December 23, 2015

【252】集団での会話が苦手なのは、集団との対話が難しいだけ。

僕にはある程度、社会不適合な傾向があると思います。

たとえば、人前でしゃべることが苦手で、社交的な場で自体にあまり行きたいと思いません。行っても良いことはほとんどないと思ってしまいます。常識をわきまえないようなところも多分にあります。

December 20, 2015

【251】内的な会話を楽しむ。

12日から10日間、澪が外出しているので、だいたい家に一人でいる。僕はほとんど外出もせず、3日に1回ほどスーパーまで歩いて買い物に出て牛乳と玉子など必要最低限のものを買う。食事の時間も寝る時間も起きる時間も規則性を失って、太陽の動きと同期しない。人と会うこともないので、しゃべることもない。

December 16, 2015

【250】ブログリニューアル。

昨日からブログのリニューアルを行っています。こういうことをやり始めるとどこまでもやってしまうので、そろそろ一旦切り上げようと思い、この記事を書いています。

December 14, 2015

【249】『月と太陽ともぐら』を観て。


無事公演も終わったようで、少し書いてみる。

「月と太陽ともぐら」プロデュースユニットSHIPPO

暗い話である。

この暗さはどこから来るのか。ジョージ・オーウェルの『1984年』を髣髴とさせるけれど、根本的に違っているのは、3人の登場人物は自らの置かれている立場そのものに対して、なんら反逆するわけでもなく、それを企てることすらできない。

December 8, 2015

【248】冷蔵庫の電源OFF生活レポート

12月に入って気温が下がってきたので、冷蔵庫の電源を切ってみました。

うちの冷蔵庫は110リットルサイズの小型なのですが、それでももともとそんなに中身は入っておらず、さほど影響はないんじゃないのかと思っていました。それと、我が家の1階は結構冷えます。暖房的には悪条件なのですが、冷蔵的には好条件、思い切ってやってみました。

December 1, 2015

【247】二葉亭四迷『浮雲』を読んで思う

なんだあこりゃあ落語じゃないか。言文一致の金字塔。文学近代これにてはじまり、逍遥うなった天才の、四角四面の文学史、ここにありやと教えた者は、いったいどこのヘボ教師。ダジャレの利いた節回し、調子のいいコトこの上ない。オチでつなぐ章立てに、声を立てて笑い出す。さぁさ、文三とお勢の恋路、その行方は如何にぃ。

November 25, 2015

【246】誰と誰が、なぜ戦うのか。

ゼミで加藤周一『現代ヨーロッパの精神』が始まる。

この本に収められた論文が書かれたのは1956年から1959年。つまり書名にある「現代」は、今僕らが居る同時代としての〈現代〉ではない。書名の「現代」を別の言葉で言うとしたら「冷戦時代」だ。 この冷戦時代に書かれた「現代論」は果たして〈現代〉に届きうるのか。

もちろん、それは難しい。

たとえば、現在のシリアの状況は、冷戦時代から大きく変化し、複雑な様相を呈している。未だ政権を見限らない軍を要する政権勢力と反政権勢力の「内戦」、それに乗じたISの勃興、そこへ米仏露などが空爆する。誰が誰と戦っていて、誰が誰を殺そうとし、誰が誰を殺すつもりなく殺しているのか。例えばロシアはシリアにいる誰を、どんな思想を持った誰を空爆しているのか。そのロシア軍機を撃墜したNATOの一員であるトルコの真意はどこにあるのか。

こういった、国家の枠組みを逸脱する〈現代〉的状況が到来する前段階としての1950年代は確かにあって、その影響はいまだ消えていないことがはっきりしている。そういう意味でこの本を読んでみたいという気持ちが湧いている。

November 18, 2015

【245】「入りきらない人」の時代。

〈現代〉とはどういう時代か。

ということがより鮮明に現象として現れているなと思うことに、アノニマスのISへの宣戦布告がある。

アノニマスが「イスラム国」にサイバー攻撃予告、パリ襲撃受け」ロイター

アノニマスは中心やリーダーを持たない。自分がアノニマスだと思えば、アノニマスである。しかし、アノニマスはこの声明で、自分たちが「legion=軍隊」だとしている。(原文はぼくには理解できないので抜粋された翻訳から)

アノニマスの「攻撃」がどのような結果をもたらすか、あるいはもたらさないかについては、ここでは問題にならないし、アノニマスが正しいか間違っているかを論じたいわけでもない。

アノニマスのlegionは、軍隊が国家のためにあった時代は終わったということを意味している。アノニマスが何を守っているのか、しいて言えば「表現の自由」といった思想ぐらいには思える。しいて言えばといったのは、「表現の自由」というのがどういったものとしてアノニマスの〈全体〉を規定しているのか、なかなか読み取れないからだ。それでも、もし仮に「表現の自由」のための「軍隊」だとすれば、その「隊員」は全世界のあらゆる場所にあらゆる民族として存在するだろう。

このアノニマスが、ISという国家として成立しているかどうか未確定な何かに対して戦争する。

これは現代というものの一つの尖端なのではないか。

アノニマスと同様に、実はISというものも、自分がISだと思えばISなのではないか。だとしたらISは、実効支配地域とされている地域外にも、世界中にあらゆる民族として存在するのではないか。

日本的に言えば自分を含んでくるんでくれるようなものとしての、西洋的にいえば自分が立っている場所の基盤としての、〈国家〉は、いよいよ相対化されつつあるように見える。〈現代〉を、そういった〈国家〉のような「自分をくるむ袋」「自分が立つ基盤」がすべて相対化されてしまう時代だと考えると、この〈現代〉において生じていることとして「テロ」を捉えたほうがいい。ISであれ、アノニマスであれ、その集団的非合法活動を指して「テロ」というなら。

もしも、「テロ」を無くす方法があるとしたら、この〈現代〉においての現象としてとらえなおしていくぐらいしかないんじゃないかと思う。〈近代〉あるいは〈前近代〉の国家観からではちょっと届かない気がする。

「テロ」は、〈近代〉国家に寄った世界の有り様に対して、そこに入りきらない人が、〈近代〉国家の有り様に反撃をしているように思える。そして、〈現代〉という時代では、「入りきらない人」という自覚は、世界中の人にじわじわと浸透しつつある。そういう意味で「入りきらない人」の「入りきることを前提とした有り様」に対する先鋭化した行動としての「テロ」はより力をつけていくとも言える。同時に、もし「テロ」をなくすとしたら、世界中の人に浸透しつつあるその同じ「入りきらない人」という自覚をより深くとらえることにあるのではないかなとも思う。

November 17, 2015

【244】「民間人」とは誰か。

「ISへの空爆によって、民間人が死傷した」というような場合の「民間人」は何を示しているのだろう。普通に読むと、ISの「国民」のうち武装していない人、のように読めるけれど、実際にそういう人はいるのだろうか。

ぼくがこの文章を読んで最初に思うことは、この「民間人」は、「ISの実効支配地域に住んでいて武装していない人」という程度のことだ。そして、ここでいう「ISの実効支配地域に住んでいる人」というのは、必ずしもISの「国民」とは限らないのではないか、とも思う。ここでいうISの「国民」というのは、ISの思想に積極的にしろ消極的にしろ同調しているということだけれど。

最終的にこの文章からぼくが読み取るのは、この場合の「民間人」というのは、ISの「国民ではない」のじゃないか、ということだ。だとすれば、冒頭の文章は「ISへの空爆によって、非武装のIS以外の国民が死傷した」ということになる。

November 12, 2015

【243】『おもひでぽろぽろ』

これは名作ではないか。

27歳の主人公の女性が10歳の頃を思い出しながら物語は展開する。「田舎」に憧れ、10歳の頃には存在しなかった「田舎」を自ら作り出していく。

前半は、10歳の自分の記憶は単に感傷的な思い出にすぎない。それが変質するのは、本家で嫁に来ないかとおばあさんに言われたところからで、ここから現実が揺らぎ始める。一旦崩壊を始めた現実は急速に崩れだし、その裂け目から「思い出したくない過去」として封印していた記憶が突如「アベくん」として出現する。その瞬間、現実はその確実性を完全に消失している。

それ以降、もはや、思い出としての「子供の頃の記憶」は遠く隔たったものではなく、現在に直接接続され、27歳と10歳は同一人物として同時に歩き出す。10歳は歩かなかったはずの「その後」を踏み出す。

この感覚を観る者に引き起こされるために、作画と発声はかなり厳密に描かれる必要があったはずだ。ふとしたときに現れる仕草、姿勢、ため息などで、高畑勲はこの少女がこの女性になったのだ、と自然に思わせることに成功している。観る者に意識できるかどうかぎりぎりの表現で、二人の重ねあわせを実現している。だからこそ、27歳と10歳は接続されうる。

僕たちは常に過去から切り離されている。思い出として、過去の出来事として、それを遠くに、もう戻ることができない、ただ脳裏に写しだされた景色として眺めてしまいがちだ。時間が離れれば離れるほど、その隙間に悲しさが埋め込まれていく。しかしふとした瞬間、過去は、まるで今がその時であるかのように思えることがある。



November 9, 2015

【242】下世話に、露骨に。

下世話に、露骨に。
そのうえ、無様で、滑稽で。

円も螺旋も描けずに、
ただただ巻き太っていく
デタラメに巻いたいびつな糸巻き。

時々芯棒がずるりと抜けそうになって、
だらりと垂れ下がった糸の輪を
上から無理やり巻き込んでいく。

膨大な資源を浪費した盛大な堂々巡り。

そういうことを真面目にやっています。

November 8, 2015

【241】最も弱い思想。

もう少しでそれが何かわかりそうと目を開き、それを掴みたいと手を伸ばし、身を乗り出し、踏ん張った途端、その踏ん張ったところが崩落していくのはいつものことだ。盤石だと思っていた現実がウエハースのように砕けていく感触を足の裏で感じる。バランスを崩して倒れこむように自分の足で開けた穴に投げ込まれていく。破片が舞い上がるのを唖然と眺めながら、背後にゆっくりと倒れこみ、前を向いていたはずの視線は、空を向く。ようやく崩落が終わるとき、強く全身が打ちつけられ、何かを掴むという意思は息絶える。

現実はそれが確かであってほしいと思うまさにその瞬間、もっとも脆い。意思が息絶えたあとの空白の時間だけが強固で、今度こそ危なかったと言い遺して眠る。やがて新たに意識となっていくだろう先触れがうっすらと漂い始め、霧となり、雲となり、まとまって、輪郭を持ち出し、その輪郭を確かなものとして掴もうと目を開き、そして。

すべてのものを突き通す矛で誰よりも激しい一撃を突き、すべてのものを受け止める盾で誰よりも堅く受け止めるのは、誰よりも僕だ。矛と盾とを持ち替えながら、どこまでも続く袋小路を前に前に進んでいく。曲がったはずの角は、いつまでも見えない。

ただ矛と盾のあらゆるところのあらゆるところに、痛く痛い美しく美しい傷が残った。

というのがポストモダニズムなのかな。

November 6, 2015

【240】自己表出の瞬間。言語とは。

ぱーちゃんのブログを読んでぞっとした。
ぼくにとって書くことや話すこと

これはまるで僕が書いたのではないか、と思ったからだ。

こういうときに、人間関係に重きをおく人はおそらくこう見立てるだろう。

ぱーちゃんと大谷は友達だ。
これまでにたくさんの言葉を交わした。
特にこういった表現にまつわるようなことについて交換している。
ぱーちゃんの考えが大谷に、
大谷の考えがぱーちゃんに、
相互に影響を与え合っているのだ。
その結果、二人の考えていることは融合し、
ぱーちゃんと大谷は一つになっているのだ。

と。

でも、僕はそう思わない。

もちろん、ぱーちゃんと僕との間での相互影響はあるだろうけれど、
だからといって、ぱーちゃんと僕とは同じではない。
たとえ、どれほど濃厚な人間関係があったとしても、
書くという表出において、
ぱーちゃんの書いたものが「まるで僕が書いたかのように思える」ようなことはそう簡単には生じ得ない。

人間関係の融合で説明できるせいぜいの射程は「ぱーちゃんの書いたものは僕が考えていたことと同じだ」「ぱーちゃんの文体は僕の文体と同じだ」程度のことにすぎない。

そんなに言語は甘くない。
言語はその程度のものではない。

関係性による解釈は、自己表出を見ていない。
その点において、
言語を愚弄している。
人を愚弄している。

November 5, 2015

【239】〈僕〉と自然。

〈僕〉以外はみんな自然だと思っている。

〈僕〉というのは、「僕が」という時の最初の意識のまとまりとしての自己で、大谷という人間を指しているわけではなく、単に「僕が」と書き始める時の〈僕〉のこと。
自分の体も自然の一部だし、他人も自然の一部で、
庭の草や木や石とかわらない。
それぞれがそれぞれの特性をもった自然。

晴れている日は洗濯物が乾きやすい。
雨の日は洗濯物が乾きにくい。
洗濯物は乾いてほしいことが多いので、
だいたい晴れている日に干せばいい。
そんなにすぐに乾いてほしいわけでなければ、
雨の日に洗濯してもいい。
乾くことなんてどうでもいいときは、
いつでも洗濯すればいい。
洗濯したいのであれば。

〈僕〉が規定しさえしなければ、自然は何も拘束されない。

自然の一部である他人もそういうふうに〈僕〉には思えている。

〈僕〉にとって最後まで不自然な〈僕〉というものだけを〈僕〉はどうにかするのだけど、それはすべての自然と〈僕〉との一対一のやり取りになる。

October 22, 2015

【238】目には見えない巨大な生き物。

人が全身で書いた文章を読むのは本当にゾクゾクする。気の利いた言い回しや面白い切り口、わかりやすい言葉、なんてものをすべてうっちゃって、そういう小手先の技で届く範囲を遥かに超えてただ歩いて行く。一文字一文字の文字それ自体によってその文を一から構築していくような文章は素晴らしい。

それがすでに著名な人の本であっても、その思考を一文字一文字追うように読むのはとてもスリリングだ。しかしもっともっと面白いのは、自分のすぐ近くでその思考を今まさに一歩一歩進めていっている最中の人の文とともにあることで、編集という仕事の醍醐味はここにある。

何か巨大な生き物がゆっくりといっときも休むことなくどこかを這っている。誰もいない荒れ地に、その巨体を引きずった跡が長く地面にひかれていく。それがそのまま本になる。

そろそろはじめる。

October 14, 2015

【催し】「読む・書く・残す」探求ゼミ 第2期

第1期のときもそうなのですが、
小林健司さんの案内文がすごいです。

毎回、もうこれで終わりかもしれない、
もう僕なんかいなくても「探求」はできるんじゃないか思いながら、
やっています。

===
10年以上、誰かの書いた文章に手を入れる「編集」を
仕事にしてきた大谷隆さんの見方を手がかりにして、
集まった方々と「読む」ことを再発見していきます。

現代の日本では、言葉は情報を伝えるための道具として
使われることがほとんどです。

しかし、よくみていくと、言葉は
「書き手の見ているものを形にした表現」でもあります。

辞書通りの、社会で約束された意味の、言葉としてではなく、
「書いた人にしか見えないなにか」を記した表現として
言葉を見ていくとき、そこには全く新しい景色が広がります。

大谷さんは、そのように文字を読むことを
「古文書のように読む」と言います。

「何世紀に、誰が、何の目的で書いたのかわからない文書が
目の前にあるとして、その人が何を見て、何を伝えようと
この文字を書いたのか、一つ一つを読んでいく。」
と言います。

何人かで集まってそのように読んでいくと、ふいに、
書き手が見ていた世界や捉えようとした質感、ときには
筆を走らせる息づかいまでが感じられるときが訪れます。

果たしてそれは妄想や空想の類いなのか、
僕自身はこれまで書き手とともに検証してきた結果から
それが現象的な事実だと確信するようになってきましたが、
今回も引き続き検証を続けていこうと思います。

言葉と文字の再発見の旅路をご一緒してくれる方を募ります。

小林健司

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▶日 程:第1回 11月14日(土)
     第2回 12月5日(土)
     第3回 1月16日(土)
     第4回 2月13日(土)
     第5回 3月12日(土)
     第6回 4月16日(土)
     第7回 5月14日(土)
▶時 間:各回12:00~17:00
▶内 容:参加者の中からお一人、じぶんが書いた文章を
     持ち込んでいただき、「読ん」でいきます。文章の
     持ち込みを希望する場合は、申込時にその旨お書添ください。
     (申込多数の場合は通し参加の方を優先した上で先着順となります。)

▶場 所:スタジオCAVE(大阪市西区)
▶主 催:小林 健司
▶講 師:大谷 隆
▶参加費:通し参加21000円(単発参加は1回4000円)
     
▶定 員:6名程度
▶申込先:fenceworks2010■gmail.com(■を@に変換してご利用ください)

October 12, 2015

【237】『はてしない物語』。喩の逆作用。

まるネコ堂ゼミで『はてしない物語』を読んだ。
ファンタージエンの地理の特殊な点について説明しておく必要があるだろう。ファンタージエンでは、陸や海、山や河が人間世界でのように固定した場所にあるのではない。だからたとえば、ファンタージエンの地図を作ることはまったく不可能なことだ。(略)この世界では計ることのできる外的な距離というものはなく、したがって、「近い」とか「遠い」とかいう言葉も別の意味を持っている。それらはすべて、それぞれに定められた道を歩んできたそのものの心の状態と意志しだいなのだ。ファンタージエンには限りがないのだから、どこでもその中心になりうる。[219]

こんな記述が出てくると、読んでいる者はちょっとびっくりして、一体どうなってるんだ?と混乱する。距離って何だ?方向って何だ?

