot.com/2018/11/1.html

July 12, 2019

【583】ブログテンプレート変えました。

定期的にこういうことをやりたくなるのですが(一種の放浪癖だと思います)、テンプレート変更しました。ブログの見た目が変わったと思います。見た目だけです。

「Write Simple」というテンプレートを採用しました。
ダウンロードはこちらから

少しだけhtmlを変更しています。メニューなど。

いくつか問題があるにはありますが、これでしばらくやってみます。
不都合があればもとに戻すかもしれません。

トップページに画像のサムネイルが入らなくなりましたが、記事画面では画像ありです。

変更するたびにそっけなくなっていく気がします。

July 11, 2019

【582】Youtubeで音読チャンネルはじめました。



ハイ! はじまりました「FUN to READ!」
わたくし、音読ユーチューバーのコバヤシです。
音読、楽しんでる?

「FUN to READ!」は、
音読によって「読む楽しさ」を表現するYouTubeチャンネルです。
著作権が切れた作品や作者の許可を得た作品を楽しく音読しています。

===

といった軽いノリのYouTubeチャンネルの構成を担当しています。週一ぐらいで動画アップしています。深夜ラジオ好きだったので、構成台本書くの楽しいです。
===

最後まで聴いてくれてありがとう!
よかったらチャンネル登録、高評価、よろしくおねがいします。
読んでほしいブックがあったら、コメント欄にリクエストお願いします。

じゃね、バーイ!

July 8, 2019

【581】まるネコ堂第一期を完了とする。

20年とちょっと。まるネコ堂という名前をつけてからやってきた。名付けたときには今の物理的な場所であり、自宅でもあるこの家も土地も僕のものではなく、他人のものだった。僕のものになる予定もなかった。まるネコ堂という名前は、ただ、僕が個人でやっている活動の主体という程度のものだった。

「まる」というのは実家で飼っていた猫の名前で、まるネコ堂を名付けたときにはすでに死んでいた。だから、まるネコ堂という名前の「まる」と「ネコ」は僕の過去からの拝借に過ぎない。この名前にまつわるその時点での未来は、だから、ただ「堂」という一文字にだけ込められている。

当時は、住職のいなくなった廃寺のお堂のようなところをイメージしていて、たまたま近くを通りかかった旅人が雨宿りにやってくるようなところを作ろうと思っていた。屋根のある空き地ぐらいの意味だ。それが未来のイメージで、この時点では、空き地も屋根もなく、ただ僕の幻想にのみ存在していた場所だ。

そのころの僕は大学院を中退し、特にあてもなく実家に戻って、未来のビジョンもなく、開放的な寂しさだけを抱えていた。雨宿りできる場所があればそれでいいと、ただ思っていたのだと思う。

それが、いつだったかもう忘れてしまったけれど、個人事業の屋号になり、やがて、自宅を兼ねた物理的空間の名前にもなって、今にいたる。

まるネコ堂への最初の発注者は父親だった。彼の個人のウェブサイトを作った。正確には、まず発注と仕事があり、その受注主体として「まるネコ堂」を作ったという順番だ。こう書くと事業っぽく見えるが、実態は、失意にまみれた息子に、彼の自尊心を傷つけない方法で、父がお小遣いをくれようとしたのだろう。たしか毎月1万円で請け負って、今で言うブログのようなページ更新を僕が人力でやっていた。その父親はもういない。

約20年かかったけれど、まぁ、当初の「堂」の幻想は現実になった。屋根のある空き地ぐらいにはなった、と思う。

よって、特に区切りっぽい区切りでもないけれど、第一期をここに終了する。

第二期はこれから考えていくことにする。第二期というものの存在そのものも含めて。

まずは再び幻想の世界へ船を出す。現実の世界とは、しばしお別れ。

June 27, 2019

【580】役割分担をしない場所。

うちでは家事について役割分担を予め決めるということをしていない。これは意図的にそうしてきた。やれる人がやれるときにやる、というやり方だ。

言い方を変えれば、家事という労働を取引に用いないということだ。これを私がやったから、あなたはあれをやらなくてはならない、というたぐいの取引に。

こういう取引は文字通り経済(エコノミー)である。異なる2つのものを交換可能にする。交換可能であることによって、もともとは他者にまで流通しなかったものをを移動可能にすることができる。掃除、洗濯、炊事、その他諸々の作業が労働として交換できるようになる。役割分担によって。

と同時に、節約(エコノミー)が始まる。自分に与えられた職務は、できるだけ効率よくやったほうが得である。必然的に損得(エコノミー)が発生する。

僕は、「節約」や「損得」を家というものに持ち込むことが嫌だった。家のことを交渉材料に投げ入れたくなかった。だから、役割分担をしないようにしてきた。

もちろん、この「やれる人がやれるときにやる」やり方には、欠点がある。というよりも、同じことを別の方向から見るだけなのだが、文字通り、不経済で非効率なのだ。節約ではなく蕩尽なのだ。

まるネコ堂というものが持っている「のんびりした」「時間を忘れる」雰囲気は、この不経済、非効率、蕩尽によって生まれている。こういった世間的にはネガティブとされる語群を意図的に反転させている場所なのだ。これがまるネコ堂という場所の持っている目に見えない基礎の一部を形成している。

わざわざこういうことを書くには理由がある。今、この非役割分担制が一時的に限界に達しつつある。理由は簡単で、子育てというのは、無尽蔵だからだ。子供に対して親は無限の愛情を注いでしまう。それは、表層的には無限の時間と無限のエネルギーを要求する。

まるネコ堂は、こういった無限の吸収源に対して、ぴったりと適応してしまう構造を持っている。一滴残らず投入され尽くしてしまう。

これはまるネコ堂の持っているもう一つの大切な基礎、「開かれている」という状態を削り取っていく。ほおっておくと閉じていってしまう。閉じたくなってしまう。僕と澪がそれぞれ持っているはずの表出の発露の機会が失われていく。外からの流入も途絶えてしまう。表出が失われることは僕にも澪にも耐え難いストレスだし、すでにそのストレスを感じている。いや、もうすでに、限界が近い。

これはよくない。

ということで、子育て担当制を部分的に導入してみることにした。

今日はその初日。日中、子供を澪が見ることを事前に決めた。今後週一日程度、こういう日を作って、僕と澪とで交代で子供をみることにする。

自覚的であることで、分担をポジティブに保つことができるかもしれない。節約ではなく。

さて、どうなるか。

June 23, 2019

【579】好きなことをちゃんとやる。

わりと長く生きてきたけれど、僕にとって今でも重要なことは、好きなことであって、そのなかでも、ちゃんとやってきたことだけだ。好きでもちゃんとやらなかったこと、好きでもないけどちゃんとやったこと、というのもたくさんあるけれど、それらは時々人に話して聞かせる、思い出話として過去を彩ってくれている。それはそれでいいとは思うが、その程度のことだ。

好きなことをちゃんとやるというのは、常に現在形で、過去形「好きだった」「ちゃんとやった」や未来形「好きになるだろう」「ちゃんとやるだろう」では存在できない。

これは「現在に集中せよ」や「現在しかない」というような狭い意味ではなく、過去や未来を含んだ、過去や未来にまで届きうる現在なのだ。

物理的な「この」現実世界の構成として過去と未来は水平に伸びていくが、好きなことをちゃんとやるという軸はそこに対して垂直に位置していて、その垂直軸を進んでいくと突如開ける別の水平面が現れてくる。物理的な世界の言葉で言えば、それは幻想世界としか言いようのないものだけれど、その幻想世界は、幻想世界の「言葉」として「確かに存在している」。実を言えば、言葉というものが幻想世界を支えている構造の一つであると同時に、言葉というものの根拠が幻想世界にあるのだ(おそらくは音楽や絵画やその他の表現のすべての根拠も)。言葉は現実世界に根拠を持っていない。

幻想世界が存在できるのは人間がそもそも幻想世界の存在を基底に持っているからで、世界にとって後天的に幻想世界が現れたわけではない。

もう一度、繰り返しになるけれど、この幻想世界への通路は「好きなことをちゃんとやる」ことである。

June 22, 2019

【578】0歳9ヶ月の食事風景。


床に落ちたのも拾って食べる。

食べることは遊ぶことから分化する。
仔猫がネズミやモグラをいたぶりながら狩りを覚えていくのと同じだと思う。

June 18, 2019

【577】書くことはゆっくりだ。

人の営みの中で最もゆっくりだ。書くことは、たぶん。

ストリートダンスで、まるでスローモーションで動いているような動きをするのがあるけれど、あんな感じでゆっくりなのだ。試しにやってみるとわかるけれど、あれはものすごく筋力がいる。筋肉への意識の精度も高くないとできない。

だからゆっくりといっても、休憩しながらのんびりというようなものではなくて、書くという時間は、全力でずっとゆっくりしている。

紙やキーボードに向かっている間だけが書いているわけではもちろんなくて、書いているという時間は、書こうと思った瞬間に、全部の過去と、全部の未来と、現在の全部を包括してしまう。過去と未来と現在が召喚されて、ゆっくりと文字になっていく。それが書くということが棲まう世界の独特の時間のルールだ。この時間のルールが、数千年前の書物が今も、これからも、遺っていく原理になる。

書くことは、ゆっくりとゆっくりと進んでいく。だからこそ、書くことは高密度で現実を見ることができる。それ以外の時間では見逃すようなことを、当たり前に「まるで止まっているかのように」見ることができる。ことがある。

そのようにして書かれたものを読むことは、現実世界で文字数分にまで圧縮された膨大な書くことの時間を自分のうちで展開することになる。読むことで、書くことのその時間は流れ出し、流れ込む。

書くことと読むことがもたらす当然の帰結の一つとして、現実の裏側、現実の仕組み、そういった現実を支える非現実が少しだけ、現実の向こう側に透けて見えるようなことが起こる。それは、このゆっくりとした時間、高密度な現実の見え方に起因する。

浮かんだり消えたりしながら川面を流れ去っていく泡のような現実を、浮かんだり消えたりしながら川面を流れ去っていく泡のようだと書くことは、泡そのものとして浮かんだり消えたりしながら押し流されて生きていくこととは、違う時間を持っている。永遠と言われる時間だ。

僕が他人に誇れることのうちの一つなのだけれど、人一倍、書くことに挫折してきた。書くことにおけるあらゆる場面で、僕は挫折してきていて、普通の人ならば挫折しなくていいようなところまで出掛けて行ってわざわざ挫折している。その分、書くということがどれほど広いかを識っているとも言えるし、書くことのゆっくりとした時間に居る時間が長いということでもある。

挫折と言うとあれだけど、釣りのようなものだと思う。釣りをしたくなって、魚を釣ろうとして、釣りに行って、釣りをしたけれど、ひとつも釣れなかったということはある。釣りというのは釣れたときにだけ成立するわけではなくて、釣れなくても釣りを釣っている。釣れる釣り人は上手な釣り人かもしれないが、釣れない釣り人が不幸な釣り人だとは限らない。釣りをしていることと魚が手に入ることは、切実に関係しながらも、目的や手段を結ばない。

泡のように浮かんだり消えたりしながら川面を流れつつ、ずっと川岸で釣り糸を垂れている。

June 12, 2019

【576】筋トレ継続中。

4月の中頃から、だいたい毎日続けるようになった筋トレ。今も続いている。

メニューの変更点など。

スクワット。
腰をかなり深めに落として(フルスクワットに近いぐらい)やって、回数は10回を3セットに減らした。太ももに効くようにしている。

プランク。
100秒でやっていたけれど、あんまりお腹と背中のあたりの筋肉に効いてない気がして、フォームをチェックしながら60秒ぐらいに減らしてみている。

腕立て伏せ。
10回を3セット。ごく普通の腕立て伏せがようやくできるようになってきた。

ざっくり書いているけどホントは腕立て伏せでも手を置く位置で負荷がかかる筋肉や負荷の大きさが変わるので、やっぱり回数はあんまり意味がない。

あと、最近昼間ひどく眠くなることがあるのだけれど筋トレのせいかもしれない。対策は単純に昼寝をしている。

June 11, 2019

【575】毎日やり続けるとあっという間にできるようになる。

9ヶ月に入った子供は毎日毎日飽きることなく、つかまり立ちをやっている。低い机だと、そのまま上にお腹で登ってしまったりする。手を伝わせて、伝い歩きらしいものまでやっている。とにかく、ずっとそういうことをやっている。つい数週間前に、生まれたばかりの子鹿みたいに脚をガクガクさせながら、ようやくつかまり立ちして以来やっている。

最近では、かなり長時間、10分以上は立ったままでいられるようになった。筋力がついてきたのだと思う。こんなに短期間でできることが増えていくというのは、そうとうなペースで筋肉肥大が起こっているはずで、筋肉痛もひどいのではと思うけれど、まったくそういう素振りは見せない。ニコニコしながらやっている。乳児には筋肉痛はないのだろうか。

とにかく、そうやって毎日毎日、飽きるどころか、毎回毎回満面の笑みでやっていると、どんどんとできることが増えていく。こんなふうに毎日毎日好奇心に引っ張られて何事かをやり続けることで大きな変化をもたらす。それを目の当たりにすると、僕もやる気になる。たぶん僕自身もこうやって、疲れ知らずで何かをやり続けるということをしてきた時期があって、そのときのおかげで今、それなりにやっていけているのだと思う。

努力というと、我慢してでもというニュアンスが入るけど、そういうことではなくやり続けられる、そんな乳児的な毎日を送ることができれば、人はきっとものすごく遠くまでたどり着くことができるのではないか。

人間とは子供のままの猿である、という説があって、だからこそ人は猿よりも進化したということらしいのだけど、幼稚で有り続けたほうができることは増えていくと考えれば、そういうことは確かにありえる。

June 7, 2019

【催し】山本明日香レクチャーコンサート第3回シューベルトに寄せて

「ある音楽について、言葉にして話されたものを聞くということにどんな意味があるのか。そんなことよりも、もともとの音楽そのものを聴けばいいのではないか」

こういうタイプの言い方は世の中に溢れていて、もちろんそれはそうなのだと思うと同時に、この言い回しに隠れている、ある寂しさに僕たちは慣れてしまってはいけない。

ある音楽について話すということが、その音楽そのものとは違っているということは当たり前だけれど、それと同じように、その音楽そのものも、その音楽をある音楽家が作って表現しようとしたもともとの「なにか」、例えば美しい風景であったり、素敵な想い人であったり、奇妙な体感であったり、心動かされた状況であったり、かけがえのない時間であったりする、そういったもともとの「なにか」とは当然違っている。どれほど厳密に再現されているかのように見えても、冒頭の疑問文が問題視している「意味」では、違う。この「違い」は、表現のもつ宿命のようなものだ。

こういう「そもそも」とか「もともと」とか、そういう「真実」だけが意味なり意義なり価値なり実体なりを持っていて、そこから派生したり、影響されたり、引き出されたりしたものは、「そもそも」や「もともと」の「真実」から一段下がる、という考え方自体が寂しいのだ。

しかし、表現とはその程度のものなのだろうか。

冒頭のような言い回しに直接「いいえ」と答える必要はない。とりいそぎ、それは、表現というもののある一面に過ぎず、もっとほかの面をも表現は持っているはずで、だからこそ、多くのものに対して言葉や音楽や絵や、つまり表現は成されてきたのだ、と返せばいい。

そして考える。

もともとの何かと、それについて話された言葉が、結局のところ異なっているということとは、全く別の次元で、言葉にするということは、ある動揺を生み出す。その動揺が一体何を引き起こすのかを一意に決めることはできないが、少なくともその動揺が、何かしらを引き起こす可能性があるということは確かだ。

その可能性は、それまではこの世界のどこにも存在しなかったはずの小さな場所を作り出す。その場所から見ることで、もともとの「なにか」は、それまで誰も見ることができなかった姿をしているかもしれない。だとしたら、それについて話された言葉によって、「そもそも」や「もともと」の「真実」自体が変質したことになる。

言葉で話されることによって、それまであった「真実」が変質する。

ある音楽についての言葉が、そもそものその音楽を変質させてしまうということだ。これは、もちろん、ある音楽が、その音楽が生み出される動機となったある状況、例えば美しい風景、素敵な想い人、その他諸々のそれ自体を変質させてしまうということでもある。

ある言葉によって、その言葉によって話されるものが変質してしまったり、ある音楽によってその音楽が表現しようとした元の何かが変質してしまったりするというのは、過去に原因があり、その結果が現在や未来に生じるという意味での因果関係では説明できない。現在によって過去が変質しているような順序になっているからだ。

演奏家がモーツァルトやベートーヴェンの有名な曲の譜面を読み、そこで演奏家自身に生じている現象を言葉にする。その言葉によって、動揺が走る。その動揺は小さな場所を作る。そこから見るモーツァルトやベートーヴェンは、あるいはまた彼らの曲は、あるいはもう少し広くクラシック音楽は、あるいはさらに広く音楽というものは、それまでに存在していたそれらの像に何かしらの変質が生じている。この状況で、その音楽そのものを聴くと、それまでに知っていたものとは異なる現象が生じる。

端的に、そこでは、音楽というものがそれまでとは異なってしまう。その「そこ」とは、どこだろうか。こういうことが起こるとしたら、いったいどこで起こるのだろうか。

こういうことから逆算的に、それが起こる「そこ」を、表現が作り出した「小さな場所」と想定すれば、表現というものが成しうる「無限の広さ」を特定できたことになるのではないか。そこでは、「そもそも」や「もともと」や「真実」は、その言葉自体が別の意味合いを持っているのではないか。「そもそも」や「もともと」や「真実」は予め存在する確定されたものではなくて、遡及的に変容してしまうものなのではないか。

ああそうか、音楽って「そもそも」こういうことだったのか、と。

明日香がモーツァルトやベートーヴェンのソナタについて、どうにかして、言葉にしてきたことは、その曲の数百年の歴史に付け足した添え物ではなくて、一つの場所を持った一つの表現である。その言葉による表現に加えて、演奏による表現が合わさった重層的な小さな場所では、もともとのその曲が輝きを変え、その曲が表そうとしたもともとの状況、つまり数百年前の「なにか」の輝きすらをも、もともとそうだったのだと、さかのぼって変容させる。

それぐらいは、マジカルなことが起こっている。

レクチャーコンサートで何をやっているのか、ということについて、現時点で考えているのはこのあたりまで。

次回のレクチャーコンサートはシューベルトです。
7月15日(月祝)。
ぜひおいでください。

【催し】山本明日香レクチャー・コンサート(定期開催)

June 6, 2019

【574】ずり這い。

久しぶりに新(あらた)日記。今日でちょうど9ヶ月目。

這い這いはまだで、移動は高速でずり這いする。

乳児は発達の中で、いろいろなことが段階的にできるようになっていくが、そのなかでもこのずり這いが、僕は一番かっこいいと思う。両手と両足を器用に使って、まるでトカゲのように進む。特に脚の動きがいい。片足ずつ交互に曲げて、つま先がお尻のすぐ下にまで来るように持ってきて、親指と人差し指の根元あたりで地面を蹴りながら、それに合わせて、腕を交互に前に出して進む。

このときに体がくねくねと曲がるのが良い。進んでいく後ろから声を掛けると動きを止めて体を捻って首をこちらに向けるのも良い。そこから、片足を突っ張るように伸ばして、お腹を中心にぐるりとコンパスの針が回るように水平に滑らせて、体の向きを変えるのも良い。

でも、最近、膝を立てて、腕も突っ張って、四つん這いで腕を前に一歩二歩と出すようになった。這い這いだ。今はまだ、脚を垂直にして、お尻を上げて保っておくことができないが、そのうちそれができるようになっていけば、這い這いが完成する。そうなれば、もう、ずり這いをすることはなくなってしまう。

ずり這いよりも這い這いのほうが、できるようになってしまえば、断然楽だからだ。試してみればすぐにわかるが、二足歩行に慣れてしまった大人には、ずり這いは相当にきつい。きついけれど、広い部屋なんかでやるとなかなか迫力があって、宴会芸には良いかもしれない。

ともかく、もうすぐ見れなくなる。

まさに今が、最も完成された、美しく力強いずり這いである。

June 4, 2019

【573】『言語6』できあがりました。


今日『言語6』ができあがりました。今号ははじめての寄稿が掲載されています。山根澪さんの「妊娠の記録」です。僕からするとパートナーなのですが、一応、そういうことを抜きにして共同編集者の小林健司さんと検討し、編集者として掲載を決めています。面白いです。
山根澪さんの寄稿の感想がブログに掲載されているので、そちらも御覧ください。
寄稿という体験

さて、今号は、1号以来続いていた小林さんの「人と言葉の関係論」連載が終わり、前号からつづいていた僕の「これってさ」も後編を無事に書き終え、一段落です。次号からまた新しい展開に入っていきます。

発行間隔が伸びていて、いつも目次横の次号発行予定が詐欺状態になっていますが、本当はもっと出したいと思っています。次号から巻き返すぞ!