しかし、ここでいうような〈距離〉は、僕達が普段から慣れ親しんでいるものである。
言語とは何かを問うとき、わたしたちは言語学をふまえたうえで、はるかにとおくまで言語の本質をたどってゆきたいという願いをこめている。(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)
というような表現はよくあるし、この「とおく」は確かな像を結ぶ。人間関係を表すときにも〈距離〉を使うし、物事の考え方に〈方向〉をあてることもある。

他にも、アトレーユの愛馬は憂いの沼で絶望に陥り死に至り、女魔術師サイーデの操る中身がからっぽの黒甲冑は操るものの意志の力で動き、霧の海を渡るイスカールの船は思いの力を完全に一致することで推進力が生まれる。こういったことは、すべて僕達が喩として慣れ親しんだものである。エンデは、文学や日常言語において使われる喩を物語内世界の科学法則に逆作用させることで、豊かで魅力的な物語空間を作り上げている。

エンデが本書を通じて、本書そのものを使って、最も大きく喩の逆作用を発揮させている対象は〈自分の物語〉である。〈自分の物語〉を描くということに伴う孤独、絶望、勇気、友、愛などを文字通りの〈物語〉として描き出している。読者は、アトレーユとバスチアンという二人の少年の物語を読むことで、喩としての〈自分の物語〉を意識する。

ここで注意しなければならないのが、〈自分の物語〉という言葉から直接的に連想される「人生」「ライフワーク」といったものが前提としている時間の取り扱いだ。

本書で大きな物語を描き上げたバスチアンは10歳か11歳だし、アトレーユも大人になる直前の少年である。アトレーユの大いなる探索は、数週間といったところで、バスチアンに至っては数日の出来事である(ファンタージエン内ではもっと長いが)。90歳の老人が自分の人生を振り返って物語を語っているわけではない。

古本屋のコレアンダー氏が、ファンタージエンから帰ってきたバスチアンに、
新しい名前をさしあげることができれば、きみはまた幼ごころの君にお会いすることができる。何度でも。そしてそれは、そのつど、はじめてで、しかも一度きりのことなのだよ。[588]
と話しているように、〈自分の物語〉は、いつでも、何度でも描くことができ、それは、その都度、初めてで、一度きりのことなのだ。そして、その物語を描くのに必要な時間は数年か数日か、あるいは数時間か、あるいは一瞬かもしれない。

「瞬間は永遠です」というモンデンキントの言葉を今、思い出す。


October 6, 2015

【236】僕の原爆。(11)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)
【233】僕の原爆。(8)
【234】僕の原爆。(9)
【235】僕の原爆。(10)

===
秋田に行くと、僕の誕生日なのに、なぜか弟も一緒にお小遣いをもらった。僕のは小さく折ったお札を紙に包んだやつで、弟のは硬貨だったのが救いだった。僕達が着いた日の夜は、和風レストランから大きな寿司桶に入った寿司が届いて食べたりした。残り物のタネらしく、とても偏りがあって半分ぐらいがマグロの赤身だったりする。寿司は大好きでそれでも喜んで食べた。親戚が近くで洋食のレストランをやっていて、そっちは単にレストランと呼ぶのだけど、レストランからはエビフライやカツがどっさり届いた。そういったご馳走をおじちゃんの家に親戚が集まってみんなで食べる。僕の誕生日ということのはずなのに、僕が特別な感じがしなくて、よく僕の誕生日なんだからと母に愚痴をこぼしていた。いつだったか、おじちゃんが誕生日プレゼントにおもちゃを買ってやるというので、商店街のおもちゃ屋に弟と一緒にいって、何でも好きなのを選べと言われた。僕は15ゲームを選んだ。15ゲームというのは、正方形のプラスチックの枠に、その枠を16等分した小さなパネルが入っていて、それぞれに1から15までの数字と残りの一つは星マークなんかがついていて、その星マークのパネルを取り外して、残りの15枚のパネルをそのひとつ空いたところで順番に指で移動させていって、1から15の番号を縦に並べたり、横に並べ変えたり、ぐるりと渦を巻くように外からだんだん数字が大きくなって、真ん中のところの4枚が13、14、15、空白になるようにしたりするおもちゃで、ほんとにこれでいいのか?とおじちゃんにきかれた。いい、と僕が言って、今度は弟がずっしりと重量感のある電車の模型を買ってもらい、家に帰るとおじちゃんが、隆は安くてこの電車で10個ぐらい買える。とそこにいた人に言って回った。そう言われるとなぜか悔しかったのだけど、僕は15ゲームをその後もかなり長い間しつこく遊んでいて、弟は比較的早く電車に飽きたから、ほらやっぱりこれでいいと、今でも僕は思う。

おじちゃんは、僕が小学校だか中学だかの時に、夜遅く一人で店の事務所で倒れて発見された時には死んでしまっていた。お葬式は盛大で母や親戚はみんな泣いていたが、僕が覚えているのは、火葬場のゴーゴーいうバーナーの音で、こっちでは焼いているあいだじゅう炉の前にみんないて、炉の前のコップの水を取り替え続ける。子供だったからか、おじちゃん熱くて喉が乾くから、と何度も水を取り替える役を僕がやらされた。水のコップを置く台は炉の入り口の蓋のレンガのすぐ前にあって、近づくと熱さが伝わってくる。ゴーゴーという音も激しくなる。コップの水ぐらいでなんとかなるとは思えない。体格のいい人だったから焼けるのに時間がかかった。飽きてしまって落ち着きが悪くなって、時々火葬場の外に大人に連れ出されるのだけど、外にでると気になるのは煙突で、そこから煙が少し出ていて、おじちゃんを焼いた空気がどんどん外に出ておじちゃんだったものが外の空気に混じっていく。それを僕が吸う。世界中のみんなが吸う。でも、この記憶は、おじちゃんの時ではなくて、おじちゃんの母である、つまり料亭の女将をやっていた曾祖母の時かもしれない。あるいは親戚のおばちゃんの時かもしれない。僕は子供の頃は、あったであろう親戚の結婚式には全く連れて行ってもらえず、お葬式ばかりだった。

次へ。

【235】僕の原爆。(10)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)
【233】僕の原爆。(8)
【234】僕の原爆。(9)

===
そういうことをなぜ覚えているかというと、毎年ちょうど誕生日の頃に、僕は夏休みでもあるので、10日ほど僕は母と秋田へ帰っていた。実家は商店街の酒屋で、店に入ると独特の、酒とコーヒーと乾物が入り混じったような匂いがしている。左手の棚に酒が並んでいて、いつだったか、秋田沖で地震があった時はそれが全部落ちて割れて、店中がアルコールだらけになったらしい。それ以来、棚の酒瓶の前に細い鎖が取り付けられていて、しかし、それでまた同じような地震が来た時に瓶が倒れないですむとは僕には思えなかった。あの地震があった時は僕は宇治の家にいて、津波が来たらしく、浜の松の防砂林がそれを防いでくれたというような話を聞いた。浜の松は強い風でどれも同じ角度で斜めになっているのだけど、津波というとその上を越えてくる波を想像して、そういう大きな波も防いでくれるものだろうかと、これも半信半疑だ。

秋田へ行くときは、京都駅を夜の9時とか11時に出る日本海という名の夜行列車に乗る。僕が秋田へ行くのが楽しみなのは、日本海に乗れるからというのも大きくて、乗ると、京都から行くときはもう寝台になっている。二段か三段になっている寝台の二段目は、上下に動くようになっていて、朝になると車掌さんかだれかが二段目を上に上げて1段目の頭の上を広くして、つまり、一段目を座席にする。11時ごろの出発の時は、もう周りの寝台は寝静まっている。寝台に入ると紺色の分厚い生地のカーテンを閉めて、小さな空間を作って、荷物を足元の通路側においておいたり、通路の上の部分にある棚のようなところにまとめて家族分をしまったりする。でも、その棚にしまってしまうと、取り出すのが難しく、だいたい降りる時まで取り出すことができない。だから、僕は、夜、乗っている間に荷物の中身を出したりしたいから、寝台の足元に置くか、すぐに取り出せるように、棚の寝台の近くに置く。二段目や三段目、一番上の段は天井が丸くなっていて、列車から降りた時に外から列車を見てあの丸いところだ。荷物と言っても、京都駅の売店で買った帆立の貝柱、酢昆布、冷凍みかんだ。冷凍みかんは冷静に考えるとそんなに好きだというわけではなかったけれど、冷凍みかんというのが普段は見かけないもので、列車で長時間移動する人のために駅の売店で売っているもので、それがこの日本海の旅と僕には直結していて、よく家でみかんを凍らせて、凍らせたほうがおいしいと言って食べた。帆立の貝柱と酢昆布はもっと純粋に好きで、僕はこういう旨味成分が凝縮したようなものがそのころから好みで、それらをちびちび小さく裂いて食べる食べ方も好きだった。

車両の前か後ろにあるトイレと洗面台がある場所に行くと冷水機がついていて、小さな切符ぐらいの大きさの白い紙の封筒のようなものが備え付けてあって、それの両端を親指と中指でつまむようにして口を開けて、冷水機のボタンを押して、水を入れる。封筒は小さく、指でうまく広げておくのも難しいし、列車も揺れるからうまく入れられずにこぼす。冷たい水が手を伝って床にこぼれる。封筒から飲むときもうまく飲めずにこぼす。封筒の紙の匂いがする。封筒の紙は一度の利用だけを想定されているようで、何度も水を入れようとするとへにゃっとなって余計に難しい。連結器のところがギーギーと音がするのがやけに近い。そういう不便さや粗雑さや機械や鉄や重厚さや冷たさが夜の寝静まった静けさに包まれていて、僕はそういうものを全部、困難で怖くて、同時に好きだ。何度も父にせがんで水を飲みに冷水機のところへ一緒に行った。翌朝になってしまうとその大半が失われて、水を飲んでもつまらなかった。父が一緒に日本海で秋田へ行ったのは、僕が小さいころで、中学ぐらいになると父はあまり秋田へは行かなくなった。

次へ

【234】僕の原爆。(9)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)
【233】僕の原爆。(8)

===
献花台の前からは、いつもは無いだろう柵が並べられていて、そのまま前に進むことはできない。仕方なく、ぐるりと左手に回りこむようにして、また資料館の前にたどり着く。水を配っている。ちょうど喉が乾いていたし、この暑さだと水を飲んだほうがいいと思って近寄ると、給水所を示す看板にどこか不似合いな手書きの紙が貼り付けてある。水をください。水をください。そう言い続けて死んでいきました。代わりに生きている皆さんが水を飲んであげてください。ここでは何もかもが70年前に直結している。今ここにある現実は、紛れも無く現在だけど、1945年だ。太いパイプで結ばれているすべての8月6日は、いつも暑く、いつも重い高圧の中にある。毎年毎年決まって暑い夏の日だ。

僕も、いつも誕生日は暑い。1971年8月4日午前0時4分は、秋田の今はもうなくなった病院で、秋田でも日中30度を超えた。蒸し暑く、窓を開けていて、遠くからお囃子が聞こえてきていた。この時期、ここでは七夕と呼んでいるお祭りがある。たぶん、東北が制圧された時の、制圧した側か、された側の出陣か凱旋のお祭りで、城をかたどった大きなねぶたが街を練り歩く。一番上は口を大きく開けて牙を向いた魚が二匹、逆立ちするように立っていて、その二匹の大きな目が、ねぶたを前から見ると、2つの目に見えて、だから僕はずっと、それが二匹の魚ではなく、唇が頬まで裂け上がった一つの大きな顔が正面を睨んでいるように見えた。その2つの目がちょうど二匹の魚のそれぞれの目で、天に向かって尖った針のような尾びれは、耳かあるいは逆立って髪の毛で、その顔は怒り狂っていると同時にニヤリと笑っている。今はねぶたの中は電球で明るいが昔はろうそくが中で灯されていたはずだ。電球を灯すために発電機が積まれていて、ねぶたが通り過ぎるときにそのブーンという音が聞こえる。

柳若と書かれている、柳町が出しているねぶたがうちのねぶたである。毎年、どこの町が出すか、出すにはお金がかかるから、毎年出せるわけではなく、ねぶたの数は年によって違う。当番町も持ち回りで、当番になると町の人が張り切る。もちろん、お囃子を聴いた話を何度もしたのは母だけど、その時に生まれているのだとしたら僕も聞いたのだろう。僕の大叔父さんは、この七夕が大好きで、僕たちはただおじちゃんと呼んでいたけれどおじちゃんがゆかたを着て提灯を持って、ねぶたの前のところに立って、提灯を上げ下げしていた。おじちゃんが社長をやっている元料亭の和風レストランと洋風レストランと喫茶と宴会場がいっしょになった僕たちは単に店とかプラザとか呼ぶビルが実家の酒屋の向かいにあって、そこをねぶたが通るときに樽酒や氷水につけて冷やしたビールをねぶたの引き手や太鼓の男たちに店の従業員が振舞っていた。

次へ

【233】僕の原爆。(8)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)

===
立ち上がるのも歩くのも億劫だったのが、ようやく周りの席の人たちもまばらになって、会場から離れられる気分になった。もともとこの日は、式典の後、むっきーとは別行動をすることにしていて、僕は午前中のまだ涼しいだろう時間帯に、大手町の祖母と父の家のあった場所と西観音町の祖母の実家のあった場所に行こうと思っていた。むっきーは、式典の後、僕と別れて、呉の戦艦大和のミュージアムに行ってこようと思っています。その後、広島駅で3時に合流しましょう。そういうつもりだった。そうして、午後3時頃に広島駅から、また7時間ぐらいかけて京都に帰ってくる。

けれど、僕には、もう、次の予定というものに向かう力がなくなっていて、とにかくどこかへ行くか、何かしたいと思っているにもかかわらず、どこにも行ける気も、できる気もしなかった。だから、むっきーが、資料館見たいです。といった言葉に従っていた。しかし、資料館の入口には三重ぐらいの長い列ができていて、すぐに中に入れそうにない。列に並んで、たとえ短い時間であったとしても、ただじっとしていることには耐えられそうになかった。そうして僕たちは、また、行く宛がなくなった。ただふらふらと平和公園の木々の中を、日陰だったからという理由だけで、歩いて、元安川を眺める場所にあったベンチを見つけてそこに座ることにした。ちょっと座りましょう、というむっきーも僕同様に疲れ果てていて、重たそうに体を引きずっていた。しかし、椅子に座ったところで、体の中のざわつきは収まることがなく、少しでも言葉としてそれを体の外に出したほうがいいと思うのだけど、むっきーも僕も何も言えない。ベンチに陽があたっていたこともあって、8月の日差しの中にいるのがつらかった。ほんの1分ほどベンチのところにいただけで、また二人して歩き出していた。

不意に、むっきーが手に持った献花用の花を、これどこですかね。というので、たぶんモニュメントのところに献花台があるんじゃないかな、とそのまま再び会場の方へと向かう。会場の真ん中あたりの椅子がどかされて広い通路ができていて、資料館側からモニュメントまで伸びている。そこを通って歩いて行くと、コンクリートの馬の鞍のようなモニュメントが真正面に見えてきて、近くを歩いていた白人の青年がカメラをそちらに向けて構えている。あぁ、そうかと思って、僕もiPhoneで写真をとってみる。モニュメントをくぐって向こうに景色が少しだけ見える。思った通り献花台がしつらえてある。僕は花を持っていないから、モニュメントの下にある石板に刻まれた言葉を読んですぐに脇へどく。もう二度と、というその誓は、どこまでも遠くへ伸びている。今この瞬間も道程にあって、その起点は70年前の、ついさっきだ。

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【232】僕の原爆。(7)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)


===
なめらかな川面が、岩に近づいていつの間にか流れを変えているように、気が付くと式典になっている。その中にいると、ただ不意に自分の周りの空気が狭くなる。ぎゅうっと流線が絞られて前方への方向性が生まれる。コンクリートの巨大な馬の鞍のようなモニュメントが見えてくる。むっきーに、そのモニュメントの方向を説明するのだけれど、むっきーには見えないらしく、どこですかと言っている。そのモニュメントの前に小さな人影の頭の部分が現れて、挨拶が始まる。音声が非常にクリアに聞こえる。あるいはスピーカーの近くだからなのかもしれないが、これだけの人数が平らな場所に集まって、それでも全員が式典の内部であるのだと、集まった人すべてに思わせられるような舞台装置を知り尽くしているのか、とても明瞭で力強い言葉が聞こえてくる。

話しているのは、広島市長や県知事や子供代表で、こういった式典での挨拶というものが、だいたいは通り一遍のものであるという僕の先入観を、静かに押しつぶしていく。70年前の出来事を悲しんだり、思い返したりするのではなく、現在においてもその出来事がこうしてこの瞬間も起こっているのだ。8時15分の黙祷がその証拠ではないか。今も同時にこれだけ沢山の人が同じ暗闇にいて、否応もなくこの高圧の空気にさらされている。どの挨拶もよく訓練された話し方にも聞こえるが、きっとそうではなく、どうしようもなく、たったいま、この瞬間に吐出されている力強さなのだ。その力強さは、あの管楽器の低音のリズムと同じ、僕をどこかへ運び流していく。波打つ地面の上で、いつの間にか沖合まで流されていく。

僕は、どうしても消しさることができない思いが沸き立ってくる。それは、平和のための式典であるにもかかわらず、いや、平和を望む声が力強くあればあるほど、具体的で現在というものを見据えているということが強く伝われば伝わってくるほどに、どうしても僕には、ある想像が生まれてしまう。もしも、戦争というものがはじまるとしたら、戦争というものに僕が運ばれてしまうとしたら、それは逆らいようのない力強さと、逃れようのない具体的な現在をともなって現れるに違いない。それは、地面が波打って、その上にいるものすべてを気づけば沖合の、もう、のどかな浜辺には戻ることができない、ただ、とにかくどこかへたどり着くためには潮流の中を泳ぎ続けるしかない、そんなふうなものとして、僕はただ戦争する。低く、一帯を蹂躙する乱れのない音が鳴り続けている。

式典の終わりが告げられたあと、僕はしばらく動けなかった。席をたつ人の列が、さっきとは逆方向に、僕達の後ろに向かって続いている。みんな一様に神妙に押し黙っている。白人の小さな女の子だけが露骨に疲れきって顔を歪ませているのが僕にはなぜか安心できる。僕もきっと疲れきって顔を歪ませてしまいたい。この場でうめき声を上げてしまいたい。むっきーが吐き出すように、来る値打ちのある式典ですねとつぶやく。確かにその通りだと思う。広島は僕の知らないところで、ずっとこうやって原爆の質感を鍛え続けてきた。長崎とともに、そうしなければならない最後の砦として、自分を位置づけてきた。その覚悟がこの硬質な質感を生み出している。爆発の瞬間に表裏が一体となってしまった戦争と原爆、その質感を今もまざまざと保持している。原爆の質感を維持することは戦争の質感を維持することでもある。9日後の終戦が、十字架のように、今も原爆=広島に背負わされ続けている。70年もの長い凪を経て、ようやく、僕にも原爆が落ちた。並べられたパイプ椅子に座らされたまま、多くの小学生や中学生、様々な民族、人種、国籍の人とともに、身動きできない僕たちの上に。

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【231】なぜ書くのか。

なぜ愚にもつかないことを書くのか。

僕は考え事を止めることができない。僕にとって、世界はただ在るだけで刺激に満ちていて、風が常に僕に考え事の種を運んできてしまう。次から次へと運ばれてくる種が芽吹き、伸び、葉や花や実をつけていくのから目を離せなくなる。そんな植物が常にいっぱい生えていて、いつも少しずつ変化し続けている。

はたから見ればただぼーっとしているようにしか見えないだろうけれど、そういう時の僕は静かに狂気が進行していて、絡みあう蔦なんかが繁茂しだすと、だれかどうにかしてくれと思う。でも誰もいないからただ困って見続けている。

現実の物理的な僕の体はこういう時には、ゆっくりと停止に向かっているようで、特に内臓活動はかなり緩慢になる。お腹も減らない。お腹が減っているかどうかを意識することができない。

こんなことをしていると、僕は生活できない。生活というのは、食べることであったり、何か役に立つことをすることだったり。

それで、なんとか生活に戻ろうとするときにするのが、最終的に、書くことだ。

書くというのは、その植物たちの様子を写生するようなもので、そのためには細かく一つ一つ見る必要があって、スクリーンに写っているものをぼんやり眺めているというよりは、一つ一つに接近していくという指向性が生まれてくれる。

そうして近接的に見えたものをシーケンシャルに言語化していくことで、ひとまず僕は、その一つ一つから自分を引き剥がしていける。そして生活に戻れる。

こういうときに書いたものは愚にもつかない。だけど、僕には必要なんだと思う。そういうものを自分のノートにそっと書き留めておくだけではダメで、こうしてわざわざ外に見えるようにしておくのは、自分のノートに書き留めておくということと、ずっと眺めているということが近すぎて、自分を引き剥がして生活へ戻れる力にならないからだと思う。はた迷惑な話だと改めて思う。

【230】「人間の基底」に関するメモ。

メモとして。

考え事が僕というものをこの世界から切り離し続けている。
考え事が終われば、僕はこの世界に再び戻り僕は世界に統合される。

考え事が始まる前は、この世界に僕という輪郭は、その他の全てと同様に、形作られていない。考え事をした瞬間、〈僕〉が抽出され、その〈僕〉が、ただひとつの世界に対峙するものとなる。