ご注文は言語ウェブより。
https://gengoweb.jimdo.com/

June 3, 2019

【572】今日は久しぶりに休み

と宣言したとたんに、休みだからやってしまっておきたいことがいろいろと出てくる。そして、さらに、休みだけれど、休む前に終わらせておきたいちょっとした仕事も出てくる。結局、休みではない日以上にタスクは増えていく。

とは言っても、気分が休みであることは変わりないので、休み気分でタスクをこなしていって、これはこれで気分良く捗って、そこそこハッピー。

この手のオリジナル・ライフハックを僕は日夜せっせと作り出しては、あれこれ繰り出してライフしている。そんな人一倍、実用的かつ機能的な人間で、僕は快さと同時に、つまらない生き方だという残念さも少し味わったりしている。

ホントは不器用さがほしいのだ。骨太の不器用さを。贅沢な悩みの贅沢さを限界まで味わうというのも、わりとハイレベルなライフハックである。

それはさておき、今日はできれば本を読みたい。ゼミやなんかのために読むのではなくて、好きな作家(ということにしておく)保坂和志の『ハレルヤ』をゆっくり読みたい。ウイスキーとか、そんなようなお酒を飲んでもいいと思っている。

June 1, 2019

【571】読書は旅である。習慣で本を読んではい(け)ない。

僕は本をよく読むけれど、本を読む習慣があるわけではない。僕は習慣で本を読んでいない。

ここでいう習慣とは例えば歯磨きのようなもののことだ。習慣というのはその行為をする前から、したあとの結果を予め知っている行為で、別の言い方をすると、すでに確固として存在する「日常」を、良くも悪くも、維持している。

歯磨きをしないと虫歯になって、日常が破損してしまうから、する。歯磨きをしないと口の中がなにか気持ち悪い感じがするから、その気持ち悪さを除去して「通常の状態」に復帰するために、する。習慣とはこういうもので、そのために、「毎回同じである」「固定されたこと」が反復的になされる。

僕にとって本を読むことはそのようなことではない。

本を読む前に本を読んだあとがどうなってしまうかは、未定である。本を読んだあとに、僕と僕の世界が変容してしまう。それまでの自分と世界とが一変してしまうようなことだ。規模の大小はあるにしても、本を読むということはそのような内外の同時並行的な変容を含んでいる。初見と再読とにかかわらず、そうだ。

「読み進めることができない」という場合の理由のいくつかは、この、自分と自分が捉える世界の動的な変容に耐えきれないからだ。読んでしまったが最後、もととは変わってしまうということの恐怖は、好奇心や面白さと同じものだから、この可読不可能性は、本を読むことに予め含まれている。

これは人間が生きていくというその全体性と相似している。僕は、習慣として、あるいは習慣の集積として「生きている」わけではない。

好きで始めた当初は非習慣的だったことが、いつのまにか習慣的になってしまっていることがある。これは一見すると長続きする状態への移行のように思えるのだけれど、実態としては、自分と世界の動的な変容が生じなくなり、安定と引き換えに、恐怖も好奇心も面白さも失われている。機械のように、あるいは、機械のスイッチをいれるように読書をしているということだ。スイッチが入れば自動的にある状態が心身に訪れる。それは本を読むことが中心にあるのではなく、ある心身の状態を手に入れるための常備薬として本を読むという行為が機能していることになる。行為によって報酬が得られることを知って、報酬を求めて行為している。

僕にとって本を読むことにそのような精神安定剤的要素はない。興奮剤的要素もない。予め何らかの効果を想定して読んでいない。本を読むのは自己と世界の変容を伴う未知への旅である。

May 23, 2019

【570】年寄りだと思われている。

何人かの人には直接言われたことがあるので、疑う理由もないが、僕のブログを読んでから、その後で直接僕に会った人はだいたい「もっと年寄りだと思っていた」という感想を持つ。

書いている方は特段年寄りっぽく書いているわけではないけれど、そのように読めるのだからそうなのだろう。こういうことに対して特に悲しいとかショックだとか納得がいかないとか、そういったことは思ってはいないけれど、少し分析してみると面白いことがわかるかもしれない。

一つあるのは、僕の文章の特徴として、まず逆方向に文脈を振ってフェイントを入れてから回り込んでくるという文脈のライン取りの癖がある。これを、ある種の老獪さと言えば聞こえはいいけど、辛気臭さというか、説教臭さというか、そういうのにも近いかもしれない。

具体的に言えば、「書いている方は特段年寄りっぽく」の「特段」と「っぽく」という小さなアクションで、行きたい方向とは逆側というか外側に、文章の重心を振る。次に、この外側に重心がかかっている状態を、「わけではないけれど」の「わけでは」と「けれど」でグリップさせて、内側に方向を変えていく。こうやって、一旦曲がろうとする方向と逆側にふってから、本当に曲がりたい方向へ曲がるという手間をかけている。これは、文章の荷重移動で、車の操舵と同じように、一見無駄な動作のように見えて、実はスムーズに曲るためには効果的なやり方だ。

こうやって書くと、複雑な、あるいは高度なテクニックを駆使しているようにみえるかもしれないけれど、そうではなく、これは会話などでは頻繁に見られる「謙遜」や「謙譲」と同じありふれたものなのだ。謙遜や謙譲によって、話の筋がつかみやすくなるように。

謙遜や謙譲が適度に効いている文章だから、きっとそれはある程度の分別を持った人だろうという予測を生み出す。それに加えて、抑揚の抑えられた文体が(これはブログを書くときの僕の心的な状況を反映しているのかもしれない)合わさって、年寄りくささが出ているのだと思う。

テクニック的なものは大体そうなのだけど、やりすぎると鬱陶しい。やりすぎなくても、先を読まなくてもある程度気分的な予測がついてしまう文章になってしまうわけで、つまらない文章になりがちだ。「わかりやすい文章」を目的にして突き詰めることの弊害である。

あとはまぁ、こんな分析を自分で自分の文章に対してやるような暇な有り様が、年寄り臭さの最大の要素かもしれない。

たしかにいつものんびりはしている。

May 17, 2019

【569】誰かわからないけれど、その人のおかげで。

ブログの閲覧解析を見ていると、あまり見覚えのないタイトルのエントリーが閲覧されていて、自分でもそんなの書いたっけな? と思ってそのエントリーを見てみた。

【039】思いつきではなく、ずっと昔からそこにあった

素敵な文章でほとんど感動してしまった。自分で書いたのに。

つい最近も同じようなことを考えてた。たぶん、ずっと同じようなことを考えている。

どなたかわからないけれど、ひょっとするとスパムとか悪意のあるロボット(?)かもしれないけど、このエントリーを見てくれて、僕が書いた文章を僕に気づかせてくれて、ありがとう。

May 16, 2019

【568】「やわらかく、甘みがあって、わかりやすい」言葉の奴隷。

文章を読んでそれが良い文章だった場合に褒め言葉として「わかりやすい」というのをよくきく。僕はわりと長くこの言葉を文字通りの意味にとっていた。僕にとって「わかりやすい」文章は直ちに優れた文章を意味しないので、優れているかどうかはともかくとして「理解しやすい」「イメージしやすい」という意味だと思っていた。

しかし、どうやらそういうことではなさそうだと思い当たるようになってくる。というのも、この「わかりやすい」という褒め言葉をものすごく多くの人から、多くの場面で聞くようになるからだ。その文章にとってわかりやすいかどうかは二の次だと思うような文章についても、感想といえば「わかりやすい」ということが第一に上がってくる。そういうことがしばしばあると流石に何かを疑わざるを得ない。

世の中には必ずしもわかりやすくはないが優れた文章というものはあるのだけれど、というような話をしようとするとだいたい空振りに終わる。

「わかりやすい」というのは「よかった」という程度の曖昧さであてがわれているのだ。

同じような感覚は、食べ物について「やわらかい」という感想を聞くときで、これも要するに美味しかったという程度の曖昧さで「やわらかい」と褒めているように思える。「やわらかい」と同程度に頻出するのが「甘みがある」なのだけど、こちらも同様。

というわけで、ここで蒸し返そう。

文章にとって「わかりやすい」ことは確かに一つの重要な要素ではあるが、それ以上にその文章にとってもっと重要な何かがあるのではないか。そういうことをどうにかして言おうとする意識の努力を怠ってしまうことの弊害は実はとても大きいのだ。

面白いけどわかりにくいものはたくさんある。当たり前である。わかりやすいけど、面白くもなんともないものもたくさんある。当たり前である。

食べ物にとって「やわらかい」ことは確かに一つの、もうこの辺にしておく。いずれにせよ、こういう語彙の貧弱さはいずれ致命傷になる。

文章というものに対する自己、食べ物に対する自己にとって、言葉は逆流を始める。何か漠然とよかったと思った文章に対して「わかりやすい」という形容詞を安易にあてはめてしまっているうちに、つまりその形容詞の圧力が低下していくことで、「わかりやすくない」文章はよくない文章だという逆立ちを生じるようになっていく。「やわらかくない」「甘みがない」食べ物に対しても同様だ。こうなってしまえばもう、感性や味覚は言葉の奴隷となる。正確には言葉が持つ共通性の奴隷になる。言葉は死神の持つ鎌のような切れ味で人の意識を切り刻む。人は意識を失う。残るのは共通性に反射する肉体だけだ。共通性の刺激を求めて麻薬中毒者のようにさまよい続けることになる。言葉の半面は、そのように作用する。

文章も食べ物も、それにピッタリとくる語彙がある。いや、ピッタリとはこなくても、なるべく近くの語彙を探しに行こうとするかしないかで、以後じわじわとフィードバックがかかっていく。こういうことは実は重要なことだ。奴隷の立場を望むのでなければ。

【567】旅にはスマートフォンを。

先週の土曜日から四日間、秋田へ行っていた。おばあちゃんの葬儀に出るため。秋田のというか「能代のおばあちゃん」についてはそのうち何かを書くかもしれないが、今日は脱スマートフォン計画。

移動中の連絡手段や情報入手手段としてスマートフォンは非常に役に立った。自宅に残る澪とのやりとり、天気の確認、地図など。当たり前すぎるけれど、こういうときにこそスマートフォンは真価を発揮する。とはいえ、なければないで、まあなんとかなっただろうけれど。今の日本国内の旅は、よっぽどのことがない限りは、だいたいなんとかなる。スマートフォンが活躍する余地は、リスク管理にとどまるが、その範囲においては他に置き換えにくい。

つまり、日常的な世界においては、スマートフォンが活躍する場面は実はそんなに多くはない。なければ困るといったレベルで、スマートフォンが活躍するのは非日常的な世界、例えば旅とか。いやむしろ、旅ぐらいじゃないか。旅とスマートフォンの相性は非常に高い。スマートフォン一つで多くのリスクを回避できる。逆に言えば、スマートフォン無しの旅は現代社会においてはもうすでに失われてしまった冒険を手軽に提供してくれるかもしれない。スマートフォンが活躍してくれる場面がはっきりしたおかげで、活躍しない場面もはっきりしてきた。

やっぱり、普段はいらないと思う、これ。

旅行のときだけレンタルとか、そういうサービスがあれば、僕の用途では十分な気がしてきた。

あるいは、すでに幾ばくかはそのような様相を呈しつつあるのだけれど、日常こそを完全に旅にしてしまえばスマートフォンを頼もしい相棒として再確認できるかもしれない。そうやって逆に、スマートフォンを残して、日常の方をごそっと変えてしまうという手もある。

May 9, 2019

【566】据え置き型スマートフォン。

脱スマートフォン計画、まずやってみているのは、スマートフォンを据え置きにすることだ。何を言っているのかわからないと思う。

スマートフォンを一階の本棚に置きっぱなしにして、そこに置いたまま使うようにしている。例えば、キッチンタイマーとして、例えば家計簿の入力機器として、例えばカレンダーの確認に、例えばmessengerのやり取りに。棚に置いたままでやっている。

要するにスマートフォンからモバイル性を奪うということをしている。これでもう、ほとんど息の根は止まっている。同じ部屋にある、こちらも据え置きになっているMacBook Airと、ほぼほぼ用途は同じである。

ちょっと予定を確認する、短いメッセージを入力する、などの場合はスマートフォンを、長文を入力する場合はMacBook Airを操作する。写真を撮る場合は、さすがにスマートフォンを手に持って移動する。

こんなことを数日ほどやってみている。ネットへの依存度も同時に下がっていっている。どうなることやら。

May 7, 2019

【565】脱スマートフォン計画を始める。

長い道のりになるだろう。行きつ戻りつするだろう。でもたぶん、辿り着けそうだと踏んだ。スマートフォンを使わない生活へ向かおうと思う。

単純に、もう、スマートフォンが美しくないと思うようになったからだ。それは実は、初期の頃のiPhoneのを見たときに通じていて、

「それで電話するの? まじで?」というあの醜さの感覚だと思う。

現在のスマートフォンは、たしかにもう、指を大きく広げて鷲掴みしながら耳に押し付けて電話することは、少ない。僕はほぼそのような使い方では使っていない。しかし、なのだとしたら余計に、いらないのではないか。これそのものが。

現在地を示しておこう。

スマートフォンの実質的な主要用途はSNSである。だから、脱スマートフォンの成否は最終的にはSNSとの距離のとり方にかかっている、と予測する。

僕が今使っているSNSはフェイスブックのみ。ほぼイベント案内がメイン。イベントを案内するために、何かしらの広報ツールは必要だということで、最終的にフェイスブックが残ったという状態だ。といっても「友達」の数はそんなに多くもなく、僕のアカウントがもつ影響力は大きくない。たぶん、僕自身が一所懸命投稿したり、シェアしたりしても、大した効果は見込めない。僕じゃない人がちゃらっとやったほうがはるかに効果的である。

だとしたら、僕のやるべきことは、僕じゃない人が僕について投稿したり、シェアしたりしてくれるようなことだ。そこに注力すべきだ。もし、それによって何かしらの効果を得たいのであれば。

ということで、まぁたぶん、スマートフォンはなくても、なんとかなるんじゃないかと思っている。

もちろん、直接的な連絡手段はSNSよりもずっと「必須」だから、その代替手段を確保する必要があるのだけど、それについても探求していこうと思っている。

ともかく開始ということで。

April 25, 2019

【564】筋トレ考。

筋トレをする目的は筋力アップである。筋肥大である。だから、スクワット50回とか、プランク1分とかいうときの50とか1とかという数値に、目的や目標としての意味はない。それに気がついて、俄然、筋トレがやりやすくなった。

筋肥大は、筋繊維の一部が刺激で破断し、その後、適切な栄養と休養によって回復する際に、元よりも増えることで起こる。

だから、筋トレは、筋繊維の一部が破断する程度の負荷をかければいい。そして、本当は食事や休養にちゃんと気を配るのが必要なのだが、今はとりあえず見かけ上の「体を動かすレベル」の筋トレについて書く。

スクワットは毎日50回程度やっている。程度というのは、なるべく50回で十分な負荷がかかるように、腰を落とす高さと落とした状態をキープする時間を調整している。50回やってもまだ余裕があるなと思ったら10回ほど追加したりもする。始めたときから50回で、一月ほど経つ今でもだいたい50回で収まる。

プランクも最初1分ではじめて、いまだに1分だけど、おしりやお腹や背中の筋肉に意識して力を入れて、1分で腹と背のあたりの筋肉全体に負荷がかかるようにやっている。腹筋背筋あたりの体幹は、僕はもともと弱いようで、今でも1分はかなりきついが、それでも最初よりは余裕が出てきたので、今日は10秒伸ばした。

腕立て伏せは途中からメニューに入れた。苦手中の苦手で、本当に腕の力がない。動機よりも苦痛が上回るからと、最初はやるつもりがなかったけれど、上記のように筋トレのイメージが変わってきたことで、むしろ苦手な部分ほどやりやすいというか、負荷を簡単にかけられるので効率的だとわかって、やるようになった。10回から初めて、これはさすがに回数が少ないのだけど、それでも、顎はもとよりおでこを床につけることすらできない、というか「できない」のではなくて、おでこを床につけなくても負荷がかけられて簡単に筋トレができる。

要するに「もうだめもう限界もう無理!」ってなってから、プラス1回とかプラス5秒とか、そういうことが重要で、結果的にそれが何回だろうと何秒だろうとどうでもいい。肝心なのは、どの筋肉を「限界」にするかという筋肉へ関与する意識の精度であり、そのときどのような筋肉の状態なのかという筋肉を観察する意識の精度のことなのだ。

こういうことは物理的な、体力的な、つまりフィジカルなことだけではなく、ほかのことにも関わりそうなので、メモとして書いておく。

文章筋トレ」にも共通点があるような気がする。

April 24, 2019

【563】短パンにTシャツ生活スタート。なるべく薄着で過ごしてやる!

筋トレをしてムキムキの人が、筋肉がついていると冬でも短パンにTシャツで過ごせると言っているのを聞いて真に受けることにする。嘘かもしれないけど、本当だとしたらこんなに楽なことはない。基礎代謝が上がって発熱量が向上するからというもっともらしい理由も、プラセボに寄与しそうなので採用する。

次の冬に短パンTシャツを実現するため、すでに筋トレを始めていて、といっても、今のところ、スクワット、プランク、腕立て伏せというシンプルなメニューだけど、これでも効果があって、確かに結構暖かい。というか、寒さを感じたらスクワットしたりして体を動かすようにしているので、単にそれで熱くなっているだけという当たり前の現象なのかもしれないが、こういうことが重要なのである。

で試しに、今日から短パンTシャツにしてみたら、全然だいじょうぶ。いけるいける。

健康にいいとか、美容にいいとか、モテるとか、そういう理由では体を動かす気にはならなかったけど、薄着でいられるというのがこれほど強いモチベーションになるとは、自分でも驚きで、意外なところに僕の欲求というのはあったのだなと改めて自分を発見している。

さて、今度の冬はどうなっているだろうか。

【562】意外に役立った新生児・乳児期の子育てグッズ3選。

現在、生後7ヶ月。一時期ひどかったアトピーは、小児アレルギー専門医にかかるようになって順調に治療が進んでだいぶ落ち着いてきた。当初よりも薬の量も大幅に減ってきている。これについては別にまた書くかもしれない。



これまでの育児で、出産前にはほとんど意識していなかったけれど、実際にはとても役立った子育てグッズを紹介する。この3つは本当にあってよかった。

「出産祝いになにか欲しいものある?」ときかれたときにリクエストするとよいかもしれない。

3位 おまる


偶然、ゴミの日に近所で拾った。琺瑯の丸い容器で、最初はおまるとは知らずに、洗面器代わりに使っていた。子供のアトピーがわかって、おむつかぶれを予防するために「おむつなし育児」を始めたときに、このおまるがとても役に立った。おむつなし育児の詳しい説明は、ネット上にそこそこ情報があるのでそちらに任せるが、僕が説明するとしたら「排泄によって子供とコミュニケーションを取り、子ども自身に排泄への意識を向けさせ、排泄を自分でできるようにさせていくこと」となる。