この〈僕〉というのに〈我〉という名前をつけて、この〈我〉を消すという大きな挑戦をしているのが仏教だ。自然というものの原点を、世界からまだ〈僕〉が分離されていない状態だとすれば、自然から見た仏教は、すでに〈僕〉が分離されてしまっている状態から統合的な状態への逆過程を、〈僕〉によってなそうとしていることになる。もちろん、そもそもそんなことに努力する必要はなく、ただ考え事を止めればよくて、その一番簡単な方法は死だということになる。

〈僕〉に対峙する世界に対して、それを意思するものを前提して、〈神〉と名づけられたりもする。その場合、世界は〈神〉と同一で、全ては〈僕〉と〈神〉だけになる。近代の個人というものは、この〈僕〉が〈神〉を上回ることで発生する。自然というものの原点から見た〈神〉への違和感は、自然から〈僕〉が分離し、その〈残り〉のものに〈神〉というラベルを貼り替えていることに端を発していて、そんなことをしなくても、もともと自然は一つだ、となる。

人が何かをしようとするときに発生する〈意識〉というものは、〈僕〉の発生プロセスを〈僕〉の外側からの視線を前提して名付けたもので、〈僕〉が発生したあとは、〈僕〉によってその外側からの視線を代行できるようになる。

「人間の基底」をどこに置くかということは、吹いている風の一瞬を捉えて「最大風速」を観測するような感じがあるけれど、僕にとっては、この〈僕〉の発生するあたりの小さく見れば刻一刻と風向風速が変わっている風の発生そのものがそうで、だからここからというよりは、その風が吹き続けていることが人間の基底と思える。

October 2, 2015

【229】10月31日まるネコ堂・なっちゃんの影舞、ご案内

影舞をやります。
影舞というのは、これまたなかなか説明しにくいものなのですが、
二人の人が指先だけを触れ合わせて、自由に動く、そんな舞です。
なっちゃんと僕の案内文、
お読みいただけると幸いです。

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▶日にち :10月31日(土)
▶時 間 :13:30-17:00
▶場 所 :まるネコ堂
      京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
▶アクセス:JR奈良線・京阪宇治線「黄檗(おうばく)駅」から
      徒歩15分ほど。坂道を登ります。迷いやすいです。
http://marunekodosemi.blogspot.jp/p/blog-page_7.html

▶世話人 :小林直子
▶参加費 :3000円
▶定 員 :6人
▶主 催 :小林直子、大谷隆

▶申し込み:marunekodo@gmail.com(大谷隆)まで。
注意:猫がいます。会場には入れませんが普段は出入りしています。
   アレルギーの方はご注意ください。

翌日から「二泊三日 まるネコ堂円坐」(守人:小林健司さん)があります。
http://www.fenceworks.jp/info.html#/detail/7241572692591428820
こちらもご覧ください。会場での宿泊が可能です。(雑魚寝、寝袋有り)


========

なっちゃん(小林直子さん)は書いている。
影舞は、相手の指先と自分の指先を触れ合わせる。触れているその間に蝶をはさんでいるように、触れた一点に集中する。その蝶の羽が破れないように、放してしまわないように相手の指先にそっと触れる。触れたところから、舞がはじまる。[小林直子、『fence worksメールニュースNo.113』 ]
「触れたところから、舞がはじまる」のだから、触れる前に舞は無い。まさにその「触れた一点」から、舞がはじまる。その時、それまでは無かった何かが生まれる。
相手と自分の間に、ある空間が生まれるような感覚になった時があった。その空間に二人がいるような感覚になり、より心地よく、動くままに動いている自分がいた。[同]
二人がいるこの「ある空間」は、世界である。これを読むと、世界がどうやってはじまったのか、がわかる。

それまで無かった世界がはじまるというところは、薄い蝶の羽をはさんでいるような、その一点に、全てが集中する。集中したそれぞれの全てを触れ合わせることによって、その一点から世界が誕生される。全て、だからこそ、世界の中に再び居ることができる。

僕たちは、きっといつも、こんなふうに、他者と、お互いの全てがある一点で触れ合うようなこととして、であ(出会)っている。

なっちゃんは、影舞に対して「私には何も無い」と言う。それは、まだはじまっていない世界がどうであったかなんて、私には言えない。ということである。

大谷 隆

=======

大谷さんから
この企画のことをもちかけられたとき、
声をかけられた嬉しさと同時に
「わたしには何も無い」
そんな言葉が出てきた。

何が無いのかというと、

この影舞を通じて提示したい何かとか、
伝えたい思いとか、
こんなふうに素晴らしいものですよという完成された形とか、

きっと、そんなものが無い、のだと思う。

無いと言ってみて、
じゃあ、何があるのかと、考えてみる。

あるのは、

わたしが、橋本久仁彦さんが開いている
影舞クラスに参加し
影舞をやっている中で感じる面白さ。

その面白さは、
形にはなっていないもの、
わたしだけが見ている景色。

大谷さんは、
わたしにしか見えていないその景色を
面白そうだと言ってくれた。

大谷さんの放つ空間は、
静かで、ゆっくりとしていて、すごく丁寧な空間。
その中で、
わたしは、地に足をつけ、じっくりと
自分が見た景色を丁寧に言葉にしていくことができる気がする。

そして、
集まった方々と、影舞をしあう中で、
それぞれがそれぞれの中で見た景色を
じっくりと言葉にしあうような
そんな時間を過ごせるような気がする。

それは、
その日、その時間、その場所で
初めて生まれる世界。

そんな世界を
ご縁のある方々と一緒に過ごせることを楽しみにしています。

小林直子

September 29, 2015

【228】二周目の言語との出会い

前のエントリーで吉本隆明の最後(?)の講演のことに触れた。この講演、実はちょっと不思議な終わり方をしている。いっせんきゅうひゃくよんじゅうご(1945)年8月15日という日付から話し始めて、自身の芸術言語学について「自分なりに非常に特異な文学理論を作り上げた」と言い終えた後、「あいうえおかきくけこ」について唐突に話し始める。はじめてこの講演の音声を聴いたとき、これがとても不思議だった。予定時間90分だったのが3時間を超えてしまうわけで、 言葉悪くいえば、あぁ、大丈夫かなぁと。僕がもし会場にいたら、これ、今、吉本さんまずいんじゃないかなぁと思ったと思う。

でも、もう一度聞きなおし、読み直して、これはそういうことかと思った。

吉本さんは、自分の文学理論にたいして

「つまり、僕は、何十年かかって、その周辺のことを書いたり、しゃべったり、表現したりしてきましたけど、なんで、おまえそんなことを、そんな馬鹿らしいことになんか、生涯をもうすぐ費やすかもしんないですけど、」

といっていて、そのあと「自分なりに非常に特異な文学理論を作り上げた」 と(いったん)話し終える。つまりここで、吉本隆明は生涯を費やし終えたのだ。

そのあと「あいうえおかきくけこ」。

子供が学校で勉強を始めた最初に習うところだ。はじめて言語というものを意識する瞬間ともいえる。今まで親や周りの大人の口真似として意識せずに使ってきたコトバが、実はこういうふうになっていたのか、気が向くままに右に左にと折れ曲がりながら歩いて覚えてきたこの道路に町内会の地図看板のような見取り図があったのか。

だから、生涯を終えた吉本さんは、「日本語のこと、知らなかったんですよ」 ともう一度、言語に出会い意識に上らせたのではないだろうか。そうして、この講演で吉本さんは言語について二周目に入った、入っていることを示した。あいうえおかきくけこの次は、再び短歌に 出会ってその話をまたしはじめた。『言語にとって美とはなにか』を髣髴とさせる、いやそれよりもさらに深いところまで言語に顔を突っ込んで。

会場の雰囲気を代弁する糸井さんが割って入らなければ、吉本さんはそのまま、この場で肉体が終わるまでこの先を続けていって、うまくすれば最後はまたもう一度文学の理論を作り上げられることを目指した。

それは一周目と同じかもしれないし、違ったかもしれない。

【227】9月29日明け方の夢の話。網野さん、吉本さん、父親。

割と長い夢だった。その大半は思い出せないが、最後だけ鮮明に覚えている。

自宅近所、僕が通った小学校の前の府道を僕は歩いている。ちょうど小学校の前あたりを歩いていると、昔、文具店があったスペースが何か、教育関連の施設のようなところになっている。教育関連の施設という言い方をしたけれど、見た目は大衆食堂のような感じにテーブルが並べてあるだけで、教育関連だという感じは、その外観からというよりも、小学校のすぐ近くにあるということから僕の連想が来ているようだ。

そのテーブルのひとつに網野善彦が座っていて、向かいには施設の人が二人座っている。僕が歩いている歩道側からはガラスの引き戸ごしに網野さんがこちらを向いて座っているのが見えていて、施設の人は背中が見える。ガラス戸はあいている。ちょうど前を通りかかるときに、


「私もついに老人ホームに入ることになりまして」

という網野さんのぼそぼそした声が聞こえる。(現実の僕は、網野さんが「老人ホーム」に入っていたかどうかは知らない。)

それを聞いた僕は、あぁ、と思って、とても悲しくなって、その後小学校の敷地に入ると、前を歩いている友人に今見た出来事を話そうとして、泣き出す。その泣き方を見て友人が「まるで子供みたいに泣くなぁ」と言い、僕も自分が子供になった気分で両手の甲を目に当てて、わぁわぁと泣き続けた。

そして目が覚めた。目が覚めてもひどく悲しく網野さんの姿が思い出される。まぶたには涙がたまっている。

網野さんの姿は、両肩が胸のほうへ入り込んでいて、背中も丸くなって、着ているものもパジャマのような感じで、とても小さく見えていた。それは、僕の父親の晩年の姿に似ている。

父親に認知症の症状が出たとき、僕はとてもショックを受けた。進行していくその様子を見ていて、僕はなかなかその姿を父親だと認識できないというか、父親が変わってしまった姿として見ていたと思う。話をするときの話の内容の弱弱しさもとても父親が話していることとは思えなかった。

去年死んだときよりも、僕はそういう症状の父親のほうにショックがあって、今思えば、死んだことよりもそのことに悲しかった。死んだあと、父親のことを思い出すときは必ず若かったときの姿で、症状が出てからの姿をそれに接続することがしばらくできなかった。 死んでからしばらくしてようやく、あれも父親だったのだと思えるようになった。

夢に影響していると思うのは、夕べ寝る前に吉本隆明の講演のテキストを読んでいた。ネット上に上がっている「吉本隆明の183講演」の183番目で、その音声も昨日少し聞いていて、枯れた張りのない声だ。しかしこの講演は、すばらしい。

「つまり、偶然のように、ある人がある読者が、ある事を考え、偶然ある本を読み、そしたら、そこに書かれていることは、自分と同んなじようなことを考えてる人がいるんだなとを読者の人に思わせたとか、自分はこう思ったけれども、同じようなことを考えたんだけど、ここまでしか考えられなかったのに、この人は、もっとその奥を考えてるなということがわかったとか、そういう偶然と偶然の、それも、偶然と偶然との、しかも自己表現と自己表現のが、たまたま出会ったときしか、文学芸術の感銘っていうのは、ないわけなんですよ。それ以外の力っていうのは、あの、文学、芸術にはないわけですよ。」

自己表現と言っているけれど、これは自己表出と同じことで、つまりこれが、吉本の芸術言語学の根幹を成す。文学芸術と言っているけれど、これは講演の前半を聴けば、芸術全てに当てはまる。それをさらっと言ってのける。『言語にとって美とはなにか』と同じように、具体例をいくつも挙げながら、自分の仕事を明確に簡潔に、聞いた者(読んだ者)に鋭く 立ち上がる像を持って、話している。

「つまり、僕は、何十年かかって、その周辺のことを書いたり、しゃべったり、表現したりしてきましたけど、なんで、おまえそんなことを、そんな馬鹿らしいことになんか、生涯をもうすぐ費やすかもしんないですけど、」

そんな馬鹿らしいことに生涯をもうすぐ費やす。というところに、僕は打たれていたんだろう。そうして、父親が死んだときのことをもう一度思い出すと、認知症の症状が進んでいたけれど、身動きが取れなくなってもう死ぬというときのまさにその瞬間は、馬鹿らしいけどしょうがないからもう死のうと強く思って死んだ、と思える。

September 17, 2015

【226】格安SIM生活レポート(2)

自宅のネット回線をADSL回線からワイヤレスゲートの格安SIM+ルータに変更して約半月が経ちました。

格安SIM化にあたっての対策、過去のレポートはこちら。
【224】格安SIM生活レポート
【223】格安SIM導入による断続的接続への対策

約半月、パートナーの澪といっしょに使ってみていますが、
特にレポートするような問題は起こっていません。

もちろん、ウェブページの読み込みが遅くなったりはしていて、
調べ物なんかは、以前は、かなりしつこく調べていたのが
あっさり見切りをつけるようになったりはしています。
でも、そういうことがネガティブな感じもせず、
それはそれなので。

変化をあげれば
フェイスブックを見る時間は確実に減りました。
ニュースサイトなんかもあんまり見なくなったような気がします。
総じてパソコンの前にいる時間は減っていると思います。

そのかわりノートをとりながら本を読む時間が増えました。

結構いいかんじです。

September 3, 2015

【225】9月3日の夢の話

澪がブログで夢の話を書いていて面白かったので、僕も書いてみた。

===
起きる前、夢を見ていた。

大きな洋風の屋敷に居る。そこの主人らしき人と一緒に書斎にいる。初老の山崎という名前の大学教授の男で、非常に理知的な感じがするしゃべり方をする。ほっそりとしていて、日本人というよりは白人にも見える感じがする彫りの深い顔をしている。

山崎の専門は、詩、文学、哲学といった分野で、批評を書いたり、自分でも作品を発表したりしている。最近やったといって、何かの映像を見せてくれる。どこかのホールを使ったもので、誌の朗読とダンスと音楽が組み合わさったようなもので、僕はそれに見入る。終わると山崎がどうだったと感想を求める。僕はどうにか何かを言葉にしなくてはと思い、

「背景には積み上げられた構築的な景色が、前景には跳躍と躍動感があります」

という。自分でもうまく言えている感じはしないが、山崎はそれでもまずまず満足したようすでいる。

そして、僕はこの山崎の何かに関する評論を雑誌で読んだことを思い出す。その雑誌にはたしか僕の何か、イベントか何かの告知も出していて、それでその雑誌を読んだ。その署名で山崎という名前だと知っている。

人物と名前と書いた文章などが一致して、僕が「あぁ」と声を上げると、山崎も

「そう、それだが」

と頷く。

いつの間にか時間が来ているらしく、

「あぁ、まただ。あれを君とかき混ぜようと思っていたのに」

と残念そうにしている。

あれ、というのは僕にも思い当たって、山崎の作品か何か、今後のプロジェクトで、それに対して、僕のやっていること、考えていることなどを聞かせてほしい。できれば一緒にやりたいと山崎は思っている。「かき混ぜる」というのは山崎の用語でディスカッションするというような意味合いだ。

僕と山崎は何度か会っているようで、僕もそのプロジェクトには興味があるが、果たして自分の力がそれに役立つのかどうかは不安がある。

そう思いながら、広い屋敷の中を山崎に案内されながら、出口に向かっているところで目が覚めた。全体的に時代感のある、映画的な雰囲気が漂っていた。

September 1, 2015

【224】格安SIM生活レポート

昨日から始まった格安SIM生活。低速回線でどういったことが起きるのか、今日一日いろいろと試していました。

総じて、思っていたよりも使えます。

なお、対策として行っていたものは、昨日のエントリーを御覧ください。
【223】格安SIM導入による断続的接続への対策

なお、使用機材などは下記です。
・MacBook air
・Google Chrome(ブラウザ)

1 メール、グーグルドライブ関連

オフライン対策も功を奏したのか、問題なしです。(オフライン設定は昨日のエントリーにて)


2 ブログ更新

このブログですが、こちらも問題なく更新出来ています。


3 フェイスブックの閲覧

ちょっと時間がかかりますが、見れないことはないです。が、快適とは言えないので、今後は見る機会が減りそうです。


4 jimdoでのウェブサイト更新

懸念だったのですが、これも可能です。一つ一つの動作に多少時間がかかりますが、更新できないことはなさそう。ただ、新規サイトを一から構築する場合は、ストレスになりそうなので、そういう時は、高速回線のある場所に移動して作業することにします。


というわけで、今のところ予想よりもいい感じです。

【223】格安SIM導入による断続的接続への対策

9月1日より、自宅のネット回線をADSLから格安SIMに変更しました。
(9月2日にChromeデーターセーバーについて追記しました。ページ下記です。)

SIMはワイヤレスゲートのにしています。
通信速度は最大250kbps。
http://www.yodobashi.com/ec/feature/470005/

ワイヤレスゲートにした理由は「3日間あたり◯◯MB以上の使用で速度制限」といったペナルティ(速度制限)が無さそうなためです(通常の使用では)。
http://www.wirelessgate.co.jp/faq/faq-18.html

ただし、ワイヤレスゲートはドコモ回線(MVNO)を使用しているにもかかわらず我が家の電波状況は必ずしも良いとはいえません。また、SIMをモバイルルータに指して使っていますが、このルータは、古いイーモバイルのGL02Pというやつで、本来であれば利用できるはずの電波帯域の一部が受信できません。ルータを窓際にぶら下げてどうにかつながっています。

ということで、おそらくネット環境は大幅に劣化するはずです。これまでは「そこそこの速度で常時接続」だったのが、「低速で断続的接続」になると思います。

で、可能な対策を取ることにしました。

1 オフラインGmailの導入

これまでは通常のGmailかinboxを使っていたのですが、オフラインGmailを導入しました。見た目はとても簡素で僕の好みです。機能的にはgmailからは大幅にダウンしていますが、通常のメールの送受信は問題なさそうです。送信ボックスに入れられたメールがオンラインになった時に勝手に送信されていきます。ついでに、オフラインGmail同期最適化ツールというのも入れてみました。バッテリー消費が改善されるらしいです。

・オフラインGmail
https://chrome.google.com/webstore/detail/gmail-offline/ejidjjhkpiempkbhmpbfngldlkglhimk?hl=ja

・オフラインGmail同期最適化ツール
https://chrome.google.com/webstore/detail/gmail-offline-sync-optimi/dncjnngcblhgeeocnhmmihpanahkjbmi


2 グーグルカレンダーとグーグルドライブのオフライン設定

スケジュール管理をグーグルカレンダーでやっているので、オフラインの設定をしました(元からなっていたかもしれないですが)。グーグルドライブも設定できます。

・グーグルカレンダーのオフライン設定
https://support.google.com/calendar/answer/1340696?hl=ja

・グーグルドライブのオフライン設定
https://support.google.com/drive/answer/2375012?hl=ja


3 エバーノートとドロップボックスの使用

こちらはもともと使っていたのですが、オフライン利用を前提としたものなので、今後も継続して使っていきます。

・エバーノート
https://evernote.com
・ドロップボックス
https://www.dropbox.com/

4 Chromeデータセーバーの使用(9月2日追記)

以前から使用していますが、ブラウザ(Chrome)のデータ使用量を抑えるデータセーバーを入れています。僕の使用状況では18%ぐらいのデータ量が削減されています。

・Chromeデータセーバー
https://support.google.com/chrome/answer/2392284?p=data_saver_on&rd=1


ちなみにネット接続費用はこれまでの月額約3,000円から500円ぐらいになります。携帯電話代が二人で約3,000円(旧ウィルコムのphs2台)なので、我が家(二人)の通信費は合わせて月額約3,500円です。