おまるは大きさや形がちょうどよく、これのおかげで始めたときの成功率がかなり上がったと思う。周りに実践者がいなかった状態で、もしこのおまるがなかったら諦めていたかもしれない。あってよかった。

特に夜間、だいたいおしっこで目が覚めるのだけど、枕元におまるをおいて、泣き出したらおまるの上に抱き上げてさせている。気が散らないせいか、昼間より夜間のほうが成功率が高いのも意外だった。昼間なら、庭やお風呂場に直接させたりもできるのだけれど、夜はそういうわけにいかないので、おまるが活躍する。この手のことは、うまくできるようになりさえすれば、いろいろな方法があるけれど、うまくいくようになるまでが問題で、その最初のとっかかりを作ってくれた。



2位 おくるみ


友人から借りた子育てグッズの中にあったものがたまたまスワドルデザインの「アルティメットおくるみ」だったので、これを使ったが、別メーカーのものでも良いものがあるかもしれない。0ヶ月から3ヶ月ぐらいまで使っただろうか。

使用期間自体はそれほど長くはないけれど、とても重宝した。お雛巻きをして抱っこするのがとてもやりやすかった。バスタオルでやろうとするとサイズ、形、生地の伸縮性などが適切でなく、すぐにほどけてしまったりしてやりにくい。おくるみはそれ専用なのでとてもやりやすい。洗い替えなどを含めて複数枚あっても良い。




1位 お昼寝布団


澪の祖母に「なにか買ってあげる」と言われて考えた末に選んだのがお昼寝布団。受注生産で一月ほどかかったが、これがもうふわふわで、この布団にしてから昼寝の質が大幅に上がった。

それまではだいたい座布団に寝かせていたのだけれど、ちょっとした物音で起きてしまって、泣き出していたのが、ぐっすり眠ってくれるようになった。生後7ヶ月ぐらいに入手したのだけれど、もっと早く、できれば生まれる前に準備しておけばよかった。値段も手頃。

昼寝の寝かしつけがとても楽になり、またしっかり寝てくれるからか、一日のリズムができて生活にメリハリが出た。助かる。カバーは澪が作ってくれた。掛け布団はブランケットやバスタオルで代用している。このお昼寝布団のせいで、大人の布団にももっと気を使ったほうがいいだろうと思うようになった。

追記:記事執筆時点では「値段も手頃」と書きましたが、2023年9月時点で、かなり値上がりしており、また、綿の原材料なども変化しているようなので、商品リンクを削除しました。(2023-09-17)

以上3つ。

April 23, 2019

【561】ノリや勢いでは、できないことがある。

高校卒業まで関西にいたわけで、僕も一応関西人の端くれだから、どうしても「ノリ」や「勢い」というものに頼ってしまうことがあった。いや、たぶん、今もある。

しかし、この年になってつくづく思うのは、ノリや勢いで「乗り切ってしまう」ことの恐ろしさだ。乗り切れてしまえば満足する、そういう安心感の反復に日常が侵食されてしまうことだ。

ノリや勢いで乗り切っていくだけでは到底なしえないなにかは確かにあって、むしろ例えば表現の世界のようなところで名を成すようなことをしている人は、ノリや勢いとは無縁の在り方を継続している。一見するとそうは見えないかもしれないが。

若いころはどうしてもノリや勢いを重視しがちだし、ノリや勢いがないことに悩んだりもするけれど、ノリや勢いだけではどうにもならないことがこの世にはたくさんあって、特に、あなたにとって本当に大切なことや一生をかけて保ち続けていくことは、ノリや勢いではどうにもならないところにあるのだということは早めに知っておいたほうがいい。

April 12, 2019

【560】進みあぐねているときのYouTube。

今年の春は花粉症、あとたぶん黄砂が例年よりもしんどくて、いろいろと進みあぐねている。特に『言語6』の原稿を4月中には仕上げたいと思っているのだけれどこれが難航。

というわけで、YouTubeです。こんなときは。


冒頭の10秒ちょっと、静止画のように見えますが、足元のスピーカーのインジケーターを見ればわかるように、動画です。ダンスの動画で静止画のように見せることにどういう意味があるのかと言われても、答えにくいわけですが、これだけですげーってなります。アニメーションダンスの面白いところは、誰が見てもすげーってなるところです。この、誰が見てもすげーっていうのをとことん突き詰めていくというのが、見てて心地よいわけで、動き自体はもうむしろ気持ち悪い。はっきり言って。

あとこれなんかも、何度も見ちゃいます。気持ち悪くて。


先攻の人というか、いや人だけど、の二巡目の前半の弾かれる感じが特にエグくていいのだけど、後攻の黒い人のマニアックな感じも捨てがたい。この二人は、似たような世界観を持っていて、それは幼稚でありつづけながらグロテスクに育った大人の世界で、僕はうれしくなる。

というわけで、どういうわけか、僕は体を動かすことが苦手だし、リズム感も目立って悪い方で、だからダンスなんて地球の裏側の出来事なのだけれど、だからこそこういう動画を何度も何度も見てしまう。

最後に口直しというか、可愛らしい子どもたちのダンスでほっこり。


きっと、英才教育の世界なんだろうな。ここも。

March 12, 2019

【559】吉本ばなな『キッチン』を今さら読む。

私の実感していた「感受性の強さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいにきつい側面がある。それでも生きてさえいれば人生はよどみなくすすんでいき、きっとそれはさほど悪いことではないに違いない。もしも感じやすくても、それをうまく生かしておもしろおかしく生きていくのは不可能ではない。そのためには甘えをなくし、傲慢さを自覚して、冷静さを身につけた方がいい。多少の工夫で人は自分の思うように生きることができるに違いない」という信念を、日々苦しく切ない思いをしていることでいつしか乾燥してしまって、外部からのうるおいを求めている、そんな心を持つ人に届けたい。 
 それだけが私のしたいことだった。

このとても長い文と短い文は「そののちのこと」と題され、今から32年前にデビュー作として発表された作品を含む3つの小説が収録された文庫の「文庫版あとがき」として「2002年 春」に書かれた吉本ばななの文章である。3つの作品「キッチン」「満月ーーキッチン2」「ムーンライト・シャドウ」はいずれも傑作と言って良いが、
「見た?」
と言った。
「見た。」
と涙をぬぐいながら私は言った。
「感激した?」
うららは今度はこちらを向いて笑った。私の心にも安心が広がり、
「感激した。」
とほほえみ返した。
という「ムーンライト・シャドウ」のクライマックスは、今読んでも驚く。

読み手が無意識に想定している「文学というものを形成するために必要な最低ラインの語彙」を遥かに下回る「感激した?」「感激した。」という「チープな」会話は、読み手に読み手自身の持つ狭く浅はかな文学観を鋭く自覚させつつそれを破壊し「感激」を呼び起こしてしまう。

この率直な文体は、デビュー作「キッチン」で、
先日、なんと祖母が死んでしまった。びっくりした。
と誕生しているものだ。

冒頭に引用した「2002年 春」の文章の饒舌さは、文学が歩んだ距離として計測できる。言葉にならなかったことが言葉になるとき、まずその切っ先が鋭く現れ、やがてそこから言葉が漏出する。洪水で川が決壊するように、最初は小さな穴だった。

僕はどうしたのだろう。

多分僕は、適切さがさびしいのかもしれない。これが誰かを救うのにぴったりな文章なのではないかという推測が悲しいのだ。そのような推測の発生以前に、作品は誕生したはずで、読み手はそんな「救い」を想定してはいなかっただろう。

文学は文学として誕生しても、やがて実用性を身にまとってしまうのだろうか。たぶん、そんなようなことを僕は気にしている。ひねくれているのかもしれないし、幻想を追いかけているだけかもしれない。

【558】第2回山本明日香レクチャー・コンサートの様子。


明日香が音楽について語るとき、言葉遣いが魅力的だと思う。

「ベートーヴェンは、休符が訴えかけてくる。」

休符は音が休んでいるのだから、音が無い。無いものがどうやって訴えかけてくるのか、と一瞬戸惑うが、もちろん僕たちはこの訴えをよく知っている。話し始めて突然黙ってしまったり、言いよどんだりするとき、僕たちはその沈黙に強く訴えかけられている。沈黙はたんなる「休み」以上に機能する場合がある。

明日香が言うように、そして明日香が演奏するように、言われてみればピアノ・ソナタ第五番第一楽章の一小節目、最初の和音の直後にある16分休符は、「ハッ」と一瞬息を飲むような緊張をもたらしているし、これを「訴えかけてくる」と表現するのはとても正確な言い方だと思う。

「ここからピアニッシモの世界に入ります。」

僕たちがそれまで知っていた「ピアニッシモ」は、あくまでも音の強弱を示す記号であったはずだ。それがまるで別世界への扉のように思えてくる。「pp」。ガリバー旅行記の「小人の国」のような、あるいは「ここでは大きな音は彼女に見つかってしまうから、ささやくように話さなければなりません」と大魔法使いがどこかで見張っているような国だろうか。

強弱記号を世界として見ていくというのはとても魅力的で、それだけを追っても楽譜が楽しめる。楽譜が物語に見えてくる。

「二拍子は、落ち着く場所がない。どんどん急き立てられていく。」

同じ音の並びでも四拍子と二拍子では違うという話なのだけれど、ここまで明確にイメージを示されると、実際の演奏を聞いたときにたしかに「落ち着かず」「急き立てられて」いく。

僕たちは人を急き立てようとしているとき、二拍子的に「タンタン」と心の中で手を叩いて話しているのかもしれない。逆に、他人に急き立てられていると感じるときは、自分が「タンタンタンタン」と四拍子的に話せば落ち着くのかもしれない。たぶんそう。

このレクチャー・コンサート、毎回ものすごく勉強になるし、新たな発見をする。それはもちろん音楽についてでもあるけれど、同時に言葉についてでもあって、ほんとに油断できない。