さてどうなるかなぁ。
しばらくやってみて、また結果を書こうかと思います。

August 20, 2015

【222】僕の原爆。(6)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)

===
椅子は限界まで並べられていて、会場の後ろ側から前側へと通路を歩きながら、その通路に対して横方向に並んでいる椅子の列のどこかに座ることになる。通路は狭く人一人分しかなく、人が行き交うことも大変で、椅子の前後もぎりぎりなので、すでに座っている人の向こう側に行こうとすると、座っている人が小さくなってもその膝と摺り合い、片足ごとに体のバランスをとりながら歩かないと行けない。だから必然的に通路を前へ進もうとする列はなかなか前に進まない。一般席の前に遺族席があるようなのだけど、それがどこのあたりなのかもよくわからない。とにかく、座れればいいと、それほど前へ進まずに、会場の後ろ近くで座ってしまう。もともと遺族席に座れる資格やそれの証明のようなものを僕は持ち合わせていない。会場のメインとなる場所は遠くてよく見えないが、見えることで何かが変わるという気もそれほどしない。それよりも早く座って自分の場所を確保したい。

むっきーと並んで座っていると、すぐ前に5列ほど空席が並んだゾーンがある。その空席のゾーンをうろうろと歩きまわる女性がいて、団体用に席を確保しているらしい。自分が確保している席に座ってしまった一般客にいちいち説明をしてどいてもらっている。携帯電話で、何人でもいいからとにかく早く連れてきてくださいとイライラとしゃべっているのを聞いていると、こちらもイライラとしてくるのが嫌で、客観的な気分になろうとつとめる。

席を求め、通路を並んでゆっくりと進んでいく人の列の中には、外国人が多くて、人種も様々だ。家族連れも多く、白人の親子や黒人のカップル、民族衣装的な色彩でゆったりと羽織るような服を着ているアフリカ人らしい人。様々な文化と常識をまとった人々。それが、早く座りたい、自分の席はどこだ、という強い欲求を誰もが抱えていて、体が触れ合うような距離に詰め込まれている。自分の国ではこんなことは起きない。こんなに窮屈な場所はない。こういう場合は、もっと広い空間を使う。そもそも、この会場に入れる人を制限して、椅子もゆったりと配置する。なのになぜ? そういう心の声が聞こえそうになり、どこかで誰かが怒鳴り出したりしないだろうかと僕は心の底でひやひやしている。

白い大きな、どことなく絵本で見るサーカスのようなテントが張られたその下にも、だんだんと日差しが通り抜けてき始める。湿度と温度が上がっている。風は弱い。このままどんどん蒸し暑くなっていったらどうしようか、途中で抜け出すには、椅子の列は長すぎる。びっしりと並ぶだろう膝をかき分けながら通路に出るのさえ、難しい。式典中はそういうことができる雰囲気ではなさそうだ。もしトイレに行きたくなったらどうしよう。そんなことを考え始めて、持ってきた扇子でバタバタと仰ぐことぐらいしかできない。その最中も、あの音が鳴っている。

後ろの席に並んだ男の会話が聞きたくもないのに聞こえてくる。隣に座った二人組の若い女性の不快そうな様子が気になる。ここで僕は何かを感じることができるのだろうか。広島までわざわざやってきて、何かを得ることができるのだろうか。暑かった、人が多かった、で終わるのではないか。僕はここへ来てよかったのだろうか。ここは僕のようなものを排除したがっているのではないのか。気が付くと、団体用に椅子を確保していた女性の団体が何人かずつ、班ごとにやってくる。引率の大人に連れられた小学生か中学生で、その小学生か中学生で空席のゾーンが埋まっていくのにほっとしている。不意に管楽器の音が、勢い良く流れ、ひとしきり盛り上がり、あぁそろそろ始まると思っていたら、アナウンスが開始を告げた。通路にはまだ人の列があったが、だからといって何かが困るようなことにはならなかった。

次へ

【221】僕の原爆。(5)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)

===
原爆ドームの横を過ぎて橋をわたる頃からだろうか、低音の体に響く管楽器の音が聞こえる。橋を渡ると平和公園になる。音は少し早足に歩くぐらいのテンポでブォ、ブォ、ブォ、ブォと単調なリズムで、その上に美しい旋律のようなものが乗っかっていない。あるいは旋律というものがあるのかもしれないけれど、あったとしてもおそらくは高音で繊細で、遠くここまでは辿り着かない。あとで近くまで行って知るのだけれど、それはやはりメロディのようなものが極めて希薄で、ただただ重厚さを単調に積み重ねるだけのような音だ。荘厳さという便利な言葉があって、それを思い浮かべては、そうではないという気持ちがしてきて、僕が荘厳さを拒否する。ただ暗く重くたち込めている。しかし、リズムは足を前へ前へと運ぶように刻まれていて、このまま何処かへ連れて行かれるから、それはどこかと思い巡らす。足元に積み重なる低音が体全体を乗せてベルトコンベアーのように、どこかへ僕は行ってしまう。

むっきーと話をしたのかと思いだそうとするのだけど、全く思い出せない。むっきーは確か、少し僕のうしろを歩いていて、大勢の人がひとつの方向へ進んでいるのだから、とても大勢だけど道に迷うということもないだろう。だから、僕はむっきーのことを時々忘れて、ただ前へ運ばれていく。ボーイスカウト、ガールスカウトの子どもたちが献花用の花を配っている。僕は受け取る気持ちにならなくて、一緒に配っていた式典の冊子も受け取れない。何か、まだ、僕にとって途中だ。花や冊子は、何か、もう、終わってしまったことにしている。ただ、女性がおしぼりを配っているところでは積極的にもらうことにした。昨夜、どこかに落としてしまった手ぬぐいの代わりをどうしようかと思っていたのを、おしぼりどうぞという言葉で思い出して、これで都合が良い。夏の暑さが、朝の気持ちよさを追いやろうとし始めているから、まだ凍ったままのおしぼりは、そろそろ、ありがたい。大きな管楽器から響く音が、大きくなってき、密度が増してきている。

びっしりと並べられた椅子が公園を埋めている。式典会場の外を取り囲むように、もう、人垣もできているのに、まだ7時だ。式典までは1時間あるし、式典自体は45分で終わるのに。想像以上の人の多さに僕は圧倒されていたのだと思う。まだ空席があるのが見えると、それほど悩むこともなく、むっきーと一般席へ入る入り口の列に並ぶ。入り口では、持ち物検査をしているけれど、列はどんどん長くなっていきそうだし、検査をしているのはおそらく広島の行政職員で、手馴れている感じはない。持ち込んでいはいけないものが何であるのかは、特に明示されていない。ここまで来るときに見かけた「ドローン撮影は禁止です」というような看板を思い出して、ドローンらしきものを探しているのかとも思うし、空港でチェックされるペットボトル飲料とかだったら、一本入っているけど、リュックの中身をばらしてそれを出すのは面倒だなと焦る。僕の番になって、リュックをテーブルに置いてみたら、お互いに遠慮がちに、危険なものは入ってないですよね、はい、で通り過ぎる。

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August 19, 2015

【220】フリーキャンプが終わって。

そもそも何かが始まったりしていたのかという気がする。終わったという以上は始まっていた。フリーキャンプが終わって、今だ。

最初からあったことが、覚えてはいるけれど、それがいつあったのかは、今となっては分離できずただ、まだら模様の巨大な団子のように、あの人やあの人やあの人やあの人たちやあの人やあの人がいる。

出来事というのは、何か独立して、他からは浮き上がるように、あるということになっているけれど、本当のところ図と地の区別はなく、図と図との輪郭もない。

それを区切っているのは僕の幻想だ。

幻想として、という前提として、僕らは様々な出来事を次々と体験していることにしている。幻想として、僕らは、それを楽しんだり、悲しんだりしている。幻想として、幻聴に耳を傾けるように、自分にしか起こっていないことを愛する。とても個人的な事情に僕らは没入していて、そこから抜け出すことは生きているうちはできない。

誰かがいたり、何かがあったりすることは、すべてであって、それが僕という場所に溶け込んでいる。ここで歩いている。

フリーキャンプが終わって、51分が経過。

August 17, 2015

【219】押し回し理論。

けんちゃんと話している中で出てきたことだけど、本当に何かをしようとするときには「押し回し」が必要だ。

ガスコンロに火をつける時にレバーを押して回すように、ライターの火をつける時にドラムを回してから舌状の部分を押すように、2つのことを同時にやる。

昔、ある年齢ぐらいまでの幼児は、この2つのことを同時にやるというのができなくて、それができるようになった時に、一歩「大人」に近づくという話を聞いたのをずっと印象深く僕は覚えていて、でも今は何でもワンタッチのものが増えた。

ワンタッチのものを「チャイルドレジスタンス」にしようと思うと、ワンタッチと言いながらもう一つ別の操作を付け足すか、そのワンタッチをやたら力がいるようにするかで、前者は電気ポットにあるような「長押しでロック解除」なボタンをつけたり、後者だとやたらと重たいワンプッシュのライターになる。

押して回すという2つのことを同時にやるようなことが、幼児はできない。ある程度の大人になると、自分以外の人に押してもらって、それを自分が回したり、自分以外の人が回してくれるのではないかと思いながら、自分で押してみたり、そして火が付く。

押すという行為の方向と回すという行為の方向が別であるというのがポイントで、2つの異なる方向性を可能にする筋肉と骨の動きが必要になって、ねじれる。このねじれるというところが最近、僕の好きなところ。

August 14, 2015

【218】フリーキャンプの途中で。

何が起こるかわからない。がフリーキャンプだ。

何が起こるかわからない。
というのの「が」は、僕が食べた。
というときの「が」で、「僕」の意思をも含むものなのだけれど、
その意志の主体であるのがフリーキャンプの場合は、
「何」であって、
それが「起こる」、「か」が「わからない」。

「何が起こるかわからない」という文章を「私が」読むとき、暗黙のうちに、

私が、何が起こるかわからない。

という風に、
自分を設定して、
自分にとっての意志として、を読み取ってしまうのだけど、
実際にフリーキャンプの中にいると、
「私が、」の部分は、文字通り無くて、
ただたんに、「何が」が立ちはだかる。

私が、が設定されているうちは、
自分にとって好ましいことや好ましくないことというような、
方向性を持ったものとして読むのだけど、
そういう方向性の起点となる「私が、」すらなくて、
ただ、突如、どこから引き起こされたのか、
どこへ向かっているのか、
どこからも引き起こされないのか、
どこへも向かっていないのか、
がわからない「何が」が、出現し、出現し、出現し続ける。

こういう状況に居続けるのはなかなか大変なことで、
多くの状況で人は、
起点や方向性を予測している。
のがわかる。

この「予測」を前提するのは、自分である。
のがわかる。

自分とは無関係に出現し続ける「何が」は、
その予測を前提する主体とはなりえなくて、
その「何が」は、なんの「予測」も無く、
ただ、ずーんと居座っている。
あらゆる、にへばりつく。

August 9, 2015

【217】僕の原爆。(4)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)

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宛てにしていたお好み焼き屋が、まさか15時までの営業だとわかって、二人して驚いた。よっぽど美味しいのだろう。7時間ほど電車に乗り続けて来たからもう、だからといって次の候補を調べたり考えたりする余力はなくて、宛もなくふらふらと明るいほうへ歩いて行って、適当な店に入ってお好み焼きを食べた。お好み焼きというのは僕らの知っているお好み焼きではないお好み焼きで、それを広島焼きと言ったりするのは間違いだ。言葉というのはそういうふうに多重に使うことができる。
 
むっきーは電車では大体、日本史の教科書を読んでいた。教科書って読むの時間かかるんですよと、線を引いたり、印をつけたり、先のページの索引や資料を見たり、前のページに戻ったりしながら、読んでいて、手に馴染んだ感じになっている山川の日本史がかっこいい。社会科の教師をしていて、この一冊が彼の仕事だ。僕はというと、本の一冊も持ってきていなくて、青春18切符の旅だというのに、でも今回のこの広島行きで本が読めたかどうかは自信がない。そして寝てばかりいた。

お好み焼きを食べたあとは宿になるネットカフェに荷物をおいて、街を歩いた。広島は都市だ。都市的な場であることは、砂洲の上にできていることからも予想はついていたけれど、これほどまでに発達した都市だとは、改めて知った。胡町、流川町、紙屋町、銀山町、袋町、仏壇通り、巨大な繁華街の一角に、リカーマウンテンで買った酎ハイ片手に、不思議にひらいた小さな四角い池があって、鯉が泳いでいる。入れないけれど、池の向こう側はゴルフ場のグリーンのような場所があって、それを眺めながらコンクリートブロックに腰掛けていた。

目を惹く格好のホステスがタバコを買いにセブン-イレブンに行ったり、ちょっとやんちゃな感じの若者がうろついていたり、風俗店のキャッチが声をかけてきたりするけれど、どれもすっきりと、人の動線を妨げず、ほんの少し近寄っては離れていく線路のように、絡まない。ねっとりとした大阪と違って、これもとても都市的で、極めて居心地が良い。いつまでも居れる。いつの間にか1時半になっていて、それでも多くの店が開いている。

朝、原爆ドーム前行きの広電はとても混んでいて、一電車遅らせたがそれでも満員だった。ひと駅ひと駅、満員にさらに詰め込むように進むから、とてもゆっくりで、歩いたほうが早かったなとしきりにいうおばあちゃんは、たぶん広島の人ではなさそうだ。原爆ドームのすぐ横を通り過ぎながら、原爆ドームをこんなに近くで見ることができたのかと今更驚いて、それは今から思えば、チェルノブイリの4号炉と重ねあわせて、勝手に遠くから眺めるものだと思い込んでいた。チェルノブイリの4号炉は四角いが原爆ドームは丸い。原爆ドームそのものよりも、建物の周囲に散乱しているコンクリート片やブロックなどが、まさか今でもその時のままなのだろうかと思わせられる。それとも、年月がたつにつれて、ドームから剥落していったのだろうか。改めて僕は広島に長いこと来ていない。たぶん小学校か中学校の修学旅行以来だ。父親が広島だと言えるほど、僕は広島に来ていない。そう突きつけられた。

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August 4, 2015

【216】僕の原爆。(3)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)

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数日前に電話をして、7月23日に奈良の叔母のマンションへ行く。部屋に入り、まずはと仏壇に線香を上げる。叔母の夫が使っていたものだろうか、医療用のベッドが隣の部屋に置いてある。ちょうど叔母の孫娘、つまり僕の従兄弟の娘が来ていて、一人で静かに本を読んでいる。僕にとって従兄弟はこの子の父親の僕と同い年の一人だけで、つまり、僕の母は一人っ子で僕の父は妹が一人だけいて、その妹がこのマンションに住む叔母で、その叔母夫婦の子供は一人っ子である。

従兄弟が一人しかいないということに何か不都合があったり、寂しさのようなものがあったりするかと言われると僕にはない。お盆や誰かの葬式で田舎に行くと従兄弟がたくさんいて、というよくある田舎の風景としての話の実感はだから僕には全くない。

巨大な身内グループとしての親戚というものを感じるのは、母の実家の秋田の方で、母の母、つまり僕の祖母にはたくさんの兄弟姉妹が居た。それらの兄弟姉妹の父親はその街の材木屋で、母親はその妾だった。料亭の女将をやっていた僕の曾祖母であるその人は僕が子供の頃に死んだのだけど、その葬式はなんとなく覚えているし、曾祖母のことも覚えている。東北特有の口をほとんど開けない不明瞭なしゃべり方でしかも強烈な訛りだったから、僕には何を言っているのかさっぱりわからなかった。葬式では遺体を棺桶にいれて、小さめのおにぎりみたいな鉄の塊で棺桶の蓋に釘をガンガンと打ち付けた。彼女が、僕にとっての親戚という大きなグループの元締めである。材木屋の方は全く面識がないし、そういう話を聞いたのも僕がおとなになってからで、つまり、僕にとっての親戚に含まれていないし、家系というものとしては連続していない。同様に、材木屋の家系には僕たちは含まれていないか、存在しないことになっているだろう。

奈良の叔母は父の妹であるので、そういう秋田のこととは無縁である。テーブルにつくなり、叔母は地図を出してきて、多分ここの角だと思うのよ、そうじゃなければこっちの角か、と切りだした。前置きも何もなく直裁的に話すのに少したじろいでしまったが、この人は実はこういう人だったのかと、いまさらながら思った。そういえば、二人でじっくり話をするのは初めてで、覚えているのは子供の頃、その頃は大阪の狭山に叔母夫婦と従兄弟が住んでいて、よく遊びに行ったことで、その時は叔母と話をするというよりは従兄弟と遊んでいただけで、叔母との会話はほとんどなかった。だれでもそうなのかもしれないけれど、僕は大人とほとんど会話をしない子供だった。僕にとってそうであれば、叔母にとってもそうなのだから、叔母は突然、昔の家のことを、広島の原爆のことを聞きに来た僕のことをどう思っているのだろうかと、余計なことを思い続けていた。

叔母は僕の疑問、当時の家の場所への答えを提示したあと、順不同で思い出したことを次々と話しだした。

まず、その中区大手町5丁目の家で叔母は生まれていない。叔母が生まれたのは原爆から1年半後の昭和二十二年、広島市内の西観音町で、そこは祖母の実家である。大手町の家が原爆で焼けてから、同じ場所に家を建てられるようになるまで10年ほどかかったらしい。それはお金の問題で、なかなか再建できなかったようだ。西観音町の家も、平和大通りの区画整理で移転していて、今は通り沿いの何もないスペースだという。

時系列に整理すると、父が生まれたのが昭和18年だから1943年の8月14日、原爆投下が1945年8月6日、叔母が生まれたのは1947年2月。西観音町の家で父と叔母は子供の頃を過ごし、父が小学5年、叔母がちょうど小学校へ上がるぐらいの年に、大手町の家が再建される。だから叔母にとっても父にとっても、子供の頃の記憶というのは、西観音町の家であって、お祖父ちゃんがよく川で魚釣ってきて庭で焼いて食べたのよ、という叔母にとってのお祖父ちゃんがその家の主で、川というのは太田川だ。

では、この西観音町の家は原爆で焼けなかったのかとたずねると叔母はしばらく考えて、そうねぇそうよねぇ、庭に大きな松が残っていて平和公園に寄付したって言っていたから家は残ったのよねぇ多分。あと、シベリアから持って帰ってきたなんか古いものが残っていたから、焼けなかったのよね。と、家そのものではないものが残っていたことから家も残ったのだろうと言う。家というものはそういうふうに、当たり前にあるもので、それがいつからそこにあったかなんて意識に上らない。

叔母の話も必然的に親戚の話になっていった。特に、叔母の父の妹か姉が満州から子供二人を連れて帰ってきたという話をして、叔母は少し年上のその子供、つまり叔母にとっての従兄弟とよく遊んだことを覚えていた。特にヨシノリさんという人のことは覚えていて、その子は、片親で貧しく新聞配達なんかをしながら広島随一と言われる名門高校を主席か何かの優秀な成績で出て東大へ行って、とても有名だったのよ。その時はそんなこと考えもしなかったけれど、残留孤児になってもおかしくなかった状況だったのよね。お祖父ちゃんがよくその母親を褒めていたけれど、ドラマになってもおかしくないようなことがあったのだろうなと後になってからわかるのよ。

その満州から連れられて帰ってきたヨシノリさんとは、僕は、その後、全く予想しない形で会うことになる。僕が最初に勤めた会社をやめて転職し、大阪ボランティア協会に就職した直後の2005年に大阪ボランティア協会の40周年の記念イベントが有り、そこへ来ていた日本NPOセンター事務局長の田尻さんが、大谷くん親戚に合わせたげるわ、と引きあわせてくれた同センター副代表理事(当時)山岡義典氏、それがヨシノリさんである。お祖母ちゃん元気かときかれたのか、お祖母ちゃん亡くなったんだってねと言われたのかは忘れてしまったが、山岡氏にとっては母の兄弟の結婚相手、僕とって祖母の話をすこしだけした。

この話を当時、父にした時は父も、そうそうと話しだした。何かのシンポジウムで、こっちは社会福祉の研究者として、向こうはNPOの研究者としてともに登壇し、終了後に、もしかして広島ですかと話しかけられたのだという。子供の頃以降、交流はなくなっていたらしい。父もだから山岡氏のことはヨシノリさんと言うし、おそらく子供の頃はヨシノリ兄さんとか兄ちゃんとかいうような呼び方だっただろう。

どういうタイミングだったかは忘れたけれど、親戚の誰それが当時何をしていてというような叔母の話が少し途切れたところで、お祖母ちゃんと父親はどこで被爆したんだろうと僕は叔母に尋ねた。叔母は、家じゃないの、と答えた。

僕が僕の母親から聞いた話では、己斐駅という少し離れた駅だったし、父親の被爆者手帳にも、そう書いてある。父の被爆者手帳のコピーを見せると叔母は、祖母がかろうじて話し残したという1945年8月6日のことを話しだした。

おばあちゃんはずっとお兄さん(つまりは僕の父親)をおぶって歩いていた。その時、己斐町かそのあたりにたぶん知り合いの医者か何かがいて、その人に背中のやけどについたウジをとってもらったりした。その後、太田川沿いを歩いて旭橋あたりで、西観音町のおじいちゃん(つまりは僕の曽祖父)と会って西観音町の家に行った。そうやって歩いている間に川に死体がたくさん浮かんでいるのを見たり、ひどい火傷をしている人をみたりした。祖母は父親を背負っている時に、背中側から熱線を浴びていて、だから、首の後ろあたりの背中にケロイドがある。父親は、頭に当たった頭に当たったと家中で大騒ぎになった。この家というのはだからたぶん西観音町の祖母の実家のことだろう。

叔母の話をまとめると、1945年8月6日午前8時15分に祖母と父は自宅かその付近で被爆した。その後、祖母は父親を背負って知り合いの医者のいる直線距離で約3キロの己斐町まで歩き、治療を受けたあと太田川沿いを南下しているところを旭橋で父親と偶然出会い、実家へ避難したとなる。被爆者手帳はその己斐町での治療記録か何かを下に発行されたのかもしれない。

しかし、これは本当にそうなのだろうか。大手町5丁目の家は、爆心地から直線距離でほぼ1.5キロ。現在明らかになっている爆心からの距離による被害の状況によると、500メートル以内での被爆者はその年の11月までの統計で98から99%死亡。1キロメートル以内では約90%まで低下してはいるが死亡率はとても高い。爆心から1.5キロの資料は見つけられないけれど、それでもかなりの割合の死亡率が予想できる。そんな状況の中、僕の祖母と祖父と父は3人とも生き残り、つまり生存率100%で、最も早く死んだ祖父ですら、昭和45年だから1970年まで生きた。

ウィキペディアに載っている直後の写真は、建物らしきものはコンクリート造りのものが数えるほどしかなく、あとは野原だ。叔母の話を聞いて少しイメージができるようになったのは、8時15分、その瞬間に写真に写っている全域が一気に焼け野原になったわけではなく、その後燃え広がった火災によってそうなったということで、爆発の瞬間の直後数時間、この野原だった場所に多くの人が生きて歩いていた。

祖母と父がその瞬間、どこにいたのか、それについての疑問はともかく、もう一つ疑問が出てくる。祖父だ。

祖父はその瞬間どこにいたのか。祖母や父と一緒にいなかったのか。一緒に居たとしたらなぜその後の行動を祖母や祖父と一緒にしなかったのか。

これについて叔母が知っていることは祖母や父についてよりはるかに少なかった。まず、叔母は当時はもちろん、彼女の父が一体どんな仕事をしていたのかについてほとんど知らなかった。原爆の瞬間、どこで何をしていたのか、どんな職業についていたのかも知らなかった。知っていることは、最初は広島県庁の職員だった、というだけだ。その後転職したかもしれないし、していないかもしれない。それもわからない。

一般に、自分の父親の仕事を知らないというのはあまりない。しかし僕はそれを問いただすよりも前に、県庁職員というところにひっかかってしまった。もしも世界で最初に原子爆弾が投下された場所の行政職員だったとしたら。

広島県本庁舎は当時、別の場所にあった。現在のアステールプラザの付近で、ここだと大手町5丁目の自宅から徒歩で通勤しただろう距離だ。グーグルマップだと徒歩13分。この本庁舎は原爆で壊滅した。

もしも祖父が当時県庁職員であったとしたら8時15分にどこにいたか。ウィキペディアを見て驚いたのは、「当時は週末の休みは無く、朝は8時が勤務開始であった。」という記述だ。戦況が限界まで悪化している戦時中とはそういうものかもしれない。とすれば、県庁も8時勤務開始だった可能性が高い。

祖父は8時15分に自宅から徒歩13分の距離にある県庁で仕事をしていて被爆した。その瞬間以降、県庁職員としてどのような職務を果たしたのか、あるいは果たさなかったのかわからないが、徒歩13分の距離には若い妻と1歳の一人息子が残されていた。祖父が何を思ったのか。

そしてその妻は1歳の息子を背負って3キロ以上、街中が火災と死者と怪我人にあふれている中を歩いた。夫は同行していない。連絡がとれたかどうか、生きているのかどうかもわからなかったかも知れない。会うことができたとしても、夫はそのまま「仕事」に戻ったかもしれない。

叔母は、祖母が当時のことをいかに話したがらなかったかを教えてくれた。叔母の夫は中学の教師をしていた。今から20年ほど前、夫は学校の平和教育の一環として、身近な存在に原爆の被爆者がいることを思い出した。そして、学校でそのときのことを話してくれないかと祖母に依頼した。祖母はそれを聞くなり心臓がバクバクいいだしたという。話すことはおろかその当時のことを思い出すことすら、無理だった。原爆のその日から約50年が経過していたにもかかわらず。

一歳の我が子を背負った背中側から、いうなれば自分はその陰に隠れるように熱線を浴びた祖母。祖母は、背負っていた一人息子の頭に「それ」が当たったことを誰よりもよく知っている。それがただの光ではないことは、その後いやというほど思い知らされる。そのたびにその瞬間のこと、自分の代わりに頭にそれを受けたわが子のことを思い出さされる。大量の死体と焼けていく街、その視界、その臭い、自分のやけどの痛み、ウジが這いまわる感触。

祖父も祖母も父も、結局、原爆のことはろくに話さないまま死んだようだ。いくつもの謎を残したまま死んでいった。当時を知らないものとして僕は彼らから何かを聞き出すべきだったかと問われると、そうは思わない。彼らが話さなかったことは、彼らが話したことと同じぐらいの何かである。何も話さないで死者になった彼らは、今もこれからも何も話はしない。

いよいよ明日、広島へ立つ。僕は僕の原爆を見に行く。なぜか、数日前に広島へいくと友達のむっきーに話したら、僕も一緒に行きますと言い出して、旅路を共にすることになった。

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August 3, 2015

【215】「書生」生活5日目その2と6日目。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。

■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。
【210】「書生」生活2日目。
【211】「書生」生活2日目その2。
【212】「書生」生活3日目。
【213】「書生」生活4日目。
【214】「書生」生活5日目。

===
結局また東山の和室に戻ってきたのは夜中だった。しかも3人で、けんちゃんとぱーちゃんと一緒にフレスコで買い込んだ焼酎とともに。クリップの扇風機は床に転がしてドアの外に向けて換気扇代わりにした。窓からわずかに冷気が流れ込んでくる。けんちゃんが買ったぶどうが一番先に出てきた。しばらく間を置いて、僕の買ったトマトが出てきた。最後はぱーちゃんの買った味噌汁だった。それぞれが一番のタイミングだった。こんなものなんであるんだというようなものが活躍する時は代用が効かない。

和室に来る前は鴨川にいた。鴨川ではなっちゃん、うみちゃん、澪を加えた6人だ。うみちゃんとけんちゃんとなっちゃんの終電がなくなっていたと気づくまでに、2度四条のリカーマウンテンに買い出しに行き、夕方から飲み続けた。終電がなくなって東山に戻らなかった3人は、宇治のまるネコ堂へ行った。

床暖房のような鴨川の河原の石に座って6時前から飲み始める前はマルイの6階のメガネ屋でメガネを作っていたのだけど、これは前日にむっきーがそこでメガネを作ったという話をしていたからだ。この6人が揃ったそもそものきっかけは僕とけんちゃんの雪駄をうみちゃんに選んでもらうということだったのだけど、それは割りとすぐに買えてしまって、僕もけんちゃんも買い物という場に居続けるのが難しい。その逆に、河原があれば河原で飲み食いするのは好きなものを持ってきて好きなだけ居られるからだ。

6人がそれぞれどんな関係かを以下に述べる。

僕と澪は夫婦であり友達である。僕とけんちゃんは友達である。僕となっちゃんは友達である。僕とうみちゃんは友達である。僕とぱーちゃんは友達である。澪とけんちゃんは友達である。澪となっちゃんは友達である。澪とうみちゃんは友達である。澪とぱーちゃんは友達である。けんちゃんとなっちゃんは夫婦であり友達である。けんちゃんとうみちゃんは友達である。けんちゃんとぱーちゃんは友達である。なっちゃんとうみちゃんは友達である。なっちゃんとぱーちゃんは友達である。うみちゃんとぱーちゃんは友達である。

書くことに生きている書生生活が終わったのは、翌朝ぱーちゃんとけんちゃんと別れて僕が自宅に戻った時で、今がもうそうだ。

(了)

August 2, 2015

【214】「書生」生活5日目。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。

■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。
【210】「書生」生活2日目。
【211】「書生」生活2日目その2。
【212】「書生」生活3日目。
【213】「書生」生活4日目。


===
日に日に目が覚める時間が早くなっていて6時だ。しばらくぼっーとしている。木魚のようなアフリカンの太鼓のような目覚まし時計のような音楽音(おんがくおん)が聴こえてきて隣の隣の部屋だ。ドアが開いていて、こちらもドアが開いているからよく聴こえる。短いフレーズのしつこいリピートが続き、2、3回ほどパターンが変わり、その後ひとしきり盛り上がって途切れる。終わったのかなと思っていると、また最初からはじまる。繰り返す。繰り返す。繰り返す。4回。5回。

寝袋をたたむ。畳の上に種類ごとに並べて置いていた小銭を封筒に入れる。普段小銭は持ち歩かなくて、お釣りでもらうだけでもらったお釣りは家や部屋に戻るたびにポケットから出してしまう。クレジットカードが使えればそれを使うから何かの時の保険代わりにカード類に挟んでクリップで留めているお札すらも出番が少なく、小銭はさらに出番が少ない。小銭の交換価値は持ち歩いていることによって生じるわけで、僕にとって小銭はお金というよりはおはじきのようなものだ。そういえばinteresting男は床に並べられた小銭を見るなり、おまじないですか。

他の荷物もまとめてリュックに詰めていく。キャンプが終わった時と同じ気分がしだす。昨夜洗った甚兵はまだ乾いていない。8時過ぎまでぼーっとするために残っていたショートホープを吸う。

みやこめっせで昨日の分の文を書こうと思ったが書けず、たっぷり時間がすぎる。図書館で書く。イオンに昼ごはんを買いに行く。そばが食べたい。一袋35円+税のそばを1袋、一缶100円+税の缶入りのそばつゆ1缶、58円+税の鶏フライ、68円+税のナス天ぷら、同じく68円+税の磯辺揚げをかごに入れて、ビニールの小袋に入った19円+税の天つゆを見つけて、一缶100円+税のそばつゆを棚に戻す。これでもし、そばが美味しく食べられれば、そばつゆと天つゆの差額、(100円+税)-(19円+税)で81円得したことで計算は合っていますか。あとビフィータを1本。

部屋に戻り、お湯を沸かす。乾いた甚兵を取り込んでリュックに入れる。そばを湯通しして、水で冷やして、つゆはひと舐めすると甘く、舐める前までは天つゆの味を都合よく忘れていて、想像の中ではほぼそばつゆの味と同じになっていたのを思い知らされる。慌てず醤油を足す。食べ終わると、メモを書き、廊下にある共用の掃除機で掃除機をかけ、西側の窓を閉め、廊下側のドアを閉め、鍵を掛け、隣の隣の部屋の前にビフィータの瓶と忘れていったコップを置いて、メモを置いて、自分の部屋のブレーカーを落とした。もうここには戻らない、という気分と、次にここへ来たら隣の隣の部屋に声をかけてみようという気分が同時にする。玄関を出る。

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August 1, 2015

【213】「書生」生活4日目。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。

■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。
【210】「書生」生活2日目。
【211】「書生」生活2日目その2。
【212】「書生」生活3日目。

===
銭湯へ行くつもりだったのが昨日は行かなかったので今日はむっきーと銭湯へ行くつもりだ。夕方4時ごろにと約束しておいてある。それが昼過ぎに電話がかかってきてお昼食べに行きません、というのですでにおにぎりを幾つか食べたといいながら食べに行くと答える。昨日と一緒で三条大橋を待ち合わせる。昼過ぎという時間帯で特に今日は日差しが強い。河原を歩くと巨大なプレス機で天と地の両方から熱の塊に押しつぶされている気分になる。ふくらはぎのあたりでジリジリと熱を感じる。息も絶え絶えで三条通につくと何食べますかと言われても未来を構想することはできず、過去を近いところからどうにか参照していく。昨日と同じ中華屋である。

そこそこ頑張っている中華屋のクーラーはだけど汗を止めない。小気味よく立ち振る舞う若い店員が店内のすべてのコップの水位を把握していて、わんこそばのように注いでくれるそばからお冷が喉を通り過ぎて、もう少し行ったあたりからそのままどこかに穴でも開いているのか皮膚に漏れ出ていく。コップの水位が下がり小気味よく立ち振る舞う若い店員がお水入れましょうかと笑顔で言いながら注いでくれ、ありがとうと言い、コップの水位が下がり小気味よく立ち振る舞う若い店員がお水入れましょうかと笑顔で言いながら注いでくれ、ありがとうと言い、コップの水位が下がり小気味よく立ち振る舞う若い店員がお水入れましょうかと笑顔で言いながら注いでくれ、思わず顔を見合わせて二人で吹き出して、ありがとうと言う。

昨日はものすごい負荷がかかっていましたよというむっきーに同意して、昨日のものすごい負荷を二人で反芻する。これから何かが起こる可能性よりもすでに起こったことを重層化できる可能性に向かって、お互いに隅々まで思い出しながら、何度も振り返って見る。これはどこまでも何度でもできそうなので、場所を変えることにして、むっきーのマンションへ行く。澪が夕方から合流する予定だったので、携帯電話でメールする。

エアコンがかっちり働いたむっきーの部屋で、落ちていくような昼寝を挟んで、同じことを何度も話し、同じことを何度も聞く。特にぱーちゃんのブログが素晴らしい。ぱーちゃんは友達である。昨日の夜中に気がついた夕方の着信履歴のあとのぱーちゃんの行動と衝撃が記されていて、期せずしてむっきーと僕との共同幻想的な現場の客観的な記録である。これからぱーちゃんも交えてより詳しく状況を辿り直せるとさらなる芳醇が得られると思い、ぱーちゃんに電話をする。ぱーちゃんはぱーちゃんで僕の昨日のエントリーがまるで答え合わせのようだったと言う。残念なことにぱーちゃんは今夜は人と会う予定があるというので、その話はまたあとでゆっくりと。

錦湯は錦市場近くにある。こじんまりとした小さな古い銭湯で、入るとジャズが聞こえてくる。湯に浸かりながら外が明るいのをぼんやりと眺めている。平日の夕方、まだ明るい。ここから見える景色は、少し前までの時代ならごく普通の時間であっただろうけれどと僕が思い、今となってはと考えはじめると、夏のマジックですねとむっきーが言う。

二人で甚兵を着て、手ぬぐいだけを持って、各国の観光客の間を抜け、錦市場を通り、道のあちこちで吹き出している温風を浴び、四条通を歩き、立ち止まり、藤井大丸の中に入り、出て、なんか買って帰って食べますか、そうだねと言う。フレスコでなすと薄揚げとポテトサラダと木綿と焼酎を買う。

ご飯がちょうど炊きあがった時に澪が来る。なすと薄揚げをむっきーが炊く。ワインとビールと焼酎を氷に入れたり冷蔵庫で冷えていたり、常温のままだったり、飲む。なんていうことのない確かな非日常が、今にも止まってしまいそうになるギリギリのスピードでロードローラーのように進んでいく。ポテトサラダを冷蔵庫に入れっぱなしで最後まで忘れていた。

11時頃になって、澪は家に、僕は東山の和室に帰る。さっき澪から手渡された縁坐の案内文の原稿を読んで、何故か僕が救われた気分になって、書いてくれてよかったと電話で話す。

July 31, 2015

【212】「書生」生活3日目。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。

■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。
【210】「書生」生活2日目。

===
5分ほど待ち合わせの時間から遅れて到着するともう、むっきーは待っていて、11時の三条大橋まで歩いたので暑くて、直ちに向かいのスターバックスへと入った。久しぶりのコーヒーを飲みながら、地下へと降りると、鴨川を見渡せる大きなガラスの前で、ゆったりとした椅子が並んで空いていて、エアコンでキンキンに冷えている。それほど混んでいるわけではなく、ここに一日中居るのが一番良いのではないか。話すともなく話があって、この河原のガラスで囲まれた避難所がスターバックスの目指す所であって、つまり区切られた管理された快適なリーズナブルなお値段の無縁所というのがサードプレイスなのだ。

むっきーというのは僕の友達でトリックスターである。教師をしていて、休みの日も次の授業の準備をしなければならないような一学期を過ごして今ようやく夏休みに入ったからこうして会うことができるけれど、今の僕の生活とは遠い世界にいるのだけど、それでもこうして会っているうちにいつの間にかそばに居て会うのは久しぶりだけれど、こいつといるといつも何かが起こる。

もう一度三条通をわたって中華屋に入り定食を食べる。大学を作るのがいいとか文学部だとか話している。そろそろ出ようかという段になって、どこへ行こうかと言う前に、東山の部屋はどうですかというので、この時間にあの部屋は人間が居られる限度を超えているような気がしたけれど、行ってみる?と言うと行きましょう。

意外にも穏やかに風が入ってきていて部屋に居ることができる。いつも居る6畳の部屋よりも隣の2畳のキッチンの方が涼しくて、そこで焼酎を飲む。常温でストレートでちびちびやっているうちに不思議と風を感じるようになってくる。風がより強く吹いてきたというより、僅かな風を体が感じ取れるようになってきたというようなそういう心地よさで、肌と空気の境目がなくなって、肌が無くなっているから体の芯のところの骨や肉を直接冷やしながら微風が僕たちを吹き抜けていく。