そして今回、とても不思議なのだけれど、楽譜が読めないはずの僕が、レクチャーを聴いたあとの演奏では、なんとなくこのへんだろうと楽譜を目で追うことができるようになっていた。同じく読めないはずの澪もそれができたと言っていたから、気のせいとか、偶然とかではない。

もちろん、一つ一つの音がどの音なのかとかはわからないけれど、だいたい今ここ、とわかる。たぶん次はもっと読めるようになる。聴いてるだけで楽譜が読めるようになるというわけだから、これはさすがに自分でも信じがたいことだけれど、楽譜と言語になにかしらの共通点があるのだとすれば、読めて当たり前のことだろうとどこかで納得している。

次回は7月15日、その次は11月24日。
詳細はこちら。

March 11, 2019

【557】他者への介入。

自分以外の人に対して「こうした方が良い」などと言うことは、基本的には良いことがない。なので「基本的には」そのようなことはしないで生きていけばいい。

僕は、基本的には基本に忠実に生きている。だから、滅多なことでは自分以外の人に対して「こうした方が良い」などとは言わない。

しかし、何事も基本通りにはいかないときがある。応用が必要なときがある。この話の場合は、応用どころか、もう「例外」ぐらいのレア度だけれど。

生半可なことでは他者への介入はしない。介入するとすれば生半可ではない。しかし、責任を取れと言われても取ることはできない。それにもかかわらず遂行できるだけのある確かさを持つことができなければ、他者への介入などできない。

そもそも他者の人生へ介入したほうが良いと思える例外的な状況が生じること自体がとても貴重なものだ。そして、僕は、この貴重な状況において積極的な行動ができるぐらいには踏みとどまりたいと思っている。流されたくない。そのぐらいのことはできるようにありたい。

それは家族のことであり、友達のことであり、つまりは僕にとって大切な人のことである。

そして、このときばかりは、全力でそれをしなければならない。だから、自分のことを棚に上げることすらも必要で、まったく完全に無責任だ。

March 4, 2019

【556】「失敗を恐れるな」という言葉について

「失敗を恐れるな」

正直あまり好きな言葉ではなかった。勇気を持って一か八かやってみろ、という博打推進のスローガンに聞こえていたからだと思う。しかし、今となって僕は実は、失敗を恐れることは、僕自身にはあまりないことに気がついたし、他の人が何かをやろうとしているときに「どうしてそんなに失敗を怖がるのだろうか」と不思議に思ったりする。だから危うく、この好きではない言葉を吐きそうになって自分に驚愕する。

僕にとっての「失敗を恐れることはあまりない」という言葉の意味というかニュアンスは、言い換えるとすれば「失敗したらやり直したり、修正したり、次からやめたりすればいいだけで、そもそも恐れるというような感情の対象になっていない」ということになる。「試してみよう」ぐらいのことだ。

やってみて、もし失敗しなければ、それはそれでいいことだけれど、なぜ失敗しなかったのかという手触りをうまく得ることができなかったら、そのときたまたま失敗しなかったというだけで、次か、次の次には失敗する。結局、失敗することでそれがよくわかってしまえば、もう失敗しないし、よくわからなければまた失敗する。

失敗が恐怖と結びつく要素は、実はない。もしも失敗が恐怖と結びつくのだとすれば、それは、一度しかできないことについてなのだけれど、一度しかできないことがすべて失敗してはいけないというわけでもないので、やっぱり失敗が恐怖と結びつくこと自体が、とてもレアケースなのである。

そして、そのレアケースは、例えば「失敗すれば死ぬ」というような場合なので、その事自体をやってみるかどうかそのものからよく検討しなければならない。ということは当然そんなことを「一か八か」でやるようなことではない。「恐れるな」なんて他人から言われるようなことではない。

失敗というのはそもそも恐れたりするようなものではなくて、わりと日常にへばりついた、何かを手にするためのきっかけぐらいに思っていたらいいと思う。

February 28, 2019

【555】少年期にスポーツに打ち込むことについて。

久しぶりに危険なことを書く。

少年少女が中学高校時代に部活に入りスポーツに打ち込むことに対して、僕は単純にポジティブに捉えることができない。むしろネガティブである。

どういうことかを書く前に、倫理観から僕自身のことを前提として書いておく。

僕は中学も高校もいわゆる帰宅部だった。運動部に入る気もなかった。運動神経が鈍く、いわゆる運動音痴だった。自己弁護的に追加するとすれば、運動部特有のヒエラルキーに耐えられなかった。組織的な意思決定とそれへの追従ができなかった。なので、これから書くことを単なる僻みとして読まれることは覚悟している。

さて、本論。

中学高校の部活で対象となるスポーツの大半は、基本的に勝敗という単一的な価値観に支配されている。「健康で健全な心身」「仲間を思いやる気持ち」などいかように装飾されようとも、最終的には、勝敗、タイム、点数、などの客観的で絶対的な単一指標の中での序列に自分自身を位置づけるという意識を強固に植え付けられることになる。

この単一軸基準の絶対的指標主義を思春期に刻み込まれた人が、物事や出来事というものは単一の指標で図ることはできない、というアタリマエのことをおとなになってから、もう一度学ぶことは果たして可能なのだろうか。

僕にはかなり困難なことに思える。これは、僕が知っている大人たちを見ていてそう結論する。

少年少女時代にスポーツを通して単一的な指標を叩き込むことのメリットは、大人になってから組織のなかに組み込まれたときに大きく発揮する。組織的に御しやすい人間を育成するということである。よって支配層から見た場合、少年少女が取り組むべきは、文学や芸術ではなく、スポーツであることは明白である。厳しくしつけられた野球少年はブラックな営業職に持ってこいな人材に育つ、などというと言い過ぎかもしれないが。

文学や芸術は、単一の客観的指標で制御しにくい。たとえコンクールや賞が設定されたとしても、その当人として表現に生きるためには、そういった客観的な外部指標は一時的な腰掛け、あるいは利用すべき実績といった程度の扱いでしかなく、日常的に対峙すべきは、誰もいない荒野にただ一人、どこへ向かえばいいのかわからないような状況そのものである。こういう人間を組織オーダーに従わせるのは極めて難しい。

思春期に文学や芸術といった表現にカブれることの危険性は確かに無視できない。ときには死すらも射程に入ってしまう。それに対してスポーツは遥かに安全である。

しかしこの表現の危険に対して、それによって世界が面白くなるのだとすれば、大人が全力で支えるべき価値があると僕は思う。

単一的な「勝敗」に支配された窮屈な場所ではなく、ただ広大な荒野にたった一人で立ち尽くす若き意識は世界にとってなによりの宝だ。

以上、やや短絡的な書き方になったが、大きく外している気はしない。

February 16, 2019

【554】「何をもって読めたと言うのですか?」

編集者として多くの文章を読むことを仕事にしてきて、今も読むということが僕の仕事や生活の中心をなしているのだけれど、こういう話をすればかなりの高確率で表題の質問が来る。

「何をもって読めたと言うのですか?」

例えば、カレーを作ってそれを食べたとする。

「何をもって食べたと言うのですか?」

という問いは成立するだろうか。「食べた」という体験の自明性は明らかではないだろうか。

「食べた」という体験そのものを事後に取り消すこと、つまり、

「それは食べたことにならない」

という事態は生じうるのだろうか。

僕にとって「読む」というのはそのような体験としてあるので、何をもって読めたというのかと問われれば、文字を文字として捉えた時点ですべて「読めた」と言えばいい。

ここで、質問の答えは終わるのだけれど、大抵の場合、質問者はこの答えに満足しない。

つまり、この「何をもって読めたと言うのですか?」という問いは、別の問題を指している。それは或る幻想の権威とその権威からの許諾の問題である。

実は、この質問者が抱えている質問の実体は「私が読んだものはこれこれこういうものでしたが、この説明をもって『読んだ』ことにしてもよろしいでしょうか?」という許可申請なのだ。

質問者は、読んだのに読んでいないことにされてしまうような或る権威の存在におびえている。もちろんその権威は幻想としてしか存在しない。

この問題は簡単に解決できる。

「私はたしかに読んだ。しかし、その内容は説明できない」と答えればいいだけだ。

読むこととその内容を答えることは別である。自分が読んだものについて何かを語ることは、読むことというよりもむしろ書くことである。

「読んだ。しかし、書けない。」

ということなだけであって、なんの不思議もない。

自信をもって、読んだものを読んだと言えばいい。内容が理解できているとか、できていないとか、感動したとか、しないとか、そんなことが「読んだ」という体験そのものを脅かすことはないのだから。

【553】面白いことしかしていない。

詳しく書く時間がなくて、もう眠いのだけど、毎日面白いと思うことしかしていない。いや、そんなことはない。新(あらた)のアトピー対策は毎日継続していて、気にかかることもあるなかで、ではあるけれど。

2月10日に「自分の文章を書くための通年講座2019」を開始。予想以上に面白くて忙しい。久しぶりに事務作業をチャカチャカ進める。

通年講座に関する情報は、以後、専用ブログに蓄積されていく予定。
https://kakukoza.blogspot.com/

以前はたくさん時間をかけなくてはできなかったことが、ものすごく短時間でできるようになっていることに驚く。これは成長なのだろうか。今更この歳で成長するのか僕は。

主に読む力が以前よりついていて、自分でも驚くほど読める。読むのが楽しい。とはいえ、書きたい。書くのが楽しいと言いたい。

さて、明日は何をやろうか。

February 1, 2019

【552】家の中にパブリックなスペースを保つこと。無縁は清浄を優先する。

新(あらた)のアトピーのおかげで、まるネコ堂はさらに洗練された。

アトピーの環境面の対策として必須事項はハウスダスト(カビ・ホコリ)の低減である。そのためには毎日の掃除が重要である。とはいえ、毎日家を全部掃除するというのはかなりの重労働で、安易にやろうとしても家族が潰れるだけだ。だから根本的な対策をとらなくてはならない。つまり、そもそもなるべく掃除がしやすい状態にする。そのために物を減らす。今、使っているもの、使うあてが確実にあるものだけを家に置く。こういう流れで、床の上にはほぼ物を置かないようにしている。