手ぬぐいを濡らして体を拭くとより涼しいと教えるとむっきーはそれをする。かなりの量の焼酎が確実に二人の体内に入っていくのだけど、ちっとも酔わず、アルコールが体内で気化するその気化熱で体が冷えてくる。という馬鹿げて科学的な気分がしてくる。真夏の午後の京都のエアコンも扇風機も換気扇も無い部屋で焼酎が体内で気化して心地よくて自分と自分以外との境目がなくなっていて骨と肉を直接風が通り抜けていって快適、なんてことを二人で言い合うのは明らかに異常で、客観的に見ればこれはなにかとてもまずいことが起こっていると床に寝そべりながら確認しあう。

今こそ、以前どこかでむっきーが聞きつけてきたスイカウォッカを試す時である。イオンにスイカとウォッカを買いに行く。本当はまるごとのスイカに丸く穴を開けて、そこにウォッカの瓶を差し込んでウォッカがスイカに浸透するのを12時間ぐらいかけて待ってから果肉にむしゃぶりつくと何よりも気持ちよく飛べる。という話なのだけど、まるごとのスイカを買って帰る勇気がなくて、六分の一にカットされたスイカを買ってきて、ナイフで少し身に切り込みを入れてそこにウォッカを注いでみる。うまくいっているのかうまくいっていないのかわからないけれど、いつの間にかウォッカがスイカから漏れだしていてお盆にウォッカの水たまりができている。やはりまるごとじゃないと。

焼酎だとあんなに涼しかったのになぜかウォッカは体が暑くなって、それはそうだ寒い国の酒だから体があたたまるのであって、さっきの焼酎は鹿児島だ。さっきはあんなに気持ちよかったのに今は暑いしスイカはたしかに美味しいけれど、ウォッカの味がするスイカなだけで、飛ぶどころか滑走路にもたどり着けない。暑いから二人して上半身裸になってうちわで凌ぐ。せめて扇風機があったらいいのに。

開けっ放しにしていたドアのところから男の声がして、ぎょっとして慌てて服を着て出て行くと、隣の隣の部屋の住人が小さな扇風機を持っていて、これあげますよ。今ちょうど欲しいと思ってたんですよ、と盛り上がると、昼間っから飲んでるんですかと言って、男は部屋に入ってくる。ウォッカの瓶を見るなり、スミノフいい酒ですね。

どぶどぶとコップに酒を注いで3人で飲む。西日が差してきていてさらに気温は上昇しているのに、話は弾んで転がっていく。行きつけの良い店があるので行きましょう行きましょう。今どきツケで飲めるのです。今日は給料日で、その店で受け取ることになっているのです。というので、三条通の居酒屋へ行く。途中の神社の境内で、ここ掃除するんですよというので、仕事ですかときくと、仕事じゃないけど落ち葉が落ちるのでその時期になると掃除するのです。古ぼけた小さな舞台があって、使われている形跡がないけれど、からりと枯れた風情がある。

居酒屋は男の行きつけで、ジョッキが空くたびに男が自分でサーバーからビールを注いで来ては、ねぎ焼きと唐揚げと何かと色々美味しい。しこたまビールを飲んで、あの神社の舞台で講壇とか何かしようという話をして、次の店に行きましょう。ここは払いますから次でというので、ついていくとこれまた三条通の、僕一人ならまず入ることのない、入ることのできない、隠れ家のようなバーで、巨大な特注のスピーカーからレコードのジャズがかかっている。CDを持ってくると嫌な顔をされるんですよ。入る前から僕は場違いなところへきたと怯えていると、何気ない仕草から一瞬でその魅力に取り憑かれてしまう着物姿のおかみさんが迎えてくれる。洋酒がズラリとならんだ棚とレコードがズラリとならんだ棚に品の良さそうな客が数組音楽と酒と料理と会話を楽しんでいる。マスターはテレビ局でニュースのカメラマンをやっていたという飾り気のないぶっきらぼーな人でこちらも一瞬で人を魅了する。

むっきーは全く物怖じせずにいい店ですねと言って、携帯電話で仕事終わりのパートナーを呼ぶ。はじめて会うむっきーのパートナーを、むっきーが可愛いでしょと紹介する。スイカが好きだというむっきーのパートナーとスイカはドラマ3つ挙げろと言われたら入ると意気投合する。スイカに出てくる中庭に何かを埋めたいらしい。スイカというのはテレビドラマで、ウォッカをぶっかけたまま部屋に放置してきたあのスイカを思いだすが、そういう話ではないとても素敵なドラマで全ての登場人物がもう狂おしく愛おしい。

僕はね、キーワードはinteresting、としきりに男は言う。人生はinteresting。生きているとinteresting。驚くような多彩な過去をinterestingに話しつづける。ジャズ好き。

気が付くと信じられないぐらい時間が経っていて、恥をかかすなという男が結局この店の払いもしてしまう。むっきーとパートナーは二人のマンションへ、僕と隣の隣の部屋のinterestingな男はそれぞれの部屋へ戻る。今日という一日は、不思議とか面白いとか興味深いとか幻想的だとかそういうたぐいの言葉では表しきれず、ただinteresting。

携帯電話を部屋に忘れて出かけていて、ぱーちゃんから夕方頃不在着信があったのに気づいたら夜中過ぎだった。悔しい。もらったクリップ式の小型扇風機をどうしてもうまく取り付ける場所がなくて、床に転がったまま回っている。

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July 30, 2015

【211】「書生」生活2日目その2。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。

■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。
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三浦つとむは、

「小説の作者は、空想の世界を想像することで観念的な分裂をしなければなりませんし、この分裂した自分はその世界に登場する人物につぎつぎと自分を変えて、それらの人間として考えたり語ったりしなければなりません」

と書いていてさらに、これが

「たいへんな重労働で、この重い精神労働が続くとしまいには耐えられなくなります」

と書いていて、これは、

「文章を読むのは大変なんだよ。皆、文章っていうのは簡単に読めると思っているんだけどしゃべったり、受け身で音楽を聞き流すことよりもずっと大変なんです。人間が脳で一時期に使える注意力の容量には限界があって、文章を読むというのは、それをかなり使うんだろうと思う」 [『この日々を歌い交わす』佐々木中]

と佐々木中との対談で保坂和志が言っている。同じ佐々木中との対談で、

「私は子猫の動くのを見ていると、いつもハ虫類みたいだ。」

という『生きる歓び』の中の一文を出してきて、

「この文章、変だって言われるのね。「いつもハ虫類を思い出す」とか「連想する」にしろと直しが入る。最近思うんですけど、こう書いていても、そういう風に直せたっていうことは、通じているわけですよね? つまり、読者はここで楽しようとしてるわけですよ。」

というところは他でも読んだ気がするけど、いつも楽しい。三浦つとむが「時の表現と現実の時間とのくいちがいの問題」という節で、例えば、宇宙は永遠に存在する。明朝行きます。といったような現在形の使い方について、ジェリコオの『エプソムの競馬』という馬の絵についてロダンが

「これは観る者がこの絵を後ろから前へと眺めてゆきながら、同時にまず後脚が全般的飛躍を生ずる努力を完了し、次いでその体がのび、さらに前脚が遠く前方の地面を求めるのを眺める、そこから生じているのです。」

として

「私はジェリコオこそ写真を圧倒しているのだと信じています」

と断定するところがゾクゾクする。直しを入れたり、「写真の乾板は決してこのような表現を示さない」と言ったりしないで、読んだり観たりできる。

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【210】「書生」生活2日目。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。

■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。

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すでに、濡らした手ぬぐいで体を拭くのも着ていた服を流しで押し洗いするのも日課レベルにまでこなれてきている。物干し台にシャツとズボンを干して出る。みやこめっせは開いていて、どうやら8時半前ぐらいには入れる。ただしエアコンはまだあまり効いていなくて、でも快適さは外の比ではない。

メールとブログの更新をする。うれしいメールが来ていて、うれしいという返信をする。メールはうれしいものだったというのをメールを使い始めた頃の感覚で思いだす。

どこにどれぐらい居て何をすれば一日が過ぎていくのか、朝から夕方ぐらいまでは構築し直すことができてきていて、ためらわず京都府立図書館に向かう。すると、昨日は開いていたのに今日はまだ開いていない。図書館の扉の前に列ができていた。同じことを繰り返すと、何でもだいたいスムーズになっていって時間が短縮される。そうしてこういう事が起きる。仕方なく列に並ぶと程なく扉が開いた。

本を読み、時々線を引いて書き写す。眠気がやってきて、読んでいたところをさかのぼり、また読んで、また眠気がやってくる。トイレに立って戻ってくる。しばらくして、ふと机の上に小さな紙切れが乗っているのを見つける。置き引きが多発しています。持ち物を放置しないようお願いします。誰が置いたのかと思って、おそらく警備員だ。警備員は警備している。目を光らせている。もしもそのような現場を発見したら直ちに処置するのだ。それが警備員なのだ。もしも、かばんを置いたまま席を立っている現場を発見したら直ちに紙切れを置くのだ。

もちろん現代の事務員も現代のメールも、もともと対象としていたものから引き剥がされ、その対象の未然的現場への作用に戦線を拡大している。膨らみきった戦場で兵士は疲労し、補給は途絶えている。

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July 29, 2015

【209】「書生」生活1日目その3。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。
「書生」が本当は何を意味するかはまだ調べていませんが・・・

■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。

===
本を読む。ネットをする。昼寝をする。この3つへの欲求が順繰りにやってきて、その都度、最適な場所を探すハメになる。冷静に考えると探す必要はなくて、3つともできるみやこめっせのロビーに一日いればいいのだけど、僕はなぜか、本を読むなら一番いいのはどこかとか、ネットをするならどんな体勢がいいかとか、昼寝するときは万が一でも警備員かだれかに途中で起こされはしないかとか、そういうことを考えないでは居られない。みやこめっせのロビー、京都府立図書館の1階と地下1階、国立近代美術館の1階ロビーの外向きに椅子が並んでいるところをうろうろと2から3周はする。
結局どれも中途半端になって、一体僕は何をやっているのだろうという気になる。家にいれば、その全てが文句なく叶うはずなのに、どうしてこんなところまで来て真夏の空気の中を盛大にうろつきまわっているのだろう。

でも、家ではやらない。いや、家で本も読むし、ネットもするし、昼寝もする。でも、そのことが全てになるような意味においてはやらないし、やれない。そういうことを知っているから、わざわざめんどくさくて、うんざりするような不確定と不便を求めてここまできたのだ。もう僕に残る希望というのはこんな、時間や金をドブに捨てるようなろくでもなさにしかない。と、気分がささくれる。

時々意識を失うような眠気を我慢して、ともかく本を読むことにする。そして、そうそう、その前に書生を調べた。もうここまでくれば、書生が何であろうと何でなかろうと、僕の行動に大きな影響を及ぼす要素では無い気がしていて、今はさっさと調べてしまいたくなって調べた。

書生
1 学生。2他人の家に寄宿して、家事を手伝いつつ勉強する学生。[スーパー大辞林]

そんなところだろうとは思っていたよ。

京都府立図書館にともかく落ち着くことにして、三浦つとむの『日本語はどういう言語か』をノートを取りながら読む。モンタアジュ論に言語道具説をバッタバッタと薙ぎ払い、「一切の語」を真っ二つに袈裟斬りに「話し手が対象を概念としてとらえて表現した語」である「客体的表現」と「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語」である「主体的表現」にすっぱり分けてしまう第一部「言語とはどういうものか」。圧巻。 

本書で三浦の「主体的表現」と出会った吉本隆明は、解説で「はっとするほど、蒙をひらいたことを、今でも鮮やかに思いだすことができる」と書く。ここから吉本は主著『言語にとって美とはなにか』に進み、三浦の客体的表現と主体的表現は「指示表出」と「自己表出」へと展開していくことになる。

午後6時まで、眠気で何度も意識が途切れたけれど、そのたびに何かに呼び戻されるようにして読む。明日は第二部「日本語はどういう言語か」を読む。そういえば途中、激しい雨が降っていた。物干し台の洗濯物や開けっ放しの窓が気になったけれど、図書館の空調は快適で豪雨がまるでスクリーンの中の世界のように臨場感がなく、だいたい帰ろうにも傘も持っていないから、雨の中を帰ったら服が濡れて、干している甚兵が仮に救い出せたとしても濡れた服の量はトントンなので、戻る気には全くならなかった。

7時前に部屋に戻ってきてみると、洗濯物は若干湿っていた程度、開けていた窓は風向きが良かったのか被害はなかった。晩御飯を買いに行く気になるぐらいにはお腹が減ってきている。

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【208】「書生」生活1日目その2。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。 
「書生」が本当は何を意味するかはまだ調べていません。

■目次
思いついた時のエントリー

やってみてからのエントリー

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みやこめっせのすぐとなりには京都府立図書館に入るとすぐ右手にウォータークーラーがあってよく冷えた水を飲む。これも無料。何気なく張り紙を見ていたらサービス一覧に「インターネット閲覧」というのがある。これでメールチェックができてブログが更新できれば、重たいmacbookairを持ち歩かなくてもすむ。早速2階に上がると端末が並んでいた。また張り紙があって、利用するにはカウンターへ申し出るようにあって、カウンターの女性に貸し出しカードを渡すと、レシートをくれた。それを持って適当な端末の前に座ると、慌てたようにカウンターの女性がやってきて初めてご利用ですかというので、そうですというと利用方法を説明するといって、A4の紙を渡してくれて、レシートの番号を指さして、この番号のお席をお使いください。1回1時間、1日3回。

利用時間と利用回数は張り紙にも書いてあってので特に気にならないけれど、なぜか座席が決められているのが窮屈に思えて、この辺りから怪しくなって来ていたのだけど、席に座って渡された紙を読むとブラウザの閲覧に制限が掛けてあってメールなどは使えないというところを読んだところで、もうだめだろう。一応試してみると、gmailは接続できません。

さっきまではあまりの都合の良さに驚いていたのだけど、今は、とたんに都合の悪さに驚いていて、これぐらい何とかならんかと思わせられる。良いと悪いが綺麗に対称を描いているこの現象はだから、同じ根っこから生えている。自分の外にあるものはそれが自分にとって都合が良いか悪いかというよりは、誰かの意志が入っているか居ないかで安心度が変わるということで、どんなに都合が良くても僕ではない誰かの意志のもとにそれがなされているのであれば、どこか不安だし、どんなに都合が悪くても誰の意志も関わっていないのであれば、どこか安心する。みやこめっせのエアコンと無料のインターネットは、みやこめっせという意志がもたらす僕にとっての不安がベースにある都合の良さで、図書館のインターネット閲覧の利用制限は、図書館という意志がもたらす僕にとっての不安がベースにある都合の悪さである。不安の上にある驚きのもつ独特の危うい怪しさが僕の居心地を悪くさせる。

お腹が減ってきたのでイオンへ行きおにぎりと焼きそばパンを買う。202円。スーパーのエアコンはどこよりも強力で長時間の滞在を許さない。

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July 28, 2015

【207】「書生」生活1日目。苦手な夏を楽しむための思いつき企画。

僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。
「書生」が本当は何を意味するかはまだ調べていません。

思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

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1日目。
正確には昨夜の10時頃に東山の和室に到着したから二日目なのだけど、まぁ1日目とカウント。7月28日。

昨夜、部屋に着くと、思っていた以上に蒸し暑い空気が溜まっていて、最初からもうこれは無理かもしれないと思う。エアコンも扇風機も換気扇すら無い部屋で止まっている空気を動かすには人力しか無い。外も無風。部屋にあった古着屋のうちわを仰ぎながら、少しでも空気を入れ替えようと部屋の奥側の西の窓を開けて、逆側、廊下側の台所の小さな窓も開けてみる。蚊取り線香をつける。寝袋を出して畳に敷いて薄いクッション代わりにする。

以前買っておいておいたラム酒の小瓶と、おそらくは澪たちが先日泊まった時に飲み残した焼酎を見つける。少しだけラム酒を飲むというか舐めるが、湿度が高くて酒を飲む気にもなれない。とにかく寝る。

朝、目が覚めるとセミが高い音圧でサラウンド。とはいえセミの声で起きたわけではなく、気温が上がって寝苦しくなったからだと思う。高温多湿、加えて高圧。8時。いつもよりかなり早めの目覚め。すでに暑い。手ぬぐいを水に濡らして体を拭いてみるととても気持ちが良いとわかる。朝、手ぬぐいで体を拭くのが日課になりそうで、少しうれしい。こんなに過酷な目に合うのだから、一つでも良い習慣を身につけて帰りたいものだなどと、普段は全く考えないことを考える。

昨日着てきた甚兵の上下を流しで押し洗いしてみる。絞るのが大変で、洗濯機をあまり使わないけんちゃんが、でも脱水機は欲しいと言っていたのを思い出す。部屋の中のカーテンレールに引っ掛けて干そうかと思ったけど、結局、共同の物干し台に干しておくことにする。廊下の先のトイレの横にある物干し台は一応屋根がついているので、雨が降っても直ちに濡れるということもなさそう。

一刻も早く部屋から出ないとぐんぐん気温が上がっていく、という強迫観念にかられて、リュックに本やパソコンなどを突っ込んで脱出する。西側の窓は開けっ放しにして、廊下側の窓も少し開けておいて、昼間高温になった空気が夜早く抜けているように祈る。

部屋を出て玄関を出てみやこめっせを目指す。みやこめっせの前まで来ると、こんなに早い時間では開いていないかもと不安になって携帯電話の時計を見たら8時45分。ここで閉めだされるのはきついと何故か焦る。恐る恐る自動ドアの前のマットを踏むとドアが開く。さらにその奥にももう一枚ドアがあって、そのマットを踏むとドアが開く。すでにエアコンが効いている。ホッとして、本当は何時に開くのか確かめておかないといけない。

ロビーでパソコンを開き、メールチェックとブログ更新。エアコンによる快適な温度と湿度、その上さらに無料で使えるインターネット、この世にこんなに都合のいい場所があるとはにわかに信じがたい。

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July 27, 2015

【206】無能の神。

全能の神がいるなら、無能の神がいてもいいだろう。

無能の神は無能だからできることが無い。できることが無いのだけれど、神だから全てを観ている。観てるだけ。無能の神は全てを観て全てを知りながら何も出来無い。

そう考えるてくると、そもそも全能の神は一体何ができるというんだろう。奇跡を起こすというのならなぜ、四六時中奇跡を起こし続けないんだろう。

一神教的世界から自然崇拝をみた時に、それが無能の神と見えるのかもしれない。何もかもが起こっていることを知っていながら、何も出来無い無能の神。

無神論と言い切れるほど僕は神を嫌っていないし、人の力を過大評価する気もないので、無能の神が今のところ僕の宗教なのかもしれない。

July 26, 2015

【205】『七人の侍』の中の闘い。

何度か観ている黒澤明の『七人の侍』をまた観ている。

何度観てもしっかり感情を揺り動かされるのはもちろん、観るたびに新たなディティールを発見して、さすがクロサワだなぁと思わされる。

今回は特に、村人たちがいかに「和」を優先するかが際立って感じ取れた。娘の髪を切って男に見せかけるといった一人の村人の行動が「村を壊す」とされ、野武士の略奪よりもそちらを重大視する様子は、まさに「日本的」だと思う。同時にその村人たちは、床板の下に落ち武者から奪った武具を隠し持ち、菊千代いわく「米や酒も出てくる」ぐらいずる賢い。このあたり、じわりとした重厚的な現実感がある。

一方で、これは本当にそうなのかと思う部分もある。

野武士の集団は、前年にも収穫時期を狙って略奪している。しかし、いかに武装した野武士とは言え、暴力的に略奪するには大きなリスクを伴うはずで、事実村人は落ち武者狩りができる程度には武装している。単に荒っぽいだけの野武士の集団がそもそも集団を維持し続けられるのかも疑問である。網野善彦的な無縁の視界から見れば、本当のところはもう少し違うのではないか。

野武士の集団は、最初こそ武力を見せつけた略奪を行ったかもしれないが、ある程度農人を怯えさせてしまえば、あとは「乱暴されたくなければ米を出せ」と脅すだけで良いはずだ。野武士も食べていく必要があるのだから、農作物を作る農人を殺してしまうことは自分たちの利益にはならない。できれば定期的に安定した食料を確保できたほうがいいのだから村人たちが飢えない程度に継続的な要求をしたかもしれない。

さらには「もし他の山賊や何かが襲撃してきたら俺達が守ってやる」といった契約を交わし、自分たちの食料供給源としての村を保護し、いわゆる「シマ」としたのではないか。そうやって自分たちの力を温存することで支配地域を増やして行き、やがては「シマの中で揉め事が起こった時は、間に入って話をつけてやる」といった調停役もやっただろう。

野武士の集団は「悪党」なのだけど、この場合の「悪」とは、国家の権力の外において、武力・警察力、司法・調停、税の徴収などを勝手にやるという意味で「国家の権力とその支配下にある社会からみた不都合」という意味での「悪」である。単なる乱暴者の集団というよりは、僕はこういった見方のほうがリアリティを感じる。

そういうわけで『七人の侍』がどういう映画かと言われたら、一つの見方として、農人と侍という有縁の農本主義的で主従関係的支配の中のプレイヤーと、野武士の集団(悪党)という無縁の重商主義的で統治権的支配の中のプレイヤーとの闘いを、後者にネガティブな脚色を加えた上での、前者から観た景色であるといえるのではないか。



July 24, 2015

【204】日本語ができなくなってくる。

言葉というもの、日本語というもの、そういうことを考えれば考えるほど、僕は会話ができなくなってくる。人の話が聞けなくなってくるし、自分が言っていることが人に伝わっている感じがしなくなる。

もちろん、ちゃんと聞くことができて、僕の言っていることも伝わっていると感じる人もいて、そういう人との会話は、なんでこんなことまで見えるのだろうという気がするのだけど、なんでこんなことすら見えないんだろうという気がする人との乖離は大きくなるばかりなのだ。

言葉というものが伝わるのは本当に奇跡的なことに思えてきているから、きっとそういうことになるのだろうけれど、でも、どうしても僕には言葉が伝わるというのが奇跡的なことに思えてしょうがない。

だから余計に言葉への興味が湧いてきてしまって、余計に言葉について考えてしまう。

昔買った三浦つとむの『日本語とはどういう言語か』をふと手にとって見た。10年ほど前に人から勧められて買ってみたものの読み通せなかったのだけど、今なら読める気がする。

こうしてまた言葉とか日本語とかができなくなってくる。


July 20, 2015

【203】単なる怒り(いかり)。

手加減を全くしないで物を投げて砕け散る。

完全に自分の自由になる、
反論することも逃げることもないものを
一方的に破壊する。

人が怒りの中にあるときは、
人が怒っているというよりは、
怒りというものが人の形をとっている。

単なる怒り。
誰が怒っているのかは無く、
何に怒っているかも無い。
ただ怒りがある。

そういう出来事としての怒りに僕はほとんどなることが無い。
ほとんどというのは言葉の綾で、
本当は思い出そうとしても思い出せないぐらい、
怒りは僕にとって、
部分でしか無くあり続け、
要素でしか無くあり続けてきた。

常に複層的に重なっている僕というものの一層でしかなく、
それがどれほど強かろうと、
何層かのうちの一層か二層か。
数種類の鳥と数十種類の草と数百種類の虫と、
が一目で見渡せてしまう庭のように何層にもなっている僕の。

だから、ただの怒りという出来事に出会って僕は戸惑い、
僕自身がそうなること、
キャンバス全てを一色で塗りつぶしてしまうようなことには、
強く嫌悪と警戒を覚える。
その上でなぜか羨ましい。

単なる怒りとしてしか引き受けきれない何かがあるのだと見える。
引き受けるというのは全てをである。
一神教の神のように。

July 16, 2015

【202】281 時間の本当にフリーなフリーキャンプ in まるネコ堂

洗濯物がよく乾く夏。
今年は夏らしいことをしよう。
とどこかでそんなことを思っているようで、
いつもなら何もやる気にならないこの時期にちょっと企んでいます。
フリーキャンプの案内文、こちらにも掲載しておきます。

===
281 時間の本当にフリーなフリーキャンプ in まるネコ堂
玄関から工房を見て。

「なんか、こんなことやりたいなぁ」
「面白そう。やろう」
「で、いつにする?」
「えーと、週末は結構埋まってて・・・」
こういうやりとりが最近多い。

やりたいことや面白そうなことをやるためのやり方として、
以前はいろいろと踏んでいた手続きのようなものは、
最近ではほとんど不要になっていった。
やりたいと思ったことは、
ほとんど実行できるようになった。
しかし、それにもかかわらず、
どうしても残ってしまうやりとりがある。
それが、日程の調整と確定。


僕の言っていることは、 馬鹿げているという自覚はある。
その上で打ち明けるのだけど、
僕はこの「日程の調整と確定」をした途端、
最初に漠然と思い描いた 「なんか、こんな」「面白そう」が、
ざっくりと削り取られる感覚に陥る。
全てではないけれど、 何かが失われる気がしてしまう。

僕は「なんか、こんな、面白そうなこと」を、
それをやりたいと思う人といっしょに、
日程など決めずにやっちゃいたい。
何をやりたいのかもよくわからず、
いつやるのかも決めずに、
それでも、 それをやりたい。
突然訪れる瞬間として、 それをやりたい。
そんなことができたらもう、
これ以上ない幸せだと思う。

そんなことを友人のぱーちゃんと澪と話していて、
フリーキャンプというのに思い当たった。

座布団。
今のところ、一番近いのはこれだと思う。
そして、通常のフリーキャンプ以上にフリーの度合いを増やしてしまうことにする。
これで何が起こるのか、
あるいは何も起こらないのか、
そもそも誰も来ないのか。

1 予め決めているプログラムはありません。参加者がミーティングなどで決めていきます。
2 途中参加、途中退出、中抜け OK。
 (たとえば、8 月 15 日と 16 日だけ参加なども OK。日帰りも OK。)
3 毎日の定期ミーティングと参加者の途中参加、途中退出時点のミーティングを実施します。

鶏の燻製。
予想される事態として、
・ずっと一人で本を読んでいます。絵を描いています。
・今日は仕事行ってきます。まるネコ堂への帰りは 20 時です。
・明日から 2 泊で韓国旅行に行ってきます。
・それなら、私も旅行一緒に行きます。
・今日、外出しますが帰りが遅くなったら泊まってくるかもしれません。

今まで、やりたいと思っていたのにもう一歩思いきれなかったことを、
フリーキャンプとして少し 浮き上がった時間の上でこの際だからやってみる。

僕たちは仕事をする上で、
たとえば月曜日から金曜日を働いて、
土日は休みだとしたら、
月曜日から金曜日までの時間という空間は、
地面から天空まで続く鋼鉄の壁によって切り取られ、
土日の時間という空間と厳然と分けられてしまう。

前の土日と次の土日は、
平日という鋼鉄の壁によってはばまれて連続性を失っている。
平日という鋼鉄の壁の中にいる間は、
なにか、こんな、面白そうなことができる時間はなく、
ただただ、金曜日の夜、
ゲートが開くのを待っている。

開いたゲートの向こうには、
二日間という空間が広がっている。
しかし、その先には再び鋼鉄の壁。
日曜日の夜に開くゲートをくぐらざるをえない。

そんな鋼鉄の壁を飛び越えていくような時間のあり方はないだろうか。
時間の連続性を取り戻し、
雇われて働くような拘束性の高い時間帯も、
大きな連続した時間という空間の中の
せいぜい、ビルディングぐらいにする方法はないだろうか。

スリッパ。
そのビルに入っていたとしても、
屋上の上には、
生まれてから死ぬまで続く、
連続した時間が広がっている。

そういう連続した時間の中で、
改めて仕事という時間を考えられないだろうか。
鋼鉄の壁で区切られていない広々とした空間の中で
働き、休み、なにか、こんな、面白そうなことが
できないものだろうか。

長々と書いてきたけれど、
何も起こらないかもしれません。
昼寝用の座布団はたくさんあります。

案内文: 大谷隆
写真:小林健司、まるネコ堂

一応申し込み方法などはこちらにありますが、
思い立ってふらりとやってきていただけるのも歓迎です。

July 15, 2015

【201】僕の原爆。(2)

【158】僕の原爆。」の続き。

8月6日に広島へ行くことを決めたのだけど、それ以降、その準備のようなことはしていなかった。それがつい先週、ようやく、その気になって、交通手段などを調べだした。そろそろ必要な予約類をとっておかないと行けなくなってしまうのではないかという不安が出てきたからだ。

式典は朝8時からだが、一般席は7時過ぎには満席になるらしい。今は特段、席に座りたいという気持ちはないけれど、その場に行けば座りたくなるかもしれない。6時半に開場だから、それぐらいの時間に行けばいい。

時間的には、まず夜行バスが思い当たる。お金は乏しいので、なるべく安い方がいい。一方で時間は潤沢にある。調べてみると夜行よりも昼間のバスの方が安かった。その差額、約2000円で、格安の宿があるかどうかを調べて見ると、あるにはあったが8月5日から7日は、僕の要件を満たす部屋は満室だった。ネットの予約カレンダーは、だいたいその後少しあいて、お盆休み期間にまた満室の「☓」マークが続く。つまり、原爆の日の前後、広島は宿泊客が特別多いということになる。僕も含めてダークツーリズム客が増えるのかもしれない。あるいは各種イベントへの参加者か。

原爆ドームの古ぼけた白黒写真を僕が初めて見たのは、たぶん小学校の社会科の授業だったと思う。教科書に出てくるこの出来事の象徴的なビジュアルとして、京都府宇治市の小学校で教室にいた僕以外の子どもは、おそらく一様にぞっとするような不気味さや悲惨さをその写真から感じていたと思う。でも僕は違った。広島が僕の父親と祖母の出身地であって、僕とつながりのあるその場所が、こうして教科書にも載っている世界的な大事件の現場であることに、少なからず、今となってはもう「誇り」としか言いようのない、高揚した気分を感じていた。この「誇り」は、今でも僕の中に残っていて、原爆ドームの写真を見るたびに子供の頃の感覚が蘇って、懐かしさと親しみとを感じる。

東浩紀らの『福島第一原発観光地化計画』で僕はチェルノブイリ原子力発電所の見学ツアーがあることを知ったのだけど、その記念撮影ポイントから見えるあの構造物、コンクリートで箱詰めされ、左右の上辺の角が斜めに落ちた文字通り棺桶のようなあの姿に、懐かしさや親しみを感じる人達がいるかもしれない。

宿の予約が取れなそうだとわかると途端に僕はやる気を失った。見てみると高速バスの残席も1や2となっていて、すぐにでも決めないとという気にさせられ、それがさらにやる気を失わせる。僕が僕の原爆に会いに行くのと同じように、同じ日程で広島へ行く人が多いということ自体にどこか興ざめするような気持ちが湧いて来て、それは子供の頃からのあの「誇り」に由来する独占欲のようなものかもしれない。

とは言え、行くということは決めていて、その事自体を撤回するところまでは、僕の気持ちも消えてしまわず、結局、青春18切符を使うことにした。5日の日中に移動して、夜はネットカフェででも休めばいい。翌日、式典に出て、その後、気が済んだら、また6時間半かけて電車で帰ってくればいい。こうして予約を排除する旅程に落ち着いた。

決めてしまうと現金なもので、気が楽になって、式典は8時から始まって45分で終わるから、その後、もう少し広島にいようという気になった。以前から気になっていた父と祖母の家の跡に行ってみるのもいい。僕が幼児のころに祖母と父と母は、宇治の家を建て、その時広島の家は売却されている。売却されているが、本籍地としてはそのまま残してあって、父母を始め僕と僕の弟、妹、全員の本籍地はその広島の家であり続けた。その後、僕は結婚し籍から抜けた。

そんな僕自身の本籍地でもあったその住所を、しかし僕はもうすっかり忘れてしまっている。母に電話をすればすぐに分かるのだけど(母は有効期限が切れた昔の免許証を「便利だから」という理由で持っていて、最近の免許証では本籍という欄はもうないけれど、母の免許証にはその欄があり、つまり母親の本籍は今でも広島だ)、母に電話をする気になれなくて、考えた挙句、実家の父の部屋を物色することにした。

実家は、うちの斜め隣にあって、歩いて20秒ほど。最近の母は、秋田の自分の実家に帰っていることが多くて、時々この家にも戻ってくる。今は居ない時期で、つまり秋田にいる。僕は家に上がると父の書斎の電気をつけて、その手の書類か何かのある可能性が一番高そうな、書斎の奥の机の引き出しを開ける。案の定、広島市中区役所の破れかけた封筒が見つかる。そのなかには何枚かの紙切れが入っていて、たとえばパスポートのコピーなどがある。パスポートには詳細な本籍地住所は載っていない。父は学者らしくこの手の書類をきちんと残している。やがて苦もなく目的のものが見つかる。

戸籍謄本。父は何かの時に取り寄せたのを残しておいたのだろう。広島市長の署名が入っている。父の父、つまり僕にとっては祖父にあたる人が筆頭である。祖父にあたる人、と書いたのは、この人は僕が生まれる前になくなっていて、僕自身は会ったことがないからで、母方の祖父にあたる人も、僕が生まれるずっと前に死んでいて、つまり僕には祖父にあたる人がいない。

戸籍の住所を見ると、広島市中区大手町の5丁目とあった。2丁目か3丁目だと思っていたのは記憶違いだったようだ。謄本の他にも、被爆者健康手帳のコピーがあったので、それを家に持ち帰ってコピーした。手帳によると、父は「満1歳」の時「広島市己斐町」で爆心地から「3.0キロメートル」の場所で被爆している。法第一条による区分は「第1号」。その他の欄、「被爆直後の行動」「被爆当時の外傷・熱傷の状況」「被爆当時の急性症状」「過去の健康状態とかかった主な傷病名および時期」は空欄だった。

グーグルマップで調べてみると、広島市己斐町というのは今の西広島駅周辺らしく、西広島駅自体、以前は己斐駅という名で、1969年に改称されている。以前聞いた母の言葉からすると、祖母と父はこの己斐駅(西広島駅)で被爆したのだろう。それがわかると、ずっとやり残していた仕事がひとつ終わった気分になった。一方、自宅の住所の方は簡単には判明しなかった。戸籍の住所の番地が今の番地とは異なっていて、マップに表示されない。

薄暗く、死んだ当時のまま片付けもほとんど終わっていない父の書斎で、タイプライターらしき文字に手書きで書き加えられた古めかしいその謄本が見つかった時から、僕はすでにちょっとした興奮状態にあって、ここまで来たのだから、どうにかしてその住所に行ってみたいという気がし始めていた。そのために、その家に父や祖母と一緒に住んでいた父の妹、つまり叔母に当時の家の話を聞くつもりになっていた。

叔母は今、奈良に居る。この間、美味しい奈良漬けをもらった。叔母の夫、つまり僕の従兄弟の父親も僕の父親と同じで、去年なくなっている。こちらの一周忌には来てもらったのに、あちらの一周忌は行けなかったので、お線香を上げにもいきたい。叔母の電話番号を探したけど見つからず、結局、さっきかけるのをやめた母に電話をかけて、叔母の番号を聞いた。一瞬、戸惑ったような反応をしたが、母は特に理由も聞かずに教えてくれた。

あとは叔母に電話して、できれば直接会って、広島の家のことを聞けばいい。地図を持って行って印をつけてもらってもいい。いずれにせよ、これで多分、必要な情報は揃った。そう思うととたんにお腹が減っていることに気がついた。

次へ

July 13, 2015

【200】「書生」をやってみる。

「書生」がなんなのかはよくは知らない。

今のところ調べない。ただ、昔読んだ有名な小説に出てきていたといううっすらとした記憶がある。その小説が誰の何という小説だったかもよく覚えていない。僕の「書生」は、特段何かをしているというわけではなく、本を読んだり考え事をしたり友人と話をしたりして過ごしている人ぐらいの意味で、そういう人について僕はぼんやり羨ましい。憧れている。

東山の和室にいると、考え事をしている時間の密度が上がる。近所に京都府立図書館があって、そこで本も読める。時々友人がやってきて話ができればもうそれで僕の中では「書生」である。なにか「書き物」なんかもやるのかもしれない。

考えてみれば、今も毎日、だいたいそんな日々を送っているのだけど、夏の暑さがどうにもならないので、そういうことをもう少しだけ純度を上げて試してみる。こういうことにはっきりとしたことは言えないのだけれど、7月の最後の週あたり、東山の和室でそんなふうに過ごしてみようと思っている。誰か、ふらっとやってきてくれて、あてもなく話ができたりしたらうれしい。

July 8, 2015

【199】竹の箸。

時々竹を削ったりしたくなる。
我が家、というか「まるネコ堂」という名前をつけた場所を訪れる人が以前よりも増えてきている。講読ゼミや円坐、あるいは、特に何かの時というわけでもなく、人が訪れる。それはとてもうれしいことで、僕もうれしい。

そういうふうに人が増えてくると、これまでだったら足りていたものが足りないということも出てくる。先日、庭でホルモンを焼いた時に、竹の箸が足りなかった。足りないというのはその時に困ることではあるけれど、足りなくなるほど使われているというのはとても心地よくて、それなら作ろうという気になる。

昨日までは涼しい雨だったけれど、今日は蒸し暑い雨で、梅雨前線の南側に入り込んだ。前線の南側は夏であり、僕の勝手なイメージの「アジア」である。

雨粒が落ちる音を聞きながら、まとわりつくような湿気の中、竹を斬り、割り、削っていく。庭先に座って、ナイフと竹の棒を動かす。しばらく同じような動作を続けていると、意識がなくなる状態に近づいてくる。ナイフの刃を滑る竹を見続けていて、竹の状態を常に観測しながら、竹を握った手の握る強さや動かす方向、力をかけていく角度を微調整し続ける。頭の機能がそれにすべて費やされていって、現実を現実と認識する機能に頭の資源が回らなくなっていく。現実が現実でなくなっていく。視界が極端に狭くなっていて、ここは「アジア」だなぁと思えてくる。行ったこともないのに勝手に想像する「アジア」。ベトナムやフィリピンやカンボジアやマレーシア。

指が疲れてきて、手を休め、体を起こすと視線が合う。ベトナムやフィリピンやカンボジアやマレーシアといったアジアの国のどこかで、同じ雨と湿度の中、竹を削っている男が、顔を上げてニヤリと小さく笑っている。嫌な感じの笑いではなくて、いつもの仲間に頬の筋肉だけで挨拶するような笑い方。僕もニヤリと目を細めてやる。

その男によると、どうやら仲間は僕らだけではなくて、他にも今、ちょうど一緒に竹を削っている。ベトナムやフィリピンやカンボジアやマレーシアといったアジアの国のどこかに彼らはいて、今、視線が合うとニヤリと笑い合う。同じ雨の中でそれぞれの道具とそれぞれの服装とそれぞれの流儀にしたがって竹を削っている。