もともと僕はまるネコ堂をお寺のお堂のようなところにしたいと思っていた。事実僕なりに、お堂っぽくしていたつもりだったけれど、この話をしてもみんな首をかしげるばかりだった。客観的にお堂っぽくなかったのだと思う。それがこの一ヶ月で一気にそれっぽくなった。

お寺のお堂にしたいというのは、東洋的な意味でのパブリックスペースをイメージしていたからで、僕は家の中に、誰でも入ってこれる場所を作りたかった。お寺というのはそういう場所だ。

網野善彦を経た(読んだ)今となっては、この「東洋的な意味でのパブリックスペース」という言葉は、簡単に日本語で「無縁」と言い換えられるのだけれど、「無縁」という否定語では「有縁」との対としてイメージされがちである。無縁と同様の意味がある「公界(くがい)」のほうがパブリックスペースとしてのニュアンスは近いだろうけれど、この言葉自体が知られていないし、知っている人も大半はおそらく「無縁・公界・楽」という網野の著書タイトルのセットとして認識しているだろうから、純粋に「公界」という字面のニュアンスは伝わりにくい。だから、再びあえて回りくどい「東洋的な意味でのパブリックスペース」という言葉で今はいいかと思っている。

パブリックスペースがパブリックスペースとして機能するために必要な事項はなにかということも、今回のアトピー対策でよくわかった。清浄さである。

機能性、利便性、アクセス、安全性などは二の次で、まずとにかく維持すべきは清浄さである。清浄でないパブリックスペースはそもそもパブリックスペースとして存続できない。汚い公衆トイレはもはや「公衆」トイレではない。どれほど機能的な遊具を備えていても、ゴミが放置されている公園は「公」園ではない。誰も行かない場所、特定の人しか行けない場所はパブリックスペースではない。清浄な空き地に劣るのだ。

公共性が最重視すべきは清浄さである。逆に言えば、清浄さが〈自然に〉保たれる場所には、もともと公共性がある。たとえば河原、たとえば森、たとえば海。いわゆる自然は〈自然に〉清浄さが保たれやすい。それらの多くが網野善彦の言う無縁と重なることは必然である。

無縁の原理をまとう人々が、それら無縁の場で営んでいた生業のなかで、ひときわ重要なものに「死」の扱いがある。即物的には死体処理であり、精神的には葬送。これらは「清め」の仕事であり、だからこそ死という「穢れ」を扱うことができる。のだけど、この辺のことを突っ込んで書くには僕は力不足。

ともあれ。ついこの間まで僕は掃除嫌いだった。今ようやく掃除の意味を知った。

January 28, 2019

【551】文章筋トレ第1回の様子



第1回(1月26日)の記録。

ショート2本、ミドル1本。3人。

10分でも結構書けるものです。1回目ということもありますが、予想していたよりも、それぞれバラバラな方向へ向かった感じでした。続けていくことでおそらく変化していくとは思いますが(メニューの改良を含め)、〈自分の文章〉というものに本気で取り組みたい人には、あまり見当たらない良い機会かもしれないと思いました。逆に、そこまでではない人には、さほどかな。僕は自分の書いたものに今更ちょっと驚いたりしています。やってよかった。次回はどうなるか。

文章筋トレ
次回は2月23日(土)。

January 21, 2019

【550】ブログへのコメントをくださっていた方へ。承認制にしていたのを忘れていて今頃知りました。ごめんなさい。

ほとんどコメントがつかないブログなので完全に油断していました。何件かコメントをくださっていた方がいらっしゃったのですが、コメントの存在につい先程気づきました。申し訳ないです。

一応お返事も書きましたので、もし覚えておられたら該当エントリーのコメント欄を見てみてくださいませ。

設定を変更し、すぐに反映されるようにしました。

January 19, 2019

【催し】まるネコ堂ゼミ、佐々木敦『新しい小説のために』

東京の友達のはまこーと一緒にやります。場所はまるネコ堂です。

文芸批評なのですが、ほぼ〈現在〉の日本の現代文学シーンをこれでつかむことができます。僕の好きな作家である保坂和志や岡田利規(劇作家)もあつかっていて面白いです。現代文学の小説や戯曲に興味がある方はおすすめの一冊です。

詳細はゼミサイトで。

January 17, 2019

【549】読む仕事。

物心ついたときから読むのが好きだった。本を沢山たくさん読んだ。だからいつか物書きになれたらと思っていた。物書きと呼べる仕事をやっていた時期もあった。でも続けていくのは難しかった。僕の仕事は読むことなのかもしれない。書くという憧れを残したまま、読み続けることなのかもしれない。さびしさや切なさもあるけれど、納得もできる。読むことが好きだったのだから、その好きなことが仕事になるのはよいことなのだ。それは間違いない。こんなに幸福なことはない。しかしそれでもどこかで書きたいと思っている。これは一体何なのだろう。僕の適正にも能力にも才能にも合わないだろうに、それでもまだ書きたいと思っている。たぶん、そう思っている間は読む仕事ができるのではないかとも思う。読む仕事をやる、書きたいと思いながら。

January 12, 2019

【548】典型的なアトピーと診断される(生後128日目)

新の皮膚炎。昨日、小児アトピー専門医のアレルギー外来を受ける。初診30分かけてくれるところ。全身チェックして、典型的なアトピーと診断される。またしても今使っている薬では効かないので一段階強いものを大量に出される。数日前、皮膚科ではアトピーではないと言われたのだが。

アトピーの診断がおりたこと自体は、覚悟していたというか。僕も澪もほぼアトピーだと思って対策してきたつもりだったのだけれど、それでもやっぱりこたえる。

最初の小児科、次の皮膚科とも、結果的にはいずれも「効かない薬」を処方され、貴重な時間をロスしたことになる。こういう流れはどうにかできないものか。人間のやることなのでしょうがないとはいえ。

自宅の環境については、澪の父親に来てもらって掃除を手伝ってもらったりしている。これは本当に助かる。澪の母親にもちょくちょく来てもらって、ご飯を作ってもらったりしている。これもとても助かる。

人がいるということはそれだけで助かる。ほんとうに。なので来てください。とくに何かをするつもりでなくても、来てくれるだけで助かるし、うれしいです。

宿泊も可能なので、京都や宇治の観光拠点に使って頂いてもOKです。

猫の遊び相手とか、本を読みにとか、文章を書きにとか、絵を描きにとか、昼寝しにとか、なんでも有りです。

January 10, 2019

January 7, 2019

【547】デリダゼミを決行する。

昨日はデリダゼミの第6回目。

このところの新の皮膚炎による心痛のなか、連日のカビホコリ対策の大掃除をやりつづけ、まず物理的に本を読む時間が取れず、さらにそれ以上に、この大変なときに「読書?それもデリダ?そんなものを読んでいったいなんの足しになるのか!」という自己批判的意識の中、いろいろ諦めそうになったのだけど、なんとかレジュメ(のようなもの)を書いて挑みました。結果的に、僕にとってはこのレジュメはとても大きなものになり、書けてよかったと心底思いました。これからもゼミはもちろん、僕の好きなことをやっていきます。もちろん新の皮膚炎に直接的に良いと思うこともやり続けます。そこに交差が生じるはずです。

ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』ゼミ 第6回レジュメ

January 6, 2019

【546】おむつなし育児、二日目であっさり成功(生後122日目)

昨日の夕方から始めたおむつなし育児への挑戦は、本日あっさり成功した。

お昼ぐらいにちょっと新の様子が違う瞬間があったので(具体的にどういうサインだったのかは忘れてしまった)、おまるの上に抱きかかえてみると、しばらくして、やっぱり今回も違ったかなと思ったころにシャーっとおしっこが飛び出た。すぐには何が起こったのかわからなかったが、一瞬後に「おしっこしたー!」と叫んだら、新はびっくりして泣き出してしまい、慌てて「よくできた。成功だよ。すごいよ」と成功を喜んでいることを伝えたら、ちょっと笑ってくれた。

僕の抱きかかえ方がまずかったのだけれど、最初のおしっこは見事おまるを超えて、向こう側の床を濡らしただけだったけど、それでもこれは大成功で、僕と澪とでしつこいぐらい新に喜んで見せると新もうきゃうきゃと喜んでいた。

ここまでに何度か失敗というかタイミングのズレがあったのだけれど、こんなに短期間であっさりできてしまうものかと驚いた。抱きかかえ方もまだしっくり来ていない、試行錯誤の状態だったわけで、どう考えても新が頑張っておしっこを出そうとしてくれたからに違いない。量的にも少しだったから、新にとっては、そのタイミングでおしっこをする必然性はなかったはずだ。つまり、新が僕たちの熱意を汲んでともに頑張ってくれた(おしっこを出そうとしてくれた)としか思えない。

一度うまくいくと驚くほど簡単に、2回目3回目と成功していく。

今日はデリダゼミの日でけんちゃんが来ていたのだけれど、けんちゃんに見せつけるようにおしっこをしてみせる。誇らしげに。

数回続けて、僕が抱えてやって成功したあと、澪でもできるかとやってみると、今度はなんとうんちを少しした。これも少ししか出なかったので、きっと新が、いつも以上に踏ん張って出してくれたんだと思う。

というわけで、おむつなし育児は二日目にしてあっさり成功した。

成功のポイントのようなものを僕たちのケースで書き残しておくと、最初に丁寧に説明をしたことではないかと思う。

具体的には、

1 これからおむつなし育児を始めます。
2 おむつじゃなくておまるにおしっことうんちをします(本を見せて、何かをやろうとしていることをわかってもらう)。
3 新がおしっこやうんちをしたくなったら、なにかサインを出してください。
4 それをみつけて、おまるの上に抱っこします(実際に抱っこしてみる)。
5 これがうまくいくと、おむつかぶれがなくなります。
6 これはすごくいいことで、こういう新しいことを試してみるのはきっと新も好きだし得意なはずです。

これらを僕と澪の二人でかなり熱心に伝えた。どれぐらいのことまで伝わったかはわからないけれど、僕と澪の熱意、楽しみにしていること、面白そうだと思っていること、新もきっとそう思うだろうこと、ぐらいは少なくとも伝わったはずで、親バカ認定覚悟で言えば、天才的な理解力を持った新には全て確実に把握してもらえたと思っている。