僕はまた、視線を落として手元の竹を動かす。小気味よく竹が削れて、くるりと丸い削りかすが足元に一つ、一つ、と増えていく。なるべく慣れた手つきで、手際よく、焦りを見せず、つまりは、これはいつもやっていることで僕はそれを意識しなくてもとても上手にできるのだということを彼らに見せつけてやる。見えなくても気配で、彼らもそれぞれの独特の体の使い方で美しく竹を削っていくのを見せつけてくる。

竹の表面を触って確かめながら、指の力を加減する。ただ竹を手で削っただけという野卑な見た目を演出しながらも、しかし同時に、手に持った瞬間に意外な軽さを感じ、箸先のコントロールもしやすい。そんな箸を目指して、何度も右手で箸を持つように竹を持って確かめ、削りこんでいく。仕上げに近づくと、動作は小さく繊細になる。表面の手触りでざらつきを探して、そこに細かくナイフを当てて、表面を整えていく。置いてある箸を手にとり、何かを摘んでみてまた置く一連の動作に満足していると、

「お前のそういうところ、日本人だよなぁ」

彼らの一人が言い、みんながそれにつられて笑っている。気が付くと雨が上がっていて、見知らぬ仲間たちはもう姿を消している。風が少し吹く。

【198】〈写真〉。写されたものの記録と写したものの記憶。

昔の写真の整理をしている。
残すべきか残さなくてもいいか、そういう視点で写真を整理していく。
ピンぼけだったり、スローシャッターで大きくぶれていたり、暗すぎたり、明るすぎたりする写真は、残さなくてもいいものに分類していく。

その作業もしかし、数千の単位の枚数になると、やがてあやふやになっていく。
作業によって、写されたもの〈被写体〉は増え続け、
一つひとつの〈被写体〉の意味は薄れていく。
同じものがたくさん写され、その価値は低下していく。

一瞬を切り取るのが写真であるが、
〈被写体〉の「その」一瞬が膨大に膨れ上がっていく。

そしてやがて、積み重なった〈被写体〉から意識が逆向きに写し出されていく。
〈被写体〉からの視線が現れてくる。
〈撮影者〉の姿が見えてくる。

すると写真は一気に違ったものへと変化する。

ピンぼけだったり、スローシャッターで大きくぶれていたり、暗すぎたり、明るすぎたりする写真は、その瞬間、確かに〈撮影者〉がそちらを見て、シャッターを切った。

〈被写体〉によって成立している写真は、〈被写体〉が良く写っていることがその要素である。それと同じぐらい〈撮影者〉が良く写っている写真が見えてくる。

なぜ〈撮影者〉はその瞬間、カメラ〈を〉、そちら〈を〉、向け、シャッター〈を〉、切ったのか。

積み重なった〈撮影者〉の行為が写しだされていく。

写真が、〈被写体〉の〈記録〉であると同時に、写したもの〈撮影者〉の〈記憶〉である。

昔の写真を整理している。
今、〈記録〉と〈記憶〉が同時に現れてくる。

July 6, 2015

【197】直面している「それ」。

目の前、眼鏡のレンズよりも顔に近いところあたりに「それ」がある。「それ」は顔の前にいつもある。鉄板のようなものであればその存在に気づくだろうけれど、「それ」は一見透明に見える。ガラスのようなものか、細いワイヤーのようなものか、フェンスや網のようなものか、煙や霧のようなものか、しかしあまりに近すぎて、「それ」をはっきりと見ることができない。見ることができないから無いと思って、「それ」よりももっと遠くにあるものを見たり触ったり動かしたりしている。でも「それ」は常に目の前にあってその存在から逃れることができない。あまりに近いので焦点をあわせるのすら難しい。

文字通り僕たちは「それ」に直面している。直面しようとする意志の有無を確認することは難しいので「直面させられている」と言ったほうが正確かもしれない。「それ」を通してしか僕たちは何も見ることができていない。「それ」の存在は確実に僕たちの行動や感覚に影響を及ぼしていて、「それ」はいつも、外へ向かう視線や行為を妨げたり、外から来る視線や行為を遮ったりしている。

その「それ」がある瞬間、不意に見えることがある。見えると言っても、そこに何かがあるといったような淡い見え方なのだけど、その瞬間は、「それ」がある以上、その向こうにあることをいくら見ようとしても、いくらさわろうとしても、意味なんて無いのだと思える、そんなときがある。

「それ」が見えるという稀なことが起きて、さらに見えた「それ」がどんなふうだったかを何らかの方法で表すことができた時、その表出がなぜか他者に対して、他者自身の「それ」の存在や、他者自身が見た「それ」の描写を呼び起こすことがある。直面している「それ」を見ることができるのは、「それ」に直面している人だけであり、他者が直面している「それ」を見ることはできない。にも関わらず、自分が直面している「それ」についての表出が他者の直面している「それ」と通じることがある。

その、それぞれの直面している/させられている「それ」の描写と「それ」への行為の集合体が「現代文学」とか「現代美術」とかいう時の「現代」である。「それ」はあまりに近く、あまりに高解像度なので、その描写が客観的な意味をなすか、なさないかという段階を簡単に超えてしまうが、その個々の表出の集合としての「現代」は、直前から引き剥がされて、対象として遠ざかる。遠ざかった「それ」の集合体としての「現代」が、再び人にそれぞれの「それ」の存在を思い出させて、呼び起こす。

「それ」は邪魔なものであり、頼もしいものである。諦めであり、望みである。「それ」は自分にだけ直面している。誰もが自分の「それ」に直面している。「それ」の描写や「それ」への行為の方法はそれぞれである。その方法をわずかずつでも見出していくことにしびれるような快感がある。

July 4, 2015

【196】感情的な人と「無縁」の人。

「感情的な人だ」とか「論理的な人だ」とかいう言い方があって、だいたい前者と後者は反対に位置しているとされる。僕はよく「論理的な人」に分類されるのだけど、自分では論理的だとは思っていない。ただ、僕が考えていたり話していたり書いていたりすることは非論理的だけど、それをどうにか伝えようとする際に「せめて論理的に見えるようにしておこう」とは思っている。

それに、感情的の反対が論理的というのにそもそも無理があって、感情的な人の反対に位置するのは、たぶん「無縁」の人だと思う。

感情というのは、人間が社会を持つことに関係していて、さらにそれが「縁」というものにも関わっていると思う。

では、無縁は非感情あるいは無感情かというと、そうでもあるのだけど、でもちょっと違っていて、無縁は「感情というものを扱える」ということだと思う。感情の中にいる人に対して、感情を外に置く人と言ってもいいかもしれない。実際に、そういう目で見ると、無縁の人とされる人々は、人間の社会おいて大きな感情の隆起や陥没を伴う事柄に携わり、それを扱っている。葬送、芸能などなど。

これについては、最近教わったことがある。「無表情」の代名詞とも言える能面をかぶり、微妙な体の運びから見ている人に喜怒哀楽を沸き立たせる能の演者は、演者自身の感情をなくし「カタ」となる必要がある。その空っぽの「カタ」に、見ている人が感情が入るのだという。感情を扱うためには無感情になる必要がある。そしてもちろん能は無縁である。

感情の中でも力が強く安定しているのが憎しみで、愛よりもはるかに「両想い」になりやすい。愛が山だったら憎しみは谷で、丸いボールを山の上に固定するのは難しいけど、転げ落ちたボールは谷底で静止する。憎しみは感情の中で最も強固なものといってもいいかもしれない。

だから、この憎しみという強力な感情に対して「無縁」という立場の持つ意味はきっと重大なのだけど、

と、自分で書いてきて困ってきているのだけど、なんでこれを書き始めたかというと、昨日のエントリーで国家間の紛争についても触れて、でもそれについてはまったく放置してしまった感じがしていて、それに対して何らかの糸口になるかと思って考え始めたのが上記のようなことで、つまり「無縁」が現代においても世界平和につながる有力な何かだと言いたかったけれど、今はここまでしか辿りつけない。

July 3, 2015

【195】憎しみという縁と敵味方のきらいなき「平和」。

昨日の続き。

「憎しみというもののもつ強烈な力だけが取り扱い注意」と書いたけれど、これは国家間の紛争を見ていてもそう思う。もともと資源の略奪というきっかけがあったとしても、それ以降、終わることがない解決の糸口すら見えない状況というのは、純粋に「憎しみ」の流通をやっていることでしかない。

憎しみというものは、強烈な力を持っている。そして、力というのはそれを行使する人にとってある種の満足感、充実感といって良いようなものを発生させている気がする。だから、「先が見えない」「どうして良いかわからない」といった不安定な状況になった時、憎しみの持つ確かな感覚、強い感情の発露、興奮し活性した状態、その高温高圧の状況での「存在感」を欲しがるのではないだろうか。

「お前は悔しくはないのか?」といったように、喧嘩の場で憎しみの感情を持っていない人というのは、その喧嘩に参加していないと見なされる。喧嘩の仲裁はそういう人が行うし、その際に、感情的ではないというのが条件となる。もしも、仲裁者が感情的になってしまえば、それはもうその喧嘩へ参入したことになって、喧嘩という場に存在することになる。そして、仲裁する能力の源である「敵味方のきらいなき」立場は失われる。つまり無縁の存在でいられなくなる。

縁切り寺への「駆け入り」は、他者との離縁を求めてというよりも(これには滞在期間が数年必要でその間にある程度「熱」は冷めてしまうだろう)、もっと切実に目の前で起こっていること、つまり自分の感情の強烈な発露である憎しみ、それからの離脱である「平和」を求めてなされてきたとも言える。

July 2, 2015

【194】分かり合えなさを持ち寄る。

そう見えてるのかどうかはわからないけれど、澪とよく喧嘩をする。
喧嘩をしながら、いったいなにが起こっているかというようなことを考えている。

そして、最近、明らかになってきていることとして、
僕にとって喧嘩をしていて困るのは、
憎しみの連鎖というか、
とにかく憎いということのみがやりとりされるような状況になって、
そうすると、もう文字通りその縁を切ってしまいたくなる。
憎しみという縁は縁の中でもものすごく強力な縁だと思う。
この状況になるともう僕はどうしようもなくなる。

で、その他には、と思って、はたと気がついたのだけど、
それ以外のことについては僕は喧嘩してもたいして困っていない。

何か次の用事が決まっていて、
喧嘩をしているとそれに間に合わなくなるとか、
そういうことがあれば喧嘩で困るのかもしれないけれど、
最近は、そういう困り方もしない。

喧嘩というのは、
喧嘩をしている者同士の見解の相違、
意見の対立によって生じているのだけど、
僕はその見解の相違や意見の対立そのものには
たいして困っていない。

どちらかと言うと、
お互いに分かり合える、
ということに対しての方に疑問がある。

分かり合えない、
ということの方が広大な世界が広がっていて、
そっちの方が面白いし、
なにか希望を感じる。

わざわざ他人と一緒にいる理由なんて、
分かり合えなさを持ち寄るぐらいしか
意味はない気もしてくる。

とすると、喧嘩は
憎しみというもののもつ強烈な力だけが
取り扱い注意なだけであって、
それ以外はそんなに気にする必要もないと思える。

喧嘩はだから僕にとっては、
自分の好きな食べ物を買って持ち寄って披露してみんなで食べる
「持ち寄り食会」みたいなものなのだ。

July 1, 2015

【193】声のコミュニケーションとしてのfacebook。

澪がfacebookを辞めるというので、僕もそうしようかなと思って考え始めた。

SNSを退会するということについてのハードルというか、心理的障壁のようなものについては、以前twitterを退会するときにブログにも書いた。
【009】Twitterをやめてみると決めてからが長い
facebookもほぼそのままあてはまる。ただ、twitterとfacebookという仕組みそのものの違いは自分の中ではっきりしておきたい気がするので、それをまとめてみる。

まず、僕が他人に何かを伝えるときに大きく2つの方法がある。

一つは声、もう一つは文字。

声は「瞬間、目前、肉体」。
声は、その瞬間に肉体によって目前に向けて発せられる。

文字は「永続、遠隔、物体」。
文字は、永続する物体によって遠隔に向けて発せられる。

手紙は文字を扱う死のコミュニケーションで、それが読まれる時に差出人が生きていることを証明できない。どんなに頻繁にやりとりをしたとしても、書かれた瞬間には生きていたということしか確かなことがない。

声による「話」は、発話と発話の間の沈黙ですら、生きているということを確認できる。

まとめてしまえば、声は「生のコミュニケーション」、文字は「死のコミュニケーション」と言える。

facebookは基本的には「投稿する」という文字のコミュニケーションで成り立っている。
だから、死の側に位置するのだけど、手紙や書籍やブログなどの文字メディアでは感じない「生」の息遣いを感じ取ることができる。facebookは、死のコミュニケーションをベースに、生を演出したシステムである。

それは、facebookというシステムが、単に「文字列の投稿と表示」というウェブ上のITシステムとしてではなく、人間関係のネットワークそのものとして構成されているからだと思う。facebookという仕組みは、人間関係という網の目の上を行き来する個々の行動の伝達である。あたかも神経を伝わる信号のような。

「友達」をつなぎあわせ、その「友達」たちの行動、例えば誰かが誰かの投稿に「いいね」した、誰かが誰かと「友達」になった、などの行動を出来る限りリアルタイムに「友達」たちに流通させることによって、自分を含む「友達」たちが今この瞬間もそこに生きて存在(生存)しているように見せかけている。

facebookにログインしていない間、facebook上のアカウントは、ブログのように「死んでいるかもしれない」とは認識されず、単に「黙ったままで動かない目の前に生存する人」のように振る舞う。もしも、現実世界の生身の僕が死んだとしても、facebook上では単に黙ったまんまの人になる。死んだとはみなされない。

twitterは、限界まで微分して、書いた瞬間を読む瞬間に近づける。個人をその瞬間でスライスして、別の個人のスライスとを混ぜて重ねる。それによって人間は、連続性のある存在ではなく、現在のその瞬間のスライスとしてしか存在しない。更に、フォロー、フォロワーという関係はtwitterでは「人間関係」を意味しない。だから、facebookの持つ、画面上に表示されている「友達」たちのような、今も確かに生きているという感じがしない。twitterでの「生」は、川の水面を流れてくる葉っぱのように次々と「今生きている」「今生きている」「今生きている」・・・という断続的な生存確認の更新となる。

facebookは、人間関係そのものを再現することで継続した生を演出している。声のコミュニケーションのように、ログインしていない時、つまり沈黙している時ですら、生きている感覚をもたらしている。すべての「友達」の投稿が表示されているわけではない(エッジランク)という、どこか釈然としない恣意的な見え方も、生身の人間臭さを演出している。

特に目的もなくfacebookにアクセスしてしまう、そのついでにいろいろと「友達の友達」をクリックして見てしまう、というような動作を自分がしてしまっているということからも、facebookという世界に自分の分身が出現している気分がしてくる。こういう、もうほとんど意識的でない、無意識とも言えるようなウェブページの閲覧行動がリアリティを作り出している。facebookという世界に「僕出張所」ともいうべき仮想的な自我=アカウントがゾンビのように出現している。

同じような閲覧行動はtwitterでも生じるけれど、過去の投稿をたどっているようにしか感じられず、facebookのような人間関係のネットワークそのものが常に更新し続けていて、今この瞬間も「友達」が新たな「友達」を得ていて、「友達」が「友達」の投稿に「いいね」し続けているはずであるといったような、更新され続けている現在の人間関係を移動しながら俯瞰的に見ている気分はない。

facebookの画期的なところは、これまで文字メディアが負っていた断続的な過去に対してしかできなかった「生」の証明を、「関係」そのものと文字とを同時に流通させることによって、連続的な現在の生=声に近づけたところにある。

June 25, 2015

【192】岡本勝『禁酒法 「酒のない社会」の実験』

アメリカ合衆国憲法修正第一八条、いわゆる「禁酒法」は、1919年に確定し1933年に廃止された。14年間の「高貴な実験」は何だったのか。
十九世紀末に誕生した反酒場連盟の指導者と、それを支援した企業家などプロテスタントを中心とした市民ーーその多くはワスプーーが、禁酒法運動を通して求めたものは、一言でいえば「改革」だった。それは、十九世紀的社会から二〇世紀的社会への変化に対応するためのものと見ることができる。十九世紀のアメリカは、産業革命が始まり、都市化の進行など近代化を経験したが、基本的にはいまだ小社会的な地方の時代だった。[199]
第一八条とヴォルステッド法が目的としたものは、酒造業者と酒場を淘汰すること、そして一般国民、特に労働者階級に属する人びとの飲酒量を減らすことの二点で、これらの改革は紛れもない社会統制の側面を持ち合わせていたのである。[202]
腐敗の温床としての酒場を淘汰すること、機械化が進む産業社会に労働者を適応させるために「素面」を徹底させること。だとしたら前近代は、もっと「酔った」社会だったのか。実はそうらしい。
産業革命以前のアメリカ社会では、農場や仕事場で一日二回の休息時に酒を振る舞う習慣があり、これは賃金の一部と見なされた。しかし、黎明期とはいえ効率を重視する産業社会において、この「酒類配給(ラム・レーション)」は、黙視できない悪習と考えられた。[26]
本書はあくまでも「禁酒法」の範囲での記述だから、以下は僕の妄想だけど、前近代的な社会は今よりもっと、全体的にぼーっとしていたのではないかと思う。

仕事中の酒も、考え事も、うたた寝も、くだらないおしゃべりも、今よりもっとありふれていたのではないか。

今日も暑くなってきた。風に吹かれて、眩しい窓の外を遠くに見ながら、昼寝をするのも仕事のうちだったのではないか。


June 24, 2015

【191】コロッケ。

手で食べてみた。
じゃがいもと玉ねぎとキャベツをいただいたので脊髄反射でコロッケを作る。美味しい。
5個食べてコロッケで満腹。

June 23, 2015

【190】たとえばこんなふうに書いてみる。

たとえばこんなふうに書いてみる。
どんなふうかというと、
まさにこんなふうに、
今こうして書いているように、
書いてみる。

こうして書いているともうすでに、
いくらかのものが書かれているのを
読むことができる。

読んでいくとやがて、
今読んでいることが今書いているところに追いついて、
今読んでいるところが今書いているところになる。

さっき読んでいることはさっき書いていることで、
今読んでいることは今書いている。

さっき書いたことを今読むと、
こんなふうに書いてみるということを
さっき書こうとしていたかのように読めるけれど、
そうではなくて、
今書いたことを書き続けているうちに
こんなふうに読めるものが書かれている。

書くということと読むということは、
同時にできるし、
書いたことを読むことは、
書いた時から、ずれて読むこともできる。

だんだんと書いていることが長くなると、
そのずれは大きくなっていって、
さっき書いたときの書いていた気分は、
ずっと遠くになっていて、
さっき書いたところを読んでみると、
その遠さが際立つ。

今こうして書いていることは、
今書いているこの一文字の、
次の一文字のことを見ているから、
今こうして書いた一文字はもう書いた瞬間から
たちどころに後ろにずれ始めていく。

ずれ始めた文字たちから発せられる信号のようなものが合わさって、
それが波のようになって、
その波が追い風になって、
次へ次へと文字を書くことを駆り立てるけれど、
ふとした時に、
その風は消えてもう、
次の文字は現れない。

そうしてまた、
風を感じたくて、
さっき書いたところを読む。

読んでいるうちに、
また風が立ってくるけれど、
それはその読んでいるところを
書いていた時に吹いていた風ではなくて、
別の風で、
別の風は過去の風で、
そのことがわかっているから、
もう切ない。


こんなふうに、こんな風に書いてみる。