おしっこに関しては、だいたい30分から1時間ほど間をあけておまるに抱きかかえると、その時点で溜まっている分を出してくれる感じになった。つまり、この体勢(状況)になればおしこをすればよいということが理解してもらえている。もっとも、ときどき出なくて「まだだよ」というような不機嫌な顔をされることもあるけれど。

とにかくこれは、そこにいる人全員にとってとても楽しいことで、それだけで僕は救われる。

もうほとんどおまけのようなことではあるけれど、これでおむつの洗濯物が減るのもうれしい。そして、おむつなし育児と並行して始めている手洗い洗濯への移行にも弾みがついている。(手洗い洗濯については別エントリーで書ければ書きます。)

January 5, 2019

【545】おむつなし育児のチャレンジ開始(生後121日目)

今日も新(あらた)の絶叫泣き。僕の方が参ってしまいそうになる。これは僕が僕をどうにかしないといけないことである。

おむつなし育児を試し始める。澪が3冊ほど本を借りたのだけど、それほどの情報はない。とにかく新のおしっことうんちのサインを見つけて、おまるなどにさせるだけ。新にしっかり話して聞かせる。さっそく新も頑張ってくれて、一度目は突然静かになるというサインを出す。どうやらこれはおしっこを「している」ところのサイン。お礼を言って今度はおしっこをする「前に」なにかやってほしいとお願いする。その後、いろいろと試してみるもののうまく行かず、最後はやたら新が僕に向かって泣くので、またどこかかゆいのかと思って痒そうなところを薬を塗ったりしていると、突然ブリブリとうんち音。かゆいのではなくて、うんちを訴えかけていたらしい。新に謝る。明日以降もチャレンジ予定。

連日の大掃除は昨日でようやく一段落。今日からは通常掃除モード。カビとホコリは大幅に減少したはず。

澪が洗濯機のカビについて調べる。どうも日本に洗濯機は合わないのではないかと思われる。洗う物が出次第、温水で手洗いして庭に干す随時手洗い方式を検討中。良い脱水機はないものだろうか。

January 3, 2019

【544】今日はお腹とお尻。できることは全部やる。(生後119日目)

昨日は一日、肌もきれいでずっとご機嫌。あぁ、ひょっとしたらこれであっさり治ってしまうかもなと期待してしまう。その分、今日がつらかった。今までで一番つらかった。

朝お風呂に入った直後、危険な泣き方。全身チェックすると、お風呂前にはきれいだったお腹がただれている。お風呂に入って30分ほどで出たことになる。薬を塗って授乳する。

痒みがひどいとき、新(あらた)はものすごい勢いで咳き込みながら飲む。お腹が減っているから飲んでいるわけではなく、苦痛に対して為す術がなく、夢中で吸い付いて気を紛らわせるしか鎮静方法がないからそうしているのだ。飲みながらも足をばたつかせ、あらい息で泣きながら懸命に吸っている。しばらくすると薬がきいてきて眠る。

できることはすべてやることにすることで、僕はどうにか精神を保つ。

まずは掃除。毎日の掃除に加え、毎週水曜日を掃除の日(「水曜掃除」と呼ぶ)にして、大規模に掃除することにした。

さらに掃除をしやすくするために物を減らしている。具体的には本と本棚の撤去をすすめている。本棚は掃除しにくく、ホコリが溜まりやすい。

「言葉の場所」と名付けた所から本を撤去していく事態にほんの少し心残りがあったが、新(あらた)の出せる限界いっぱいの叫び声を聞き続けて消し飛んだ。まず、処分する本を選ぶ。あとで古本屋へ送る予定。残りは実家へ運ぶ。実家の居間を「まるネコ堂別館ライブラリー」と呼ぶことにする。大画面テレビもあるのでDVDも観ることができる。

我が家(本館)に残す本棚は、ガラス付きのホコリのたまらないやつ一つをメインにし、もう一つを食器棚と兼用にする。この兼用棚は水曜掃除で載せてあるものを全ておろして掃除することにする。あと二つの本棚は別館ライブラリーへ移送する。

夕方、やや落ち着いていたのだけど、また泣き叫び始める。今度はお尻。おむつかぶれに似た状態に見える。薬と授乳。

カビは確かに放置してきた。僕にも澪にもそれほど影響がなかったからだ。今はカビとホコリをターゲットに定め、対策をとる。

窓を開けて家の中に風を通している。外と同じ気温なので寒いといえば寒いが、この寒さも心労に比べればどうということはないし、今、家でやっていることは掃除と整頓ぐらいなので、体が動いて温まっていて特に問題はない。

猫3匹は人とゾーンを厳密に分けた。1階の居間や工房には今後、猫を入れない。そのため、居間の窓とドアに設置していていた脱走防止網は不要となったので、昨日撤去。窓やドアの掃除がしやすくなった。新に直接的に猫アレルギーの症状は見られないが、猫の毛やトイレまわりの不衛生は影響が大きい。

暖房器具は、石油系はやめて電気に変更している。石油ストーブを長時間つけていたり、消した直後などに、どうも痒みが出ているフシがある(きちんと検証はしていないけれど)。

風呂の壁と天井は「ためしてガッテン」方式で、高温シャワーを浴びせてみている。これも週一(水曜掃除)でやる。

今後やるつもりのこととしては、おむつなし育児。おむつを使わないことでおむつかぶれが防げる。肌に負担のかかることは回避したい。

もう一つ、子供用和装の自作。これは澪がやってくれる予定。甚兵もしくは浴衣。自作の利点は確実な素材を選べること。それに和装は乾きが早い。おむつなし育児にも合うのではないかと予想。

書き出すとやることがいろいろあって大変そうに見えるが、やればいいとわかっていることをやることへの苦痛はない。効果があるかどうかわからないということがつらいのだ。可能性は天使でもあり悪魔でもある。

January 2, 2019

【543】食会やってよかった。しんどいときにこそ人に来てもらいたい。新年の挨拶にかえて。

昨日は昼間、新(あらた)の皮膚炎の調子が悪く、夕方5時からの持ち寄り食会をどうしようかと、さすがに本気で考えた。僕も澪もしんどい気分のこんな状態で新年会などできるのだろうか、と思ったのだけれど、こういうときにこそやったほうが良いのは、何度も確認してきたことなので、会の始まりに事情をちゃんと全部、澪が話してやることになった。元旦にもかかわらず、僕と澪を含めて5人の参加者で盛会だった。
久しぶりの食会。
貴重な日本酒あり、手作りのお節料理あり、
ボリュームたっぷりのソーセージ盛り合わせに、
不思議なタロイモチップス、チーズ各種などなど、
いつもながら驚異のバリエーション。
開始直後の新はだいぶ持ち直していたのだけれど、椅子に一人で座っていられるわけではなく、僕と澪がかわりばんこに抱っこしながら家の外を歩いて、手の空いたもう一人が食会の輪に加わるというやり方でやった。

とても楽しかったし、何よりとてもやりやすかった。そもそも持ち寄り食会は、忘年会をいかに自分たちでやりやすいように、やりたいようにやるか、という観点から始まったものなので、どんなことがあろうと、やりやすいようにやりたいようにやることができるはずなのだ。

会の終わりぐらいには新の調子も回復しいつものご機嫌のおしゃべりを披露していた。やってよかったと思った。

大晦日に来てくれた小林一家もそうなのだけど、こちらがしんどい状況にあることを承知の上で、あるいは、その状況についてちゃんと話を聞いた上で、やってきてくれ、この場所であれこれやってくれる人は本当にありがたい。勇気と力がある。こういう人と友達でいられることほど生きていくことの力になることはない。

そんなわけで、今年はしばらくまるネコ堂は大変な時期が続くと思うのですが、それでもたくさんの人が来てくれることを望んでいます。本を読んだり昼寝をしたりするだけでも歓迎です。ぜひ来てください。

January 1, 2019

【542】元旦から大泣き。後頭部が赤く腫れてしまった。(生後117日目)

前のエントリーを上げた直後から、新(あらた)大泣き。

抱っこして外へ連れ出してもまったくだめ。体を大きく反らせて暴れる。これは背中や頭が痒いときにやる。後頭部が広範囲に赤く腫れている。一番強い薬を塗る。澪が授乳しても暴れているが、そのうち薬が効きだして疲れ果てて寝る。ここまで約1時間ずっと泣き続け暴れ続けたが、このぐらいでおさまってまだよかった。

ここ数日調子がよかっただけに、精神的にきつい。

追伸:
さらに1時間後、泣き出す。薬で治まっていた後頭部に再び強い湿疹。お腹も見られる。

【541】年末に珍しく大掃除をする。(生後117日目)

新(あらた)の皮膚炎の原因として、カビやホコリの可能性が浮上。

うちは物が少ないのだけれど、それは物の管理が僕も澪も苦手で、使わないものがあると部屋が散らかっていくからで、その対策として物を減らしている。物が少ないほうが楽だからそうしている。掃除が好きなわけではなくて、むしろ嫌いだからそうなっている。

そんなわけで、窓枠や台所などにどうやらカビ、ホコリがかなり溜まっている。猫が3匹もいて、毛などが落ちることも大きい。

それで年末に、年末とは無関係に、新の皮膚炎対策として大掃除をした。その結果、たぶん効果があった、と思う。新の症状は、行きつ戻りつしながらも基本的には治っていく方向で進んでいる。その速度というか安定度が増した気がする。

特に風を通すことを意識的にするようにしたのは効果的だった。冬場はどうしても閉め切りがちになるのだけれど、多少の寒さは新の症状改善にとっては苦にはならない。

あとは、大晦日、けんちゃんとなっちゃんといぶきが来てくれて、鍋をやったのだけど、そのときに発見したのが石油ストーブの影響で、長時間つけていると、新が泣き出し、けんちゃんが痒くなる。ストーブを消した直後もなりやすい。なんらかの影響があると思う。これも換気が効果的。石油ストーブの影響はもう少し調べてみよう